龍の下不動尊 〜 尻高城址 〜 東谷風穴



小野子山ゴヨウツツジハイキングの後、前回行けずじまいだった尻高城址を探してみました。



    


しかし、「泉龍寺の前の道をそのまま上に行く」という情報通りに進んだはずなのに、どういう訳か尻高城址がある尾根の裏側に行ってしまいました。そこには「龍の下不動尊」という看板があり、折角なので寄ってみることにします。うわっ、ライフルの薬莢が。これはすごい秘境へと続いているのでは…?



      


と思いきや、ガレ場の先はすぐに行き止まりの滝となっていました。ここが、「龍の下不動尊です。





遠目で見ると、優しい表情なのですが、近くで見るとやはり不動明王様の忿怒の表情をしています。不動明王の憤怒の表情は煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うため、また穏やかで慈しみ溢れるお釈迦様の心の中にある、護法の決意を秘めた鬼の覚悟でもあるそうです。他にも、我が子を見つめる父親としての慈しみ=外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであるとも言われます。



  


北向観世音(福蔵寺)ホームページ、滝の下不動尊のこと
http://www9.wind.ne.jp/kitamuki/muryoukannkouannnaizyo.html


 「嘉永丑子季 上州群馬郡上尻高村 別當 福蔵寺 六月二十八日 氏子 熊野 依火 並木 中島 八王子 入沢 講中」と読める不動明王は160年以上前のものです。この歴史的財産をなんとか守りたいものです。
 高山村と中之条町の境に沢が流れています。その源流というか山中に「瀧ノ下」という場所があり、石像の不動明王が祀られていると聞いていましたが、場所はわかりませんでした。
 ところが、その沢の周辺の雑木が伐採され、杉山が間伐されたので、近くの林道から不動明王が見えてきました。
 それではと、この不動明王を彫った小池石材の親方(社長)に話を聞いてみました。

 「高山と大塚(中之条)の境の北山に瀧がある。そこは「瀧ノ下」といわれる所で、沢の両傍(りょうわき)に高山分と大塚分の石像の不動明王が祀られていたが、大水が出たときに大塚分の不動明王が流されてしまった。

 それで、昭和25年頃に篤志者に頼まれて不動明王を彫った。当時は車が通れる道がなくて、人が背負って運んだが大変だった。今は林道もできて車も通る。久しぶりにここに来てよかった。」

 高山分の不動明王は、大水で流されてしまうような瀧壷のすぐそばにあります。大塚分の不動明王は、沢から離れた絶壁の手前の高い所に祀られています。どちらの不動明王も風格がありありがたいものです。

    


ここの断崖には上部までツル植物が伸びていて、伝れば登れそうですね。いやどうかな…
では不動明王様、私たちは探し物にもどります、またいつか、お元気で…



    


13時前から探し続けて、(滝の下不動尊に寄り道したものの)尻高城址への入口を見つけたのはなんと15時を回っていました。他のインターネット投稿記事をあてにしたのが間違いでした。尻高城址の入口は泉龍寺の600m位上の左側にあります。

(国道の入口にあった看板)尻高城(要害城・並木城)


 尻高城とは、平時の里城(通称並木城)と非常時としての山城を合わせた呼称である。
 山城としての尻高城は、北東へ1.5kmの小屋地区北面に位置する岩上の要害城で、土地ではここを「ゆうげい」(要害の転訛)ともいう。応永8(1401)年白井城主長尾重国の家臣により築城、同10年完成、三男重儀城主となり、尻高氏を名乗り左馬頭と号した。
 尻高・大塚・平・赤坂・市城までの、2024石を領有し、威勢は盛んであったが、築城から滅亡まで約180年、武田・上杉・北条方の勢力の争点の中にあって苦難を続けた。
 山城跡は四面急峻なる地形にて、本丸・二の丸・その間を隔てる堀り切りや幾つかの小郭から成り立ち、現今も6基の石宮と切り石(貯水槽)があり城の形を残している(平成元年十一月三十日村指定)。
 並木城(北東へ300m)は尻高氏の平時の居館として築いた里城で腰曲輪の部分・武者走り部分は認められるものの、基部の掘り切りもなく、郭外との郭絶も不十分で、古い館城と思われる。現在は石宮1基だけが存する。

    


しかし、ここには駐車場がありません。案内板通りだと、どうも民地に駐車することになるので、そのまま登ってみました。休耕畑があったりしましたが… おや、墓地です。随分しっかりしています。もしや尻高氏の?



    


結局、民地に車を停めて登ることにしました。それにしても1台しか駐車できません。泉龍寺さんに駐車させていただき、歩いてくるしかなさそうです。また、現地看板の尻高城址の地図は、かなりアバウトなので要注意。私は、「吾妻郡城塁史(山崎一、山口武夫著)」の尻高城址地図を持参しました。



    


最初は孟宗竹の竹林。途中に稲荷社があります。探索用の道ではありませんので、整備はされていません。



      


看板に従い右折して、作業用の道を登って行きます。普通の登山道といったところです。尾根っぽいところに着くと、右方向に石祠がありますが、そっちではありません。左に進みます。





出ました、大きな堀切です。まず入口のここで食い止めなくちゃ、ですよね。



    


元々の尾根地形に堀切、腰曲輪、盛土等の造成跡が見られます。



    

(尻高集落内案内看板より)尻高城跡


尻高城(応永8年(1401)〜天正8年(1580)) 応永8年3月白井城主長尾重国の家臣により築城が始まる。
同十年完成。重国の三男重儀城主となり尻高氏を名乗り左馬頭と号す。
小屋の村落の東北方の「ゆうげい」と呼ぶ岩山がそれで最高所が本丸、その東4mほど低く一つ掘切りを距てて二の丸がつく。
本丸は径40m、二の丸は東西100m幅数m東端には5m低く腰郭がつき断崖に終わる。
西は数段の小郭から成り西南に離れて5mほど下に別の一郭がある。離れて北側に馬屋と称する所あり。

      


この城址にも獣のため糞が。戦国時代の城址は完全に獣に乗っ取られてしまいましたね。



  


本丸の石祠。武田氏、上杉氏、北条氏の狭間にあった尻高氏はどんな思いでここで敵軍を待ち受けていたのか…



    


モミの木を越えて、堀切を越えて、二の丸へ。二の丸が本丸よりも奥にあるのは逃げる時のため…でしょうか?



    


石祠も、二の丸の方がたくさんあります。全て南向きに設置されています。



    


二の丸からの帰りに見つけたインターネットのアイコンのような石。お目めさんにご挨拶。





尻高氏は1563年真田幸隆岩櫃城責め、1565年嵩山城攻めの際には上杉方として吾妻斎藤氏に味方していました。同年に武田信玄が信州佐久の名刹・新海大明神に納めた攻略祈願の願文には箕輪、惣社、白井、嶽山、尻高の5城が名を連ねています。たがて1571年には幸隆に攻められ、武田方に一時的に降参するも上杉方に反転、白井城の長尾憲景氏に従うが1574年には武田軍の海野三河守幸貞(海野能戸守輝幸の子)、真田軍に攻略(武田軍に割田下総、唐沢玄番、富沢備前の名あり)される。そして1580年には北条方として(別の城で)真田軍と戦うが力及ばず、180年間続いた尻高氏は滅亡しました。


尻高氏は、一貫して武田氏・真田氏に対峙していたという、見上げた一族でした。戦国時代の当時、最も戦に強く人望があるとされた武田信玄に徹底抗戦したその背景には、何があったのでしょうか。



  


城後も石宮も、何も語ってはくれません。全ては夢幻の如し。ありがとうござました。気をつけて帰ります。



    


高山村ガイドの市村様が、帰りの急坂、膝にくるから、と心配してくださいましたが、それほどのものではありませんでした。あれ、タケノコ。わざわざ掘り出してあるのに、食べないのかな?



   


    

昨年の11月末の上毛新聞に、こんな記事が載りました。


中之条が来年度から蚕種貯蔵の東谷風穴を整備 


 中之条町教委は28日までに、国指定史跡の蚕種貯蔵施設「東谷(あずまや)風穴」(同町赤坂)の保存整備に乗り出す方針を決めた。来年6月の世界文化遺産登録を目指す「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産である「荒船風穴」(下仁田町南野牧)と同時に国史跡に指定されたが、世界遺産候補から外れたため荒廃したままになっていた。2014年度内をめどに保存管理計画を策定し、風穴が使われていた当時の景観に近づけるよう整備する。

 東谷風穴は東谷山北面の中腹にあり、明治時代後期から昭和初期まで使用された。地名から栃窪風穴とも呼ばれる。蚕種の貯蔵能力は10万枚とされ、県内では荒船風穴に次ぐ規模を誇った。10年2月に「荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡」として国史跡に一括指定された。

 東谷風穴は2007年に富岡製糸場が国内候補地の「暫定リスト」に記載された際の構成10資産に入っていたが、県が世界遺産登録の傾向を踏まえて構成資産を絞り込む中で候補から外れた。

 その後、風穴は荒れたままになっていたが、町教委は貴重な絹産業遺産である東谷風穴の価値や歴史を伝えるため、計画的な保存管理に乗り出すことを決定。今月18日には荒船風穴の保存管理計画策定に関わったメンバーを中心に計13人で構成する策定委員会を発足した。

 折田謙一郎町長は「世界遺産候補からは外れたが、荒船風穴と同等の評価を受けている。先人の知恵を今に伝え、近代化を担った地域の誇りを大切に保存していきたい」としている。


てなわけで、様子を見てきた次第でありますが…





これは、確かに荒れております。整備したほうがいいですな、ハイ。



    

(現地看板より)国指定史跡 荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡(東谷風穴)


風穴とは、山腹にある岩の隙間や横穴から冷風が吹き出す場所のことで、東谷風穴もその一つで、周囲が低音に保たれるため、明治の終わりから昭和初期にかけて蚕種の保存に利用されてきた。

 東谷風穴は、東谷山(あずまやさん)の中腹(標高約680m)にあり、吾妻郡(旧)東村の奥木仙五郎氏、中之条町赤坂の綿貫形次郎氏らが中心となって、明治40年に蚕種貯蔵業を始めました。主となる一号風穴は、風の吹き出し口の周囲を石垣で囲んだ地上一階、地下二階の建物で一階は整理室、地下一階は冷蔵(蚕種保存)室、地下二階は氷庫として使用されていた。
 第二次世界大戦後は、電気冷蔵設備の普及や蚕種製造業者の合併などにより使われなくなったが、蚕種保存が養蚕技術の発展に果たした役割は大きく、大道の富沢家住宅とともにわが国を代表する養蚕業の近代化遺産として貴重な文化財である。

    


風穴の近くに行くと、足もとにひんやりした風が流れてきました。氷は今は使っていませんから、本来の意味、自然状態での風穴の現象が起こっていました。それとも、この岩の下には万年氷があるのかな?それにしては、ちょっと標高が低いですかね…






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