『王城山』登山(奥宮参拝)と『王城山神社』探索エコツアー 〜 吾妻最大のカタクリ群落、林の『カタクリの里』鑑賞付き 〜 を実施



恒例の春のエコツアー、


『王城山』登山(奥宮参拝)と『王城山神社』探索エコツアー 〜 吾妻最大のカタクリ群落、林の『カタクリの里』鑑賞付き 〜
http://ecotourism.or.jp/sengokusanada/oujosan-katakuri01.html


を実施いたしました。当日のスナップ写真を若干の解説と共にお届けいたします。案内人は長野原町林地区出身のインタープリター、浦野安孫さんです。



  


スタートは王城山神社から。ご神木の大杉は幹周4.6m以上あり、樹齢450年以上とか。もしかしたら、真田幸隆の軍勢が岩櫃城攻略の際に、「林の郷、諏訪の森に本陣を置く…」(加沢記)とありますが、その際に植樹したのであればピッタリ樹齢と合います。



  


王城山神社の縁起にはいくつかの伝説があります。日本武尊が東征の時、王城山に御駐屯なさったので、人々は尊をしのんで山上に祠を建て、日本武尊を祀り、山麓に里宮を建てた…という説のほかに、



  


そして王城山神社拝殿の隣にある鳥頭神社の方が実は古いそうで、がなんと王城山神社略縁起によれば、『岩櫃城主吾妻太郎藤原行盛が、武運長久の神である諏訪神社を勧請して、領内の勘場木場に上社を、林の郷に下社を造営して、社領及び実鎌を献ず…』とあるそうです。藤原行盛はこの地で矢除けのお守りで命を救われたとか。確かに東吾妻町矢倉の鳥頭神社の祭神の一つは建御名方命です。


境内には双体道祖神がいくつか安置されていますが、今日は道祖神の前に「削り花」が奉納されていました。



  


王城山神社は、吾妻では数少ない土俵があり、毎年夏に祭儀相撲が奉納されます(団子相撲)。昔は相撲すすることで豊作を占ったもしたそうで、米粉で団子を作ったそうです。団子→男子になり、一時は男の子だけで相撲を取っていました。

境内の手水鉢は王城山の焙烙岩をうまく使っていて必見です。



  


昔の道しるべ。真田へと続く道ですからいわゆる「真田道」です。



  


ハンノキ類、カエデ類の花。



  


橋を渡った先に三本幹のアカマツ



  


カモシカの毛が地面にいっぱい。これは…? 「葉見ず、花見ず」のキツネノカミソリ



  


熊棚を確認して、尾根道を進みました。



  


少しの間、舗装を歩きます。ずいぶん切り捨て間伐されたようで、見晴らしがよくなりました。



  


焙烙岩の下をジグザクに登ります。



  


焙烙岩を回り込むと、舟窪といわれる場所へ。



  


その上の痩せ尾根を越えると、





今日の最高地点、「古城」(1,123m)に到着です。しかし、山頂はこの先、ここよりもやや低い奥宮とされています。



  


奥に進みます。





王城山山頂、王城山神社奥宮に到着です。



  


王城山古城は、加沢記等の記述によれば、1563年(永禄六年)、長野原合戦以前は岩下城主、斉藤方(上杉方)の要害だったと思われますがそれ以降は真田方の要害となりました。浦野さんの見解では真田幸隆が武運長久を願い、古城の背後の守護神とし、勘場木場にあった諏訪神社の上社を勧請し、奥宮としたのではないか、とのことです。背後に諏訪様をつけて吾妻渓谷の先、東吾妻に侵攻して行ったと…





春の陽だまりの中、王城山山頂で昼食です。



  


22日(水)のNHKラジオマイ朝だよりでお話しするネタを探していたら、浦野さんが「忌鎌神事」のことを勧めてくださいました。山頂の石室にある『虫切り鎌』を借りて持ち帰り、赤ん坊の胸の前で×を切る真似をすると疳の虫が治まり、神棚に一年上げておくと疳の虫が起きないとされています。治ったら、翌年は2つにして返すそうです。うん、これは彌紘くんと私にぴったりの神事です。さっそく、やってみましょう。



  


「神井神事(水分け神事)」は、日本武尊が手を洗ったとされる尊い神水を持ち帰り、自分の家の井戸に注ぐと水が一年中腐らない。一年中神水を飲み、神と一体の生活を営む、厄病にもかからない…という神事です。今は水道の普及により誰もやっていないそうです。



  


日本武尊が東征の折に駐屯したと伝わる「御籠岩」付近を通り、舟窪を下り、



  


焙烙岩の下を通過します。ここは非常に嶮しく感じる場所です。



  


来た道を途中からカタクリの里方面へと進みます。



  


今年のカタクリの里、時期が完璧でした。花が満開です。





ミスターインタープリター浦野さんによる、カタクリの解説。こんなに楽しそうに解説する人を、私は知りません。



  


あっちにも、こっちにも。スプリングエフェメラル(春の妖精)が。



  


この辺まで来ると、かなりアズマイチゲが増えてきます。アズマイチゲが増えすぎると、カタクリが少なくなってくる傾向があるようで心配されていました。





ピンク色が強いカタクリを発見。綺麗ですね。



  


今日の「林のカタクリの里」、いつまでも居たかったですね。



  


なんと、ワサビの株もありました。今まで気が付きませんでしたが…。 茅葺の御堂のような岩があるから名がついた堂巌山。



  


エコツアーが終わった後、数人のたっての願いで、浦野さんしか知らない「久森峠越えむかし道」を教えてもらうことになりました。秘密の場所に駐車し、歩き進むと昔の石垣が出てきました。先にあった(右写真の)石垣はより新しいので、何度も修造していることが解ります。



  


トグラ沢を渡って、左に進みます。





なんとな。これは国指定天然記念物・臥竜岩岩脈じゃないですか。そのすぐ脇に古道・久森峠越え道があったとは。



  


掘削の規模が大きいですが、岩にへばりついた樹木が、どうも樹齢100年以上に見えます。昔の人が掘削したのでしょうね。



  


久森峠の自然石碑。蓮の花、阿弥陀三尊の梵字、助力村六十余の彫字が見えます。久森峠は東吾妻町応永寺の僧侶・野口円心が1700年代後半に道陸神峠−久森峠の開削に喜捨し、また1846年と1864年には付近の村民を中心にして民衆により大開削がなされた…そうです。この板碑は浦野さんが専門家に問合せ調べたところ、開削の記念碑ではなく、峠を越える人の安全を願う供養塔である可能性が高いそうです。



  


久森峠の道は旧長野原町第一小学校へと続いています。東側方面は旧川原湯諏訪神社→旧三ツ堂前→川原畑の石畑→旧馬頭観音菩薩→道陸神峠→樽沢トンネル付近へと繋がっていました。昔の道は川を恐れ、河床よりもずっと高いところを通っていたことになります。その後、明治−昭和期の道は川の近くになり、超近代では土木技術と重機の進歩により、より高いところに道はできています。最新の技術により造成された久森トンネルはかつての古道・久森峠越え道とほぼ同じ高さを通ることになった、というのは、昔の人は本当に知恵があったんだな、と思います。


久森峠越えむかし道、吾妻渓谷を理解するにはとても良い学びになりました。ありがとうございました。






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