名胡桃城址、杉木茂左衛門、沼田城址(沼田公園)、小松姫(大蓮院殿)の墓、海野塚、福蔵寺 を訪問しました。



天正14年(1586)、天下統一を目前にしていた豊臣秀吉は関東・奥州の大名に対し、私闘を禁じる「関東奥惣無事令」を出しました。その後、秀吉は全国の諸大名に上洛を命じたところ、天正17年(1589)、北条氏は上洛の条件として利根・吾妻地域の領有を要求。秀吉は「利根川を境として、沼田城を含む東部一帯を北条に、名胡桃城を含む西部一帯ただし赤谷川の左岸に限っては真田に」という裁定を下しました。ところが裁定に不満だった北条氏は同年10月に名胡桃城を不法に攻略。報告を受けた秀吉は激怒し、天正18年(1590)北条討伐軍を起こします。いわゆる小田原征伐で、征伐軍に集まった兵は20万とも22万ともいわれ、国内の戦いでは最大のものと伝わっています。


一般的には小田原征伐で戦国時代が終わったとされています。小さな山城である名胡桃城の領有をめぐる小さな事件がきっかけとなって、1467年応仁の乱から約120年続いた戦国時代に終止符が打たれ、日本の歴史を変えることになった…とのことで、地域の方々により積極的に保存、啓蒙活動が行われています。



  


元々喫茶店のような造りの案内所があり、まずはそこで名胡桃城についての紹介ビデオを見ると良いでしょう。



  


ほとんど毎日ガイドさんが常駐しているので、希望すれば城跡を案内してもらえます。今日はみなかみ町歴史ガイドの会会長の高橋様がご案内してくださいました。駐車場があった場所は般若廓といって名胡桃城城主の居館があった所と考えられています。当時の大手口から見るとこんな感じです。



  


城址の外側から見て行きます。橋の下、湯舟沢に水の手があり、その付近に丸山、空堀、水の手郭などの遺構があります。



  


再び橋の上から本丸方向を見ます。沢からは急斜面で攻めにくそうです。



  

  


「名胡桃城址」の看板があるあたりは丸馬出しがあったところ。 馬出とは虎口(城の戦闘用出入口)の外側に曲輪と堀を築いて防御力を高めたものです。今は埋まっていて遺構としては残っていません。発掘調査により扇形の地形が解っているそうです。





その先にある堀切は薬研堀ではなく、箱堀でもなく、鍋底型の堀だそうです。150cm位土砂で埋まっているそうです。



  

  


三の丸から二の丸へ。ここは食い違い虎口になっていることと、堀から郭への斜面の角度が、二の郭側が三の郭側よりも急になっていることが特徴です。



  


二の郭から本郭の切岸を見ると、ずいぶん急になっています。しかしこれは土砂崩れがあった際に近代的工法によりこの角度に治したものだそうです。



  


本郭には立派な石碑があります。



  


本郭から二の郭の切岸を見ると、ずいぶんなだらかになってしまっています。何度も土砂崩れが起こっているそうで、かなり地形が変わってきているそうです。



  


城内にあった松は全て松枯れ病で枯れてしまったそうです。本郭の奥にある、ささ廓に向かいます。



  


ささ廓には、土塁の遺構が残っています。発掘調査では石垣もあったそうです。





ささ廓の奥には門があったそうで、さらに一段低くなり袖廓となります。利根川と河川敷がよく見えます。



  


そのさらに低い場所に物見がありますが、低い場所にどうして?と思いますよね。



  


手を指した方に沼田城があり、物見の位置からならギリギリ沼田城が見えるらしいのです。みなかみ町役場のあたりが赤谷川との合流地点。ここから2km先の山中には明徳寺城があったそうです。



  


案内所に戻って資料を拝見。名胡桃城址ジオラマがありました。



  

  


上州をめぐる攻防戦のパネル、年表などにより、歴史の流れ、領主の変遷に親しむことができます。ただし、天正十年(1582)3月に武田勝頼が滅んでから6月に織田信長本能寺の変で自害させられるまでの3ヶ月間は織田信長支配下にありました。箕輪城には滝川一益が入り(後に厩橋城へ)、関東の鎮定にあたり、沼田城には一益の甥といわれる滝川益重(儀太夫)が入ったそうです。一益は利根吾妻の領有を真田昌幸に認めていたので、名胡桃城の領主は真田から変わっていませんが、武田勝頼が滅んで織田信長が死ぬ3ヶ月間の関東領有図があるととても面白いと思いました。


また、こちらには沼田城についての説明もありました。


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その後は、なかなかこちらの方に来ることも少ないので、いろいろと真田氏に関係するものことを見て回りました。





真田氏三代、いわゆる幸隆−昌幸−信之・信繁(幸村)時代は良政を行っていて、領民の忠義心は厚かった、と聞きますが、沼田藩五代藩主真田信利の悪政はひどかったそうです。信利は寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告しました(沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また、沼田城を修築して5層の大天守閣を立て、江戸の藩邸を松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装するなどしたため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すほど窮乏したのだそうです。


延宝8(1680年)年、信利は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負いましたが、台風による河川の氾濫で用材は流出し、翌天和元年(1681年)10月の納入期日にも間に合いませんでした。さらに同年、領民の杉木茂左衛門という人が将軍に直訴をし、11月に沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された…そうです。


その杉木茂左衛門にまつわる史跡を訪問しました。刑場跡にも石碑がありますが、もっと何かあるはずです。



  


すぐ近く、徒歩で行けるところに茂左衛門地蔵尊というものがありました。こちらにも茂左衛門の石碑がありました。先ほどのよりも立派です。



  


本堂に入ります。



  


中にあった茂左衛門地蔵尊は凄い形相でした。昔の直訴は極刑で磔・獄門のうえ斬首、その首はさらされたそうですので、その怨念が宿っているかのようです。妻子共に共に磔刑ですよ。なんてこった。



  


茂左衛門の刑場跡にはいつの頃か念仏堂が設けられ、千日供養が行われていたそうです。堂内に親子3人の地蔵尊があったそうです。


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その後は、沼田城址(沼田公園)へ。



  


運動場の方から入ったので、回る順番がめちゃくちゃかもしれません。まずは本丸堀跡がありました。完全に公園となっていました。園内のあちこちに看板が立っています。中でも小松姫のエピソードが気に入りました。

本多忠勝の長女・小松姫の婿探しのために、大名の子息たちが浜松城に集められた。小松姫は一人一人、髷をつかんで顔を覗き込む。皆が家康の威光を恐れ、されるがままになっているとき「無礼ではござらぬか!」と怒ったのが真田信之であった。これを見て、小松姫真田信之の元に嫁ぐことを決意したといわれている。


伝説かもしれませんが、ありえますね。



  


奥の方まで来ると、沼田城跡西櫓台の石垣・石段が発掘された状態で見られるようになっていました。





信之は五重の天守閣を持つ城を築城したと云います。その後、5代藩主信利が修築もしたそうですが、真田時代から、といわれているこの石垣はいつからのものでしょうね。ただし、普通の石垣の角は交互に組むものだそうなので、本当に真田時代のものなのかは微妙だそうです。



  


樹齢400余年といわれる御殿桜。五層の天守閣があったころから沼田城興亡の様子を見とってきた桜だとのこと。確かに大きな桜です。



  


「平八石」の由来はそれよりも古く、真田昌幸沼田城を攻略した際の沼田一族の生き残り、天下無双の勇将・沼田平八郎景義を(だまして)殺害した時に首級を置いた石とのこと。



  


それにしても景色の良いこと。領民が農作業に精を出すのがよく見えたことでしょう。ここに五重の天守閣がある城があったら、理想的です。



  


天守閣があったとされる場所。高く積んだ石垣の上に、18m四方の規模で築城されたそうです。金箔瓦も出土しており、関東において沼田城は特別な存在だったそうです。



  


それにしても、沼田城址は江戸幕府によりほとんど破却されているので、「城めぐりツアー」的ではなさそうです。ただし、このテニスコートの土を掘って、埋まっている石垣を出す計画があるそうなので、今後はもう少し期待できるかもしれませんね。


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次に、信之の夫人・小松姫の墓を訪問。



  


墓のある正覚寺は普通の訪問者だと見つけるのが難しい立地です。山門は非常に立派でした。また、寺の入口付近に小松姫の墓の案内地図がないので、聞ける人がいない場合はうろうろとすることになるかもしれません。



  


小松姫法名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼と書くそうで、一般的には大蓮院殿と呼ばれています。佐野の犬伏で関ケ原合戦で敵味方に別れることを決意した真田父子。上田に帰る途中に昌幸と信繁(幸村)が「孫の顔を見たい」沼田城を訪れた際、小松姫は二人の入城を拒んだほどの女丈夫でした。諦めて昌幸らがこの正覚寺で休息をしていると、小松姫は子供たちを連れて現れ、昌幸の所望を叶えたとか。


極め道の女将さんのようなお人だったらしいです。前から尊敬していて、いつかお詣りしたいと思っていました。


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次に、海野塚へ。



  


海野塚は長野原町羽尾城主・羽尾幸全入道の弟、海野能登守輝幸とその息子幸貞親子の墓です。数年前、羽尾城址で兄弟の海野長門守幸光の墓を訪問した時からここにはぜひ来たいと思っていました。所在地がよく解らなかった理由が解りました。ここには駐車場がないのです。





ちょっと長い話を。甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎(信玄の父)と、村上義清諏訪頼重などの連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野棟綱ら滋野一族(海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏など)を駆逐します。この戦いで海野棟綱嫡男の幸義は戦死します。ただし、真田幸隆海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子であるとして、海野家の跡継ぎの立場となります。


真田幸隆は、鳥居峠を越えて、関東管領上杉憲政に仕える同族の羽尾城主・羽尾幸全入道を頼って落ち延びたそうです(長野原町誌)。幸全の庇護を受けた後、長野業政の箕輪城に預けられましたが、長野業政の計らいもあり、箕輪場を出て武田晴信に仕えることになります。しかし幸隆はその後、武田軍の西上州侵攻の先鋒を命ぜられ、大恩ある羽尾幸全、長野業政らと闘うことになります…。羽尾幸全入道はその後、越後に逃れたとか?


そして羽尾入道の弟たち、海野長門守幸光と海野能登守輝幸もまた吾妻太郎斎藤氏を裏切り、寝返って真田幸隆に仕えることになりました。そして幸光は岩櫃城代に、輝幸は沼田城二の丸に置かれていました。しかし海野兄弟は自信家で傲慢なタイプで他の真田家臣達からは疎まれていたそうで、幸隆息子の真田昌幸氏にとっても面倒くさい古株と思われていたに違いありません。特に輝幸は武術の達人といわれていました。


最後はこの兄弟をねたむ者から「海野は北条と通ずる」との昌幸への讒言により、海野兄弟は討伐されます。輝幸は「主家に二心無き証をたてん」と迦葉山を目指す途中、真田勢に追いつかれます。中には真田一の剣豪であり沼田一の豪者・木内八右衛門もいましたがこれを一太刀で討つと、嫡男幸貞と「無益の殺生はこれまで」と刺し違えて自刃しました。この時輝幸は72歳。本当に武芸の達人だったのですね。


しかし、生き長らえるために主君をコロコロ変えるのは戦国時代の常套手段。真田幸隆・昌幸こそ表裏比興の者です。彼らが信繁(幸村)の様に一本気で斉藤氏に最後まで仕えていたなら岩櫃城か嶽山合戦で討たれ、長野原町雲林寺は開山されなかったし、長野原町大乗院も、私の大切な知人、浦野安孫さんもこの世にいなかったに違いありません。


海野塚の墓石に手をかけたら、思わず涙が出ました。海野能登守輝幸親子の無念が伝わってきたかのようでした。


「辛かったですね、苦しかったですね、でももういいですよ、お疲れ様でした。」と心の中で思い送って差し上げました。何の力もありませんが、気持ちだけ。


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最後は、今日の記事としてはあまり関係ありませんすが、通り道だったので中之条町尻高の北向観世音(福蔵寺)様を訪問しました。



  

  


こちらは修験寺様であるとの情報を得ていたので、ご住職様にいくつかインタビュー&ご相談させていただきました。登山と修験というもののマッチングの可能性、さらに一般観光客に対しての「お試し修験プラン」等の可能性についてなど。しかし、滝行、火渡り等、危険で健康を害するような厳しい修験を、一般人に対して軽々しく提供するべきではない、という結論に達しました。まずは、私が滝行などを何回か経験してから、それを本当に観光客にさせていいのかを考えるべきだとお諭し下さいました。ご住職様。ありがとうございました。






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