高山村(吾妻郡)と中之条町のエコツアー、エコツーリズム素材を探索



午後から時間をとって、高山村(群馬県吾妻郡)のエコツーリズム素材を探索してきました。



  


まずは、高山村に新しくできた道の駅「道の駅中山盆地」へ行き、情報をチェック。
「高山温泉ふれあいプラザ」にあります。http://www.takayama-kanko.jp/





それにしても、この場所から見る小野子山〜中ノ岳〜十二ヶ岳は印象的です。来週には高山村主催の小野子山ゴヨウツツジ登山イベントがあるらしいので、行ってみようかな。



    


小野子山のとなりには、子持山が。県立ぐんま天文台も見えます。



    


まずは、気になっていた「泉龍寺の高野槙」へ。国道145号線を中之条町方面へ少し戻ると、右手に看板が立っていました。ここを曲がります。おや、尻高城址もこの辺にあるようですね…

看板から1kmも走らないうちに、泉龍寺はありました。看板「曹洞宗熊野山泉龍寺由来記」には、泉龍寺は大同年間(806-810)に弘法大師が開いた字関田にあった名刹・龍海山泉照寺(真言宗高野山)が始まりなのだそうで、その後、曹洞宗に改宗し、行基菩薩草庵の御霊地と伝えられる現在地に文禄元年(1592)に移転したのだそうです。





本堂の裏にあるのが、群馬県指定天然記念物 「泉龍寺のコウヤマキ です。でかっ!


このコウヤマキは、建久年中源頼朝浅間山麓まき狩りに来た際に常磐の塔墓参りの折り泉龍寺に休息し裏庭に自ら植えたと伝わっています。


樹齢  約800年
目通り   6.3m
根回り  13.8m
樹高   29.5m


日本一といわれている愛知県の国指定重要文化財甘泉寺の高野槙に勝るとも劣らない巨木だそうです。


甘泉寺の高野槙 http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=190972
うん、確かに劣っていません。すごい巨木が高山村にあったのですね。



    


ぐるっと一回り。コウヤマキはかつては世界中に広く分布していたが、現在では日本と韓国済州島にだけ残存しているのだそうです。木曽より西に広く自生し、材は桶、船材、橋梁材として優れ、樹皮は「まいはだ」と称し水槽、船などの隙間をふさぐのに用いるそうです。世界三大造園木の1つで、木曽五木の1つ。古代には、棺材として最上級とされた。弥生時代古墳時代には木棺として用いられていたそうです。和名は、高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来し、高野山では霊木とされているそうです。



    


    


順番があべこべですが、泉龍寺の境内を散策。お寺自体はこぢんまりしていて、本堂も割と新しいのですが、あのコウヤマキ巨木の他に弘法大師源頼朝浅間野の巻狩り伝説が出てくると、石仏たちもなんだか違って見えてしまいます。



    


泉龍寺から国道に戻ろうとすると、すぐに左に「尻高城址(並木城)」という看板が見えます。ここ左折すると、間もなく「並木城跡」の看板があります。

並木城跡

尻高城の里城であるが、現在は城跡のみである。南からの比高は10m以上、東からも5m高く、この両方向には腰曲輪様の部分も認められる。
東から南に、幅25m長さ100mの鍵形の部分が武者走りで、その西の4mばかり低いところが居住区であろう。この地を治めた尻高氏の本拠地である。応永十年二月(1403)竣工。
 平成12年3月 高山村教育委員会(撰文 松井正八)

    


下から見えている丘の全容が全てであり、登ってみても掴みどころがありません。周囲は明らかに利用している民地で、徘徊することもできません。石祠が数個ありましたが、ちょっと人を連れてくるにはしんどいところです。



    


その後、昨年11月10日に実施された「第2回三国街道新田宿復活祭」で上田市の真田鉄砲隊を招き演武したという、三国街道新田宿に行ってみました。うわっ、凄いですね。ここだけで高山かるたの札を三つも使っています。




(看板より)
平成十年度 国登録文化財 平形家住宅門屋(旧中山郵便局)

 この住宅門屋は、三国街道中山新田宿本陣の長屋門として、江戸時代末期に建てられ、郵便制度発足後間もない明治6年、旅籠の一部を改造し中山郵便局として開局、昭和41年まで使用された。

 伝統的な二階建て木造建築で、江戸時代の問屋としての旅籠の客室と、幕府公用便を扱った本陣が、新しい時代の郵便局に変わっていった様子を伝える貴重な建造物である。

 平成十九年十二月 高山村教育委員会(撰文 平形作太郎)

    


本陣とは、江戸時代以降の宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家です。基本的には「宿屋」として営業し一般客を泊めることは許されていなく、宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かったのだそうです。平形家の広いお屋敷の中には、樹齢600年、幹周り9m以上の大ケヤキがあるというのですが、敷地内でも奥の方にあるらしく、塀も高く外からはわかりませんでした。ケヤキ大木がたくさんあることだけはわかりました。



    


      


帰りに、国道145号線沿いにある「北向観世音(福蔵寺)」にも寄ってみました。永保元年(1081)行者熊野坊の開創だそうで、修験道の寺院だそうなのです。修験については戦国真田シリーズの次に私が本格的に取り組もうとしているもの。ひと段落したら、ぜひご挨拶に伺いたいと思っています。


北向観世音(福蔵寺)ホームページ
http://www9.wind.ne.jp/kitamuki/


どういう関係か知りませんが、八代亜紀さんの書いた画がたくさんあります。この不動明王八代亜紀さんが彫ったのでしょうか?熊本県八代市出身ですよね?私も好きな芸能人ではありますが、うーむ…



  


福蔵寺の裏手には名久田川が流れています。その断崖が、とても気になる形状が現れています。仏様の被り物のような…。尻高のこの付近に、妙に寺院や神社が多いのは、この被り物地形が関係しているような気がしてなりません。



    


    


すぐ近く、国道沿いにある西向観音堂。ここは中之条町になります。由来記には榛名山大坊満行院菩提寺よりこの地に分かれたもので、9世紀弘仁年中に無量山菩提寺と称して草創されたものだそうです。応仁の大乱で中絶後、十六世紀大永年中に再興しました。吾妻三十三番観世音札所のうち、最古の霊場とされているのだそうです。


また、「吾妻の巡礼〜吾妻三十三番観音縁起〜」には、興味深いことがいろいろと書かれていました。永延2年(988)3月15日に、花山天皇が十一人の高僧と共に坂東三十三番観音の水沢寺(渋川市)を訪れた際に、熊野権現が突然現れ「心が荒んでしまった吾妻の人々を救いたい」と言い、同年4月18日から7日間で三十三番観世音聖地を制定された。しかし中世南北朝時代応仁の乱と乱世は続き、元禄3年(1690)に荒れ果てた道を開いて巡礼を再開したそうです。

中世においては小野子、村上の2村が吾妻郡に入っていたそうですが、徳川時代になって郡域が変更され、それに従って小野子と村上の札所は吾妻郡のお堂に変えられたのだそうです。



    


面白い。高山村尻高は神仏の聖地だったのですね。熊野神社も近くにありました。


熊野小道(北向観世音(福蔵寺)ホームページより)
http://www9.wind.ne.jp/kitamuki/muryoukannkouannnaizyo.html


熊野小道。一周どのくらいかかるのか、調べてみたいものです。



  


帰りに、「百瀬の水牢跡」にも寄ってみました。

中之条町史跡 百瀬の水牢跡

水牢は人を水の中に入れる水責めの一種でおもに年貢の取りたてに使われたといわれる。水牢跡は近世の沼田藩の中で吾妻東部だけに残されている遺跡であり、八ヶ所ある中でこの跡がもっともよく原型を残している。記録には12m四方に粗朶をゆい、木戸を設け、周囲は石垣で、女は水を70cm位にし、子どものある者は背負わせ単衣にさせ5人ぐらいを袖に通してつなぎ入れたといわれる。男は首のつかるまで入れたといい、体温低下により死んだ者もいたといわれる。この悲惨な姿を見て、人々にすがり年貢を納めたのだといわれている。吾妻東部にしか見られないものなので、中世における岩櫃城主斉藤越前守(岩下衆)が使ったものと推定され、それを近世になり真田伊賀守も使っただろうと考えられている数少ない遺跡で貴重なものである。


東吾妻町にも「池の薬師水牢の跡」というものがあり、あちらは沼田藩真田伊賀守の悪政を物語るもの、とされていて、斉藤越前守の名前は出てきませんでした。中之条町東吾妻町では吾妻太郎斉藤氏・真田氏の認識評価が違うのでしょうか。このあたりも興味深なところです。






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