柳沢城址(岩鼓の要害)をめぐるエコツアー下見




11月1日(土)〜2日(日)に東吾妻町にて、岩櫃城、歴史、武士、忍者、戦国時代、真田氏…などをテーマにした 岩櫃城 忍びの乱」http://www.shinobinoran.com/) という複合イベントを行います。


今日は、「 戦国時代の城址をめぐるエコツアー:柳沢城址


商品設定のために、あざみの会根津様と斎藤委員長と私の3人で現地下見をしてきました。






    


コニファーいわびつから800m程下ったところに、東電の貯水池(平川戸)方面から来る道と分かれる場所が有り、その手前を左に入ります。そこにはいきなり「不動沢」があり渡ることに。これは、長靴じゃないと厳しいですね。



    


作業道を登っていくとまず右側に岩窟があり、ヒカリゴケが生育しています。ここからは縄文式土器が出土しているそうです。



    


松枯れ病の被害にあったアカマツ。松枯れ病はすでに東吾妻町にまで来ています。吾妻渓谷にまでは来て欲しくありません。第三石門と呼ばれている大きな岩手前を右に曲がります。



    


長年愛用しているらしい、猪のヌタ場。しかし藻の発生具合からしばらく使われていないようです。鉄塔の下を通り、



    


その先、右の土手に上がってみます。ここには地籍図根三角点があります。



    


左に見えるのが東山。今は西山を横断しています。右に見える山は手前から天狗の丸跡、岩櫃城跡、奥には岩櫃山があります。正面は平川戸(東電の貯水池のあたり)で、加沢記に拠れば、かつてはここに60戸もの町屋があり賑わっていたそうです。



    


作業道に倒木が。手持ちの鋸で処理します。



    


この折れ方は、2月の大雪、雪害によるものですね。シノダケの繁茂がすごいです。まさに探検。



    


柳沢城址外曲輪まできました。作業道は先(南東)に続きますが、私たちは南に進みます。左上(北西)方向には堀があり、その堀の延長線がそのまま作業道として使われているのではないか、とのことです。



    


柳沢城の北側は何段もの平場になっていて、これはこれで見所なのですが、初心者向け半日コースではあまり連れ回せません。虎口から入ってすぐ右に凹状の堀が現れます。これが、今まで見てきた真田氏のV字型の堀=薬研堀(やげんぼり)とは違った、箱掘(はこぼり)というものです。真田氏よりも以前に築城されていた「古城」であるゆえんです。

※薬研(やげん)とは、薬研(やげん)は、漢方薬などをつくるとき薬効を持つ薬種(草・根・木あるいは動・鉱物質)を細粉にひくのに用いる器具で「くすりおろし」ともいう。石製のほか、鉄製、木製、陶製がある。かつては石製のものが多かったが、今日では金属製のものが多い。

    


そのまま進むと、三の曲輪。堀の中から曲輪を見上げているのですが、そんなに段差がありません。





「三の曲輪」と「二の曲輪」の間の箱堀です。なんと綺麗に凹状地形が残っていること…。中世の城郭ファンなら必見の城址です。



    


三の曲輪から、堀を渡ります。曲輪の区切りは箱堀状ですが、下に伸びている部分は薬研状になっています。上ってくる部分では矢を狙いやすいようにV字薬研で、上部では迎え打てるように、或いは一斉射撃ができるように広くした…ということでしょうか。





広い広い二の曲輪。吾妻の城址によく見られる「一城別郭式」の城です。



  


二の曲輪と一の曲輪を区切る箱堀。今日見た箱堀の中では最も深いです。



  


解りづらいでしょうが、堀がずっと下に続いていて、二の曲輪の回りに腰曲輪がついています。堀を登ってきた敵兵は腰曲輪に待機していた味方が狙い撃ちされる…という訳です。



  


箱掘の底から。うーん、600年も前の築城だった場合、当時は薬研堀だったのに今では箱掘状に見えることもあるのでは?



  


土塁を渡り、一の曲輪へ。そう広くありません。



    


一の曲輪の周りの腰曲輪は、よく形状が残っています。その先には物見(斥候)があったそうです。





一の曲輪と物見(斥候)曲輪の間にある、大きな薬研堀。どうして、物見に行くためにこんな強固な堀が必要だったのでしょうか。



  


そして物見(斥候)の帯曲輪。物見を守るための曲輪?木々の合間から北へ伸びる堀が見えます。この地形が自然物ではないということは、城址に興味を持つ前から解っていました。私は以前、観音山に登山に来たとき、人工的な建造物である曲輪や堀を歩き進んでしまい、道に迷ってしまった経験があるのです。



    


物見に到着。修験道の霊山、観音山(瀧峩山)山頂でもありますから、修験の社がいくつも設置されています。石造物が置かれたのは廃城になってからのことでしょう。





原町市街地、吾妻川、中之条台地、子持山塊が見えています。



      


下りのルートは観音山登山道。険しい修験の道でもあります。



  


看板「見晴台へ」の方向へ行くと絶壁が待ち受けます。ちょっと危ないかも。秘密の場所にした方が良いかもしれませんね。



    


登山道には鎖が設置してあるところもあります。結構急峻で、山のサイズにしては足回り等はしっかりする必要があります。観音様があったりなかったり。



    


鉄から生えた?アイアン・マッシュ。「象ケ鼻」という岩があります。んーこれは?





ゴジラVS…ガメラかな?



    


金堀穴は、地元の子供たちは小さい頃、よく入って遊んだそうです。



    


穴の出入口は上部にもあり、こちらの方が入りやすいです。



  


沢筋を降りてゆきます。



      


北向観音」は、高山村尻高熊野の北向観世音(福蔵寺) と関係があるのかも。向かいの「胎内くぐり」なら、初めてでも安心して入ることができます。



    


下りきったところにある看板「観音山(瀧峩山)案内図」。見晴台の下は南大岩窟の断崖絶壁。西山の三角点は第二石門の右上あたりにあるそうです。

【看板より】観音山(標高530m)
古くは松山あるいは岩鼓と呼ばれていたが、延享4年(1747)に百所(百基)の観音石像が祀られてから観音山というようになったという。東山と西山があり、東山に西国33番と坂東33番、西山に秩父34番が安置されており、麓に龍峨不動尊の堂がある。滝もあり、不動の滝(三重の滝)と呼ばれ、その左横に岩櫃山へと通じる道に抜けられる石門がある。


地元の人でも、全ての観音様を回ったことがある人はまずいないそうです。中之条町嵩山の観音群めぐりは有名ですが、もっと古くからメッカであった観音山での修験が廃れていってしまっているのは残念に思います。



    


瀧峩山金剛院不動堂。三方向から。



    


ここの石仏群には、うちのおじいちゃんがいます。右の不動明王像じゃないですよ。



    


不動の滝も、三カットパシャリ。



    


不動の滝の上にはあずまやがあり、さらに上に抜けることができます。登ってみると、



      


ワア!大きな岩穴が出現しました。「第四石門」といいます。



    


中に入り、鎖を掴んで登っていくと突き当りの岩には梵字のような模様があります。まるで大日如来を左右反転したような…
上から差し込む光。そして洞窟を抜ける…





この洞窟・第四石門の出口の形って…右側は世界遺産屋久島のウィルソン株。同じように空を覗くとハートに見えますよね!



      


第四石門の上部をチェック。不動の滝の滝頭や洞窟に落ちる穴があります。ちょっと危ないです。



  


最後に、お客様が快適に通れるように草刈りをしました。岩櫃城忍びの乱実行委員会の皆さん、お手伝いいただいてありがとうございました。






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