『王城山』登山(奥宮参拝)と『王城山神社』探索エコツアー 〜 吾妻最大のカタクリ群落、林の『カタクリの里』鑑賞付き



【新シリーズ】戦国真田の吾妻侵攻と、あがつまの山・里・花を訪ねるエコツアー
http://ecotourism.or.jp/sengokusanada.html


の2回目、


『王城山』登山(奥宮参拝)と『王城山神社』探索エコツアー

〜 吾妻最大のカタクリ群落、林の『カタクリの里』鑑賞付き
http://ecotourism.or.jp/sengokusanada/oujosan-katakuri01.html


を実施しました。


このツアーは昨年も実施していますので、今年は新たな情報を追記していくことにします。ツアーの詳細情報は、昨年のものを見るといいかもしれません。


王城山とカタクリの里を訪ねるエコツアー(2013年4月23日)
http://d.hatena.ne.jp/akagi39/20130423/1366797298



      


長野原町指定天然記念物、王城山神社神杉は、目通り4.64m、高さ36mで樹齢400年と看板に書いてあります。この計測値が昭和49年9月21日(40年前)の天然記念物指定時の値なのか、平成元年11月(25年前)に看板を設置した時の値なのか、解りません(それは問題)が、今の値を測ってみました。すると、目通りで4.93m、周囲で約30cm大きくなったことになります。直径では9.6cm、半径では4.8cm肥大成長したと。40年で半径4.8cmならば1年間に1.2mmの年輪幅で成長中である、ということになります。うーん、このサイズの巨木ならば、だいたいそんなところでしょうね。

また、道路脇に立っているので、境内の垣根段差の途中に幹があり、昔の人がどの位置を基準にして計測したかも気にはなります。私は、最も地面が高いところ、神社側から測りました。



    


王城山神社里宮の拝殿彫刻はいつ見ても立派です。



    


王城山神社の境内には、どういう訳か東吾妻町岩島矢倉にある、鳥頭宮の拝殿(別当?)があります。建て替えて新しくなっていますが、これは吾妻太郎藤原行盛(〜1349年)(岩櫃城主)と関係があります。藤原行盛氏は1321年、矢倉鳥頭神社の社殿を改修したりもしています。


群馬県の祭り・行事−群馬県祭り・行事調査報告書−(群馬県教育委員会発行)の王城山略縁記によると藤原行盛は大変に信仰が厚い人だったらしく、ある時、難戦の際に矢除けのお守りで命を救われたことがあり、領内の勘場木場(大津のあたり)に日本第一大軍神である信州諏訪大明神を勧請したそうです。またその後、真田一徳斉(幸隆)が別当(下社、今の王城山神社でのことか?)において、37日男子誕生の護摩供を修行せし処、男児出生したとも記されています(真田信綱のことか?!)。


鳥頭宮の隣には、春(5月5日)に山の神様を里の神様・田の神様に招きおろし、秋に山にお帰りになるまでお過ごしいただく御仮屋が設置されています。



  


境内にある最も古い道祖神は宝永3年(1706)のもの。鳥居に張ってあるしめ縄の高さはとても低いです。こうべを垂れて通りなさいとの意味。垂れ下がっている紙垂と木本のシデ類、どちらの名前が先につけられたか…浦野さんは当然、紙垂が先であろうと仰っていました。私は、ちょっと迷っています。理由は、紙垂が紙で作られ飾られる前は、樹木の幹を刃物で削り、削り花(ケズリカケ)を作って垂らしていた、はずだからです。その時代でも紙垂と言ったのでしょうか? となると…頭がこんがらがってくるわけです。



        


        


かつてのむかし道をたどって行きます。左は善光寺草津、右は「やまみち」。この「やまみち」は、王城山〜高間山への道だったのでしょうか。王城山の地層から見るに、高間山の方に火口がある成層火山だったそうです。このあたりで目立った樹木はチョウジザクラとウリカエデ。谷に人為的に石が組まれたむかし道を発見。





二合目「石尊下」にある三股のアカマツ大木。この木好きです。



    


石尊山というのが、この左上にあるそうです。大岩の向こうにあります。修験者が、ここで修行したのでは…とも考えられるそうです。



        


登山道ではダンコウバイとアブラチャンが咲いています。リョウブの幹をかじった犯人は、若いカモシカと見ました。途中、また新たな看板が設置されていました。ここからも王城山神社に降りられるのですね。



        


舗装道路に出ます。ヤドリギは、韓国ではお茶にするそうで、最近、浦野さんの家の樹木になっているヤドリギを韓国人の方が採取しに来たそうです。ウスタビガの繭は、高橋さんは子供の頃、怪我をした時に絆創膏がわりに使うといい、と教えられたそうです。吸収力があるからですかね?驚いたことに、ハクウンボクの枝は、最初は赤い樹皮に包まれているが、一年目の冬にそっくり剥げ落ちてしまうのだそうです。。



        


固まったウンチはどういう現象でしょう。数名の猿が代わる代わる同じ場所にしたとか?カラカサ松の説明看板が設置されていました。昔は幹が5本あったそうですが台風で折れてしまい、今は3本幹となっています。


丸岩とその下の集落が見えます。丸岩に営巣していたイヌワシは、2006年〜2007年の間にいなくなりましたが、2012年に戻っているそうです。この八ッ場は、ダムが決まってからの発掘調査で、縄文時代は驚くべき大集落が形成されていたことがわかったそうです。王城山等の山々による地下水が豊富であったこともその原因の一つでしょうと。縄文人は山が水をもたらしてくれることを解っていた、古代では山そのものが神様であり、神社がどうのこうのというのは後になって生まれたもの…とお話くださいました。



        


王城山に繋がっている尾根の一つである山が見えます。あの山は、新しい国道から見える立馬(たつま)岩帯 から尾根続きになっているそうです。だから何だって言うんですか?あんな危なそうなところ…しかし、その道は空通と呼ばれ、頂は天上山(或いは殿上山)というそうです。げ、マジですか?冒険の虫がムラムラと…。ちなみに立馬岩帯は230万年前、臥龍岩・昇龍岩は220万年前にできたのだそうです。
焙烙岩のところでは、王城山神社里宮にあった手水鉢のような石もありました。高間山に行く登山道は、いつかは行っておかなくてはならないでしょう。



    


しかし、いつ見てもこの焙烙岩は迫力がある、というか崩れてきそうで怖いです。実は丸岩も、このように大変剥がれやすい山なのだそうです。あの絶壁なのに、ロッククライミングのメッカになっていない理由がわかりました。



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焙烙岩を回り込むと船窪と言われるところです。ここには炭釜の跡もあります。この上が中棚尾根です。ベストセラー「真田太平記」に中棚砦というのが出てくるそうですが、ここからヒントを得たのでは?とのことでした。



        


今日は、いつものように右回りではなく、直ちに山頂へ向かってみます。上から降りてくる時は怖いようだった痩せ尾根も、上りだと、そんなに怖くはありません。



  


王城山神社から、浅間酒造の方向がよく見えます。永禄六年(1563)九月下旬、長野原城(箱岩城)は真田幸隆の弟・常田新六郎俊綱が守備していました。斉藤憲広は農繁期のこの時期に斉藤弥三郎、元城主・羽尾幸全や剣豪・海野能登守輝幸を将とし攻撃します。常田は兵を十分に徴集できないまま須川、琴橋を切り落として防ぎましたが、斉藤軍は王城山の大木を切り落とし、須川を埋め立てて橋にして川を押し渡り対岸へ進出、諏訪明神前で城を打って出た真田軍と乱戦になりました。大将常田は戦死。城兵は、鎌原の城に後退したそうです。


祠の向きが南東を向いています。これは王城山神社里宮の方向です。他の神社奥宮でもこうなっているかどうか、調べてみたいですね。


王城山山頂は古城跡と言われていますが、実際には城というより砦ということだそうです。確かに、竪堀だとか大規模な人工的な建設跡はなさそうです。天然地形のまま使われていたような気がします。



        


この100mくらい奥にあるのが王城山神社奥宮です。毎年8月25日には登山してお籠りをして、26日の奥宮際に備えるそうですが、このあずまやでお籠りするのでしょうか?





王城山神社奥宮に到着しました。鳥居、御仮屋、しめ縄もあって感じが良いです。



      


奥宮前の地面にある石蓋の中には「虫切鎌(むしきりかま)」と呼ばれる小さな鎌がたくさん奉納されています。この鎌を持ち帰り、赤ん坊の胸元で×を切ると真似をすると、疳の虫も治るとされ、翌年お礼に鎌を倍にしてお返しするのだそうです。「忌鎌(いみかま)神事」と言います。



        


高間山への登山道も綺麗に新しくなっています。このまま高間山まで整備が進むのでしょうか?凄いですね。


奥宮の石祠には、諏訪大明神 王城山大明神 と彫られているそうです。仏教が日本に入ってきて、日本の神様は仏様の生まれ変わりだと言われるようになり、いつしか神が本来の名前で呼ばれることは少なくなり、神社名を冠した「明神」や「権現」で呼ばれる事が通常となったのだそうです。


御手洗の湧水も今は枯れつつあります。かつて村人は湧水を持ち帰り井戸に注ぎ、防疫、神との共存を感じて生きていたそうです。





長野原合戦。王城山から攻めた斉藤軍はここの大木を伐り須川を埋めて橋をかけ、長野原城に攻め入った、そう伝わっています。



      


御籠岩(おこもりいわ)は日本武尊が滞在した場所ですが、ここは崩壊が凄まじく、もう岩窟の形態をとどめていません。



  


あ、カモシカだ! もしかしたら、午前中の足跡は彼のものかもしれませんね。焙烙岩の下を通って、



        


焙烙岩を下る途中で、初めて見るスミレがありました。斑入りの葉です。今日は、新しくできた看板の道、尾根道を下ってみることにします。



      


イヌブナの樹がありました。浦野さんが言うには、芽吹きのこの状態が、ブナとイヌブナでは明らかに違うそうです。虫食いだらけの樹木を見て、「こういう、カブトムシが捕れそうな木も少なくなったなあ」と浦野さん、聞くところによると、浦野さんが少年の頃から長野原町林地区にはカブトムシが普通にいたそうです。嬬恋村大前では○十年前は珍しかったと聞いていますが、やはり長野原町嬬恋村は気候が違うのですね。



      


尾根道には猿のため糞が。吾妻渓谷の尾根道はもう猿の天下となっているようです。綺麗に向かれたリョウブは、シカの仕業ではないかとのことです。カタクリの里に出る手前で、道かたが不明になりますが、樹木を伐る準備がされていました。



        


林地区押手沢の「カタクリの里」に到着しました。浦野さんの丁寧な資料と解説に脱帽です。カタクリは気温18度以上になると花を開かせますが、そうでない時は閉じています。今日は寒くなってしまったためにほとんど閉じてしまいました。2枚葉なると花が咲きますが、それまでに7〜8年もかかるそうです。良質なデンプンを蓄えるカタクリの鱗茎は、ネズミに食べられないため?に、年々深くなっていくのだそうです。それにしてもイノシシが食べないのはどうしてなのでしょうか、不思議ですね。今のところだけで味を覚えられたらおしまいとか?!


私的には、どうしてカタクリの葉は斑で焦点がボケたような感じになっているのでしょう。カモフラージュしている、綺麗な緑色の葉をした個体は動物に食べられてしまい、結果的に淘汰されこのような個体が残った…



        


この周辺は、もっと荒れていたはずです。一年でこんなにスッキリするとは…ああ、早くお客様をお連れしたいですね。このあずまやでゆっくりとお茶をしたいです。





最も群生している場所に来ました。こちらはやや花が開いているようです。



  


カタクリの花の中にはアルファベットが見えるそうです…



  


このあたりには、アズマイチゲもかなりあります。競合すると、カタクリは負けてしまうそうです。困りましたね。



  


ルイヨウボタンもたくさんあります。原始的な植物だそうで、もうすぐ緑色の目立たない花を付けます。





色鮮やかな花を見つけました。今日のところは、これまで。来年が暖かい日になることを願いましょう。



        


ナツズイセンの株がありました。キツネノカミソリとは、確かにだいぶん違いますね。こちらの方が大きい。このように、早春のまだ他の草が生えていないうちに葉を出して球根を太らせ、多くの草が生い茂る頃には一旦葉を落とし、夏〜秋に改めて花茎を伸ばし花を咲かせる生活様式のものを「葉見ず、花見ず」と言います。ヒガンバナもそうですね。


里山を降りていきます。今日は特別にもう一つ、ご案内していただきます。



        


途中、「かたくりの湯」源泉がありました。ほのかにする匂いはメタンガスの香りでしょうか。連れてきていただいたのは「御塚霊園」と呼ばれるところ。ここには素晴らしい巨木があるというのです。



  


御塚霊園境内のイタヤカエデは長野原町指定天然記念物(昭和53年(1978年)2月28日指定)で、胸高周3.70m、樹高32m、根元周5.30m、樹齢推定300年だそうです。26年経った現在測ってみたところ、3.74mです。25年間で直径3cmは、今朝の大杉とはずいぶん違った値ですね。



  


このイタヤカエデと同じくらい大きなものが、もう一本あります。立派な霊園です。



    


設置されていた看板にはこう書いてありました。

長野原町指定文化財 御塚 昭和十九年九月二十一日指定

 浦野家墓地にひときわめだつ小山を、里人は「御塚」と言っている。大字林浦野家の過去帳によれば、「大乗院村信法印、寛永二年三月御塚の神也」とあることから、この御塚は権大僧都法印村信を葬った墓であることがわかる。

 村信は浦野家三代浦野右衛門尉重俊の二男として生まれ、父は上州大戸城主で吾妻郡三島村に住し、天正十一年(1583)榛名堺論には、村信・村英兄弟は榛名山房に切り込み山中には一人もなく逃げ去ったと言う。

 それより村信は禄を得て林村大乗院に赴き、修験号を仮に大善院と称し、天正十七年上京して大乗院住職となった。村信は嗣がなかったので、海野長門守の二男俗名信濃丸を養子に迎え嗣とし幸照と号した。後に沼田城主真田伊賀守の祈祷所となり、村信の没後伊賀守は近村に令して戸毎に蕎麦の殻を課徴してこれを埋め、塚を築造し村信の墳墓とした。これが林の「御塚」である。

 平成六年三月吉日 長野原町教育委員会


え!ここ、浦野さん家の墓じゃないっすか。しかも海野長門守幸光っていうと、羽尾城主、羽尾道雲の弟で、岩櫃城の斎藤憲広の重臣だった人で、後に弟・海野能登守輝幸と共に真田幸隆の下で岩櫃城代を勤め、修験道を修めて、戦に出る時も兜の上に兎巾(ときん)を付け、鎧の上に鈴繋(すずかけ)に結袈裟を付けて活躍したらしく、永禄2年(1559年)に長野原の雲林寺を創建し、永禄12年には矢倉の行沢観音堂を改修して、天正3年(1575年)には羽尾に宗泉寺を創建した、あの海野長門守幸光ですよね。しかも弟・海野能登守輝幸は新当流の達人で、真田昌幸に謀反の罪を着せられ、追ってきた真田一族最強の剣客を70歳過ぎて返り討ちにしてしまったという、あの化物ジジイのお兄さんですよね?!


浦野さんは、あの、海野兄弟の血を引く者だったんですか…!!


おみそれいたしました。これまでの非礼をお許しください。別に非礼はしていないですが、恐れ多いので…
しかも浦野村信さんは即身仏になられたのですか。凄いですね…



  


その後、旧長野原町立第一小学校の旧校舎を拝見。一部だけ移築し残したようです。



      


確かに、浦野さんの生家に初めて寄らせていただいた時、あまりのロケーションの良さに驚きました。ここは修験道の寺院・大乗院の跡地だったのですか。向かいにあるゴツゴツした堂巌山が、いかにも修験道っぽくて最高の立地ですね。火事で寺院は消失してしまったそうですが…王城山神社の別当でもあったそうです。ん?神社の別当稲荷宮もあるみたいですが…いえ、これでいいのだそうです。神仏混合になってしまったのだそうです。


江戸時代、修験道で吾妻三院と言われた寺院は、大乗院、潜龍院、瀧峩山金剛院(観音山)だったそうです。おお、全部縁がありそうな寺院です。修験道にこのところ、とても興味があるのです。



      


そして、王城山神社へ帰る途中の、堀之内、城、殿坂などの地名があるところには、最近になって城の遺構が発掘されそうです。「林城」はあると言われたいたらしいですが、天明3年(1783)の泥流で埋まってしまい解らなくなってしまっていました。


この後、私があんまり修験道に興味を持っているので、「滝沢観音石仏群」に連れて行ってくれました。王城山神社から1km車で移動し、案内板に従って数十メートル山に入ったところにあります。



      



滝沢観音石仏群は江戸期を中心に作られた石仏群で、自然の地形に合わせ約80体の石仏が安置されています。特に六地蔵や奪衣婆の像は町内でも秀麗な像の一つ…だそうですが、六地蔵がどれかわかりません。岩窟内の真ん中にあった仏様は各上っぽかったですが…


奪衣婆(だつえば)は滝沢観音石仏群の中で最も古く、1749年のものだそうです。冥土の途中には三途の川があり、極善または極悪の人以外は死んでから7日目にこの川を渡るといわれています。奪衣婆はこの川のほとりにいて、亡者はこの奪衣婆に衣服を剥ぎ取られ、冥土へ旅たちます。地方によっては「味噌なめばあさん」とも呼ばれているそうです?



      


高いところにある岩窟には壊れかかった階段がかかっており、右側の岩窟には入れます。なんとそこには大日堂であり、大日如来様が祀ってありました。写真を出そうかとも思ったのですが、カメラの電池が急に切れたり、床板が抜けそうになったり…と、不思議な体験をしたので、ここに出すのはやめておきます。見たい人はぜひご自分の足で見に来てください。



  


それにしても凄いところですね。山の険しいところに籠もって厳しい修行を行うことにより悟りを得る、日本古来の山岳信仰。それに仏教が融合したのが修験道…ますます、修験道のこと、知りたくなりました。今読んでいる「真田三代」が終わったら、修験道の本を読み始めようと思います。






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