長野原城址散策



長野原城址。元々は海野一族の羽尾入道幸全の城で、戦国時代、西吾妻最大の合戦となった長野原合戦の際には真田軍の常田新六郎隆永が大将として守り、一時、羽尾氏の城となったもののすぐに真田氏に攻め落とされ、湯本善太夫氏に与えられた…と聞きます。


羽尾入道幸全といえば、岩櫃城落城の際に真田氏(武田氏)に寝返り、後の岩櫃城代となった長門守幸光(二男)、能登守輝幸(三男)の長男であり、いずれも無双の者だったと聞きます。特に能登守輝幸は武術の達人であります。


また、天文10年(1541)、武田信虎(信玄の父)・村上義清諏訪頼重の連合軍が滋野一族をの領地である佐久郡、小県郡に攻め込み(海野合戦)、海野平郷を追われた滋野一族の海野棟綱とその子・真田幸隆は、鳥居峠を越えて関東管領上杉憲政に仕える同族の羽尾入道幸全を頼り落ち延びています。やがては武田の軍門に下り羽尾入道幸全を攻め滅ぼすことになりますが、そういう、いわれのある城であります(羽根尾城だという説もあり)。


長野原城址登山口の周りには公共の駐車場がないので、やや離れた町役場に駐車して、登山口まで15分ほど歩きます。



  



「山屋」という酒屋さんの向かい、住民センターと民家の間に「長野原城址登山道入口」の看板があります。



    


初めは路地裏を通る感じで、橋を渡って畑の横を通ります。





薬師堂がありました。ここからが長野原城址登山道となります。



        


長野原町役場のいわゆる“うらやま”が、長野原城址です。急峻な裏山をジグザグに登って行きます。萌芽枝が大きく成長したケヤキが目にとまります。





「箱岩の出丸」に到着。長野原城はこの奇岩があるために「箱岩城」とも呼ばれました。

長野原城「箱岩の出丸」

吾妻川の両岸にひろがる王城火山の噴出物の一部がここに露出している。輝石安山岩質の凝灰角礫岩でスコリア質の薄い砂層が間にある、堆積の途中で流水の作用をうけた部分であろう。ほぼ垂直な節理が発達して箱型の岩場を作っている。王城火山群は鮮新世更新世にかけて、この付近一帯に生じたもので長年月の侵食で原形を失ない吾妻白砂の両川が深く谷を刻み絶壁を作ったものである。
 昭和六十三年十月

      


足もとに用水井戸がありました。まずは物見台へ向かいます。箱岩を近くで見てみると、確かに岩と岩の間に砂のような層がみえますが、岩自体も堆積岩のように見えます。上部に社が見えてきました。



    



半僧坊大権現堂 です。


半僧坊とは静岡県浜松市にある寺院で、厄難消除・海上安全・火災消除・所願満足の権現様だそうで、明治初年に森法印という修験者がこの地に勧請したそうです。



  


箱岩に再度接近。今度は、川床にあるような流水に洗われた丸い石が岩に含まれています。完全に堆積岩ですね。すると、碓氷峠〜菅峰あたりの碓氷火山列の隆起と同調していると考えられそうです。王城山・高間山の火山噴出物が堆積する頃(120万〜90万年前)、ここは川床だった、すると碓氷火山列は当時から少なくとも100mは隆起していることになります。しかし、この場所は吾妻川と白砂川の合流地点で侵食の大きなところですから、もっと高いところまで同様の堆積岩はあったのかもしれません。


しかし、吾妻渓谷の立馬岩帯、臥龍岩などは地下で岩の割れ目にマグマが貫入して冷え固まってできたもので、それが川床から250m以上も高いところに露出していますから、地上に出て侵食されつつ隆起しているわけで、実際にはこのエリアの隆起度合いはかなり大きい、と私は考えています。



    


箱岩を過ぎると尾根に出ます。上り下りもあまりなく、気持ちの良い尾根散歩です。



  


この突き当りにあるのが、「天狗岩」です。もしかしたら、この天狗の鼻の様な岩があるから、天狗岩と名付けられたのかもしれません。



    


物見台に到着。西郭からの眺めは格別です。対面する王城山砦、丸山城址・柳沢城址(の場所)もよく見えます。



  


王城山の溶岩流には傾きがあります。浦野さんから聞いた話によると、高間山と王城山は同じ火山で、高間山に火口があったそうです。火口の位置は次々と変わるものですが、それらしきものは高間山北東部に見られます。私のイメージを図にするとこうなります。

※あれ?このイメージだと溶岩の流れる方向が逆のはずですね。後日再考します。



        


東郭は樹木が茂っていて、展望がよくありません。箱岩に戻る際に猿軍団と遭遇しましたが、速やかに逃げて行ってくれました。堀切跡はかなり埋まってきています。



      


箱岩まで戻り、本丸へ進みましたが、腰曲輪をいくつも確認したものの、どういう訳か迷ってしまいました。



    


ぐるぐる回って、ようやく櫓台と言われるところに来ました。どうやら、枝尾根をうろついてしまったようです。


櫓台跡には、「秋葉山大神御祭神跡」の碑があります。戦国時代が終わってから勧請されたのでしょうか?この近くには慶長19年(1614)年に佐野市から移住して来た浅沼氏により開山された「天狗岩神社」という神社がありますが、地元長野原城秋葉山信仰と共存して火防開運の神として祀られた…としています。1614年にはすでに秋葉山信仰があったのでしょうか?



    


櫓台の下は、「武者溜」という地名になっています。この先、数十メートル先が本丸跡です。



  



「長野原城本丸跡」に到着しました。本丸からでも、王城山はよく見えます。

長野原城(別名箱岩城)

 町指定史跡 平成二年三月二十七日指定

長野原街並みの北側の尾根、東西約700メートルに細長く位置している。本丸、出丸、箱岩出丸、物見台、水の手からなり、それぞれ虎口、堀切り、腰曲輪等で守られている。箱岩出丸は、岸壁に囲まれ目立つため箱岩城の名が起こった。築城年月はあきらかではないが、戦国時代吾妻地方は武田方の真田氏と上杉方の斎藤氏の攻防が続いていた。永禄五年(1562)長野原城は真田氏が守っており、翌六年(1563)岩櫃城主の斎藤氏は長野原城攻略に動き、ここにお互いの攻防が続いたが、天正十年(1582)遺構どんな変遷を経たか全く不明で廃城の年月日も不詳である。

 長野原町教育委員会

        


この後、西方面にまだ城跡が続いているようなので探索します。大堀切跡、腰曲輪跡などが観察できましたが、「十二坂」というものが何なのか、どこに繋がっているのかはわかりませんでした。長野原町役場、雲林寺のあたりが見えます。



      


また迷いそうになってきたので、櫓台まで戻って、そのまま尾根を進みます。すると、箱岩の真上に出られました。箱岩出丸です。



    


    


箱岩出丸からの戻り道、なかなか下へ降りる道が見つけられませんでした。しかし、「←本丸跡」の看板のあたりを下に降りてみると、落ち葉に埋まった木製の階段を見つけられました。階段は今後も埋まったままになりそうなので、樹木に巻いてあるビニールテープを頼りにすると良いでしょう。



  


ジグザグの登山道を降り、長野原町役場駐車場へ戻ります。



    


雲林寺は羽尾入道幸全の弟、海野長門守幸光が開山したとばかり思っていましたが、海野長門守幸光は開基したのであって開山では無いようです。幸光は現在の地に寺院創建に尽力した資主(檀越(だんおつ))であり、開創の僧ではありませんでした。なんと雲林寺のホームページによると弘長3年(1263年)、臨済宗妙心寺派に属する龍幡和尚の創建で、元々は長野原字火打花(ヒウチバナ)というところにあり、その後貝瀬(カイセ・寺屋敷)に移り、約300年間栄えていたが大火災で亡失。永禄2年(1559)3月15日、幸光が開基となって現所在地に伽藍を再建したのだそうです。


曹洞宗 大洞山 雲林寺(群馬県吾妻郡長野原町
http://unrinji.jiin.com/


しかし、雲林寺は天明3年(1783年)の浅間山大噴火によって柱二本だけを残して泥流に流されてしまい、一般の観光の方が訪問しても戦国時代を思わせるものは何も残っていません。


境内には、三原34番札所の1番目がありました。33番あたりは長野原町林にあるので、長野原町を出発して長野原町に帰ってくるコースになっているのでしょうか。このお堂は「作道観音堂」といい、元は長野原の元NTTの反対側の山中にあったものを昭和45年(1970)に移転したのだそうです。馬頭観音が祀られています。


後日、もう少し長野原城址関連の史跡を調べてみようと思います。






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