戦国真田の岩櫃城跡探検隊 第十一弾に参加しました。



東吾妻町の春の(秋も)風物詩、戦国真田の岩櫃城跡探検隊が開催されました。このイベントは東吾妻町の戦国城址や歴史の啓蒙や、潜龍院跡の保全作業などを行っている地域おこしグループ「あざみの会」が企画運営しています。今年から岩櫃城興亡史(http://www.denno2488.com/)を運営している「東吾妻城壘史研究会」の富澤朗会長があざみの会会長にも就任しました。冨澤さん大忙しです。



  


今回の参加者は約70名程とのこと。開会式の後、2班に分かれてバスで移動しました。



  


伝承によると「永禄六年(1563)10月、武田氏は岩櫃城一斉攻撃に移り本陣を三島の類長が峰に据えた…」そうです。類長が峰は岩下城址吾妻川対岸に位置しています。類長が峰からは岩櫃山が邪魔をして岩櫃城は見えないのです。


また、岩櫃城興亡史(http://www.denno2488.com/)によると、真田氏が吾妻に侵攻する前、根小屋城主(江見氏)が天文(1532-1555)或いは弘治年間(1555-1557)に岩櫃城主と争って信州に落ち延びた…という文書があるそうです。根小屋城も岩下城と対岸する位置にあり、真田氏が来る前に岩櫃城とされていたのは、実は岩下城だった…方が、都合が良いこともあるようです。



   


小池医院の西にある路地を北に入ります。



  


やがて、右側にこんもりしたドーム状の小山があります。これが岩下城址





岩下城(西郭)の西側はこの急坂です。とても攻められそうにありません。



   


林道岩下山田線を北に進みます。古い石垣遺構がありますね。



  


林道岩下線を南(右)へ進むと、岩下城の追手口と思われるところに出ます。ここから城域です。



  


おや、このあたりでも1783年浅間山噴火の軽石が降下したのですね。



  


岩下城の見どころ、大堀切。西郭側が明らかに盛土され、土塁となっています。こちら側(東側)からの攻撃に備えています。



  


土塁を上って、



  


西郭の二の丸で冨澤さんの解説。鎌倉〜室町時代は、戦になったら山城に立て籠もれば持ちこたえられた、それが有効な手段であった。しかし、鉄砲が出てきて戦い方が変わってきた…のだそうです。



  


私は、その間、周囲を探検。腰曲輪が見事です。何段も下に続いていました。



  


最後は急崖になります。郭の中には非常に小さいものもあります。おや、動物の巣ですね。



  


本丸の西にある曲輪は結構な広さがありました。来た道を戻って、





大堀切を渡ります。



  


東郭(第二郭)から、南に進みます。





切岸を降りる映像。うん、探検っぽくていい!





午前中もたっぷり探検させていただきました。



  


本間さんによると、切岸の上には柵を設け、その上から石を投げつける戦法が取られていたそうです。なるほど…


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午後からは、私たちは柳沢城址のコースに参加しました。



  


不動沢を渡ると、



  


ヒカリゴケ自生地があります。今年は良く光っていました。



  


作業用林道を北から回り込みます。



  


やがて、柳沢城の水の手と考えられているところがあります。





柳沢城址の見どころは、この形の整った大きな箱堀です。箱堀は通路と兼用して使われることが多いそうです。



  


この箱堀は、先に行くと薬研堀になっています。このように、古くからの古城を真田氏が改修工事したことを思わせる場所が随所にあるそうです。





大きな堀ですね。



  


堀を渡って



  


曲輪があり、また大きな堀があります。各曲輪は大きな堀で区切られています。



  


物見とその下の腰曲輪。



  


物見からの眺め。手前の山塊が榛名山、その奥が赤城山です。リバティというレストランが見えて、そこが地形的にどうも砦の跡のように見えるそうです。しかもオーナーは里見様だそうで、北条系のお方かもしれないとかなんとか。


午後も、しっかり探検させていただきました。冨澤さんをはじめ、あざみの会の皆さん、ありがとうございました!






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