大戸の桜状況確認と仙人窟
次に、大戸の桜状況の確認をしに行きました。
ところが、全体的にまだ桜は少し早いみたいです。原町はもう下り坂なのですが、大戸はまだこれから。原町に比べて5日間〜一週間位、桜が遅いように見えます。
そんな様子なので、まだ行っていなかった「仙人窟」に寄ってみました。
群馬県道58号中之条東吾妻線を走ると車道上部に案内板があります。仙人窟入口にあった手書きの看板によると、
仙人窟の歴史(設置看板より)
この岩窟は南面に白い観世音及び十八羅漢の石像があり、先住民族の穴居の跡ともいわれ、北の隅に清水が湧出し人二人分の飲料に足る程度という。伝説に日本武尊の東国征討の帰途に宿泊せし處なりともいわれる。かって中世近世において吾妻三十三番観世音札所の中に名を連ね、信仰のあった場所で中世の時代、吾妻三十三番順礼歌に
― 終夜(よもすがら) 岩屋に響く法の声 近いも深き谷川の音 ―
と唄われていた。
向かい合う手古丸城跡は戦国の世、天正八年(1580)城主大戸真楽斎は遠州高天神に於いて戦死、天正十年(1582)手古丸城も北条氏の為に落城している。窟中に古墳が三つあるのは、城主大戸真楽斎の石碑だと伝えられている。天正十四年(1586)真田信幸は五百騎を率い、北条網可等の二千騎と戦う。信幸は軍を仙人窟に伏せ、大返して大勝し手古丸城を奪還した。北条勢は大運寺前を西へ敗走したという。
徳川時代の国学者、清水浜臣著(1847)の上信日記によれば、寛永年中に松厳という坊さんはここに寺を創造し大丹寺と名付けた。延宝年間(1675)に潮音禅師は弟子の心月草菴を住ませ、観音及び羅漢十八躯を建設したとのこと。当時三百段を数えた?も水害により百八十段にすぎない。亦獅子窟は仙人岩屋の山頂にあって径が険しく土地の人といえど所在を知らない者があるという。真下を流れる温川の瀬音が仙人窟の洞窟に?して往時の信仰の盛んなりし頃を物語っているかのようである。
洞窟 幅八間(約14米) 深さ十四間三尺(約二十二米) 高さ一丈五尺(約四、五米)
変換できない文字が二つありました。だいぶ古い看板ですね…
東吾妻町の今現在のHPでは、洞窟の大きさは入口の高さ約8メートル、深さ26メートルとされています。
http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/contents/1204122221484/index.html
ここが、仙人窟です。また看板がありました。
吾妻町指定名勝(平成元年12月13日指定)
仙人窟
この窟は、入口高さ8m、幅14m、深さ26mの洞窟で、県道から200m程登ったところにある。
靴内に珍しい石像の十八羅漢〔高さ0.8m、延宝6年(1678)〕及び聖観世音(像高0.8m)などがあり、吾妻33所観音の第8番札所となっている。
この窟の手前に胎内くぐりと称する石門があり、くぐるとそこにも石像がある。
窟内の岩には鍾乳石のようなものが発達しつつありました。たくさん石仏があるので、どれが珍しい石仏なのか解りません…
なんだか薄暗いし、石仏たちに見張られているようで怖いですね… ギャー、腹に顔がある!怪物〜
向かい合った大岩にある「胎内くぐり」へ。ここにも、兵隊は隠れたのでしょうか。
その奥には「奥の院」があります。ここには、偉い人がいたとかですかね。いや、当時は板も道かたもなかったでしょうね。
意味ありげなこの台は、なんなのか解りません。
大運寺も桜の名所ですが、まだ3〜4日早いかな?特に高さ10mのシダレザクラがいいらしいです。
旧大戸小学校の校庭の桜も同じくらいの状態、忠治地蔵の桜はあと一週間位かかりそうです。
仙人窟の県道58号線向かいに見える桜の山、これが手古丸城跡なんでしょうか…