吾嬬神社(かづまじんじゃ) 中之条町
旧六合村根広からの帰り道、東吾妻町原町の我が家にあと10分もないところで、右手の桜が気になり様子を見に行きました。桜は大したことがなかったのですが、もっと凄い樹木に出会うことになりました。
吾嬬神社がありました。あがつまではなく、かづまと呼びます。吾嬬山はJR吾妻線岩島駅に登山口があるのを先日知りましたが、東吾妻町と中之条町の町境にあるので、吾嬬山の里宮が中之条町にあっても何ら不思議ではありません。しかし、吾嬬山が「かづまやま」と読むらしいのでがっかりです。信仰の山ならば、〜さん、と呼ぶものとばかり思っていましたが…あれ?そういえば岩櫃山も観音山も嵩山も古くからの修験の山ですが、〜やま、と呼びますね。吾妻平では違う慣わしがあるのかな?
境内の看板によると、御祭神は日本武尊とその夫人上妻媛命とあります。上妻媛命…なんと、原町の大宮岩鼓神社の御祭神・大若宮彦のご両親様ではないですか。もうひとつの石碑には、吾嬬神社は、昔は上妻神社といった、と記されています。原町の伝説の美女、上妻媛命が隣町で祀られていたとは…。以前紹介したことがある伝説をもう一度掲載します。
東吾妻町の原町に上野(うえの)という地名が残っている。ここにその昔、上毛野国(かみつけのくに。現群馬県)で一の富力を持った上野長者高豊の娘に上野姫という美しい姫がいた。上妻姫ともいわれ、その美しさは東国一帯に知れわたっていた。
このころ、景行天皇の第二皇子の日本武尊は東国を平定して、都へ帰る途中、この噂を聞いて上妻姫に会ったそうだ。噂以上に美しい姫に心打たれた尊は、時のたつのも忘れ、姫との日々を過ごしました。
しかし、尊は都へ帰らなければならない。そしてその日が来たとき、尊は姫が尊の子を宿していると知る。尊は「お前は私の永遠の妻である。今日からは吾妻姫というように」といって「吾妻や妹背(いもせ)と契る言の葉も これぞわかれの形見なるらん」の一首を残して都へ帰っていった。途中信州との境の峠(今の鳥居峠)まで来て姫を偲び「あずまはや」(ああ、わが妻よ)と嘆いたそうだ。(これが「吾妻」の語源といわれている)
その後、上妻姫に皇子が生まれ、大若宮彦(おおわかみやひこ)と名づけられて大切に育てられた。土地では大宮とか巌鼓明神(いわつつみみょうじん)とも呼ばれ、この尊をまつったのが、大宮巌鼓神社である。
嬬恋村を含めて一般的には、日本武尊が鳥居峠で「あずまはや」と叫んだのは弟橘媛(おとたちばなひめ)に対してだと言われていますが、東吾妻町や中之条町では上妻媛となっているということ、そして嬬恋村も吾嬬山・吾嬬神社も正室ではない側室の意味を持つ「嬬」という字を使っているが、側室であることにはなるべく触れないようにしている点が面白いですね。
え!神社なのに山門?と思いましたが、神社でこういうものは随神門(ずいしんもん)というそうで、神域に邪悪なものが入って来るのを防ぐ御門の神をまつる門なのだそうです。門の中にいるのは仁王様ではなくて、随神さんというのだそうです。
このあたりでは珍しい、彫刻の彩色がさほど色あせていない拝殿です。小さいながらも神楽殿があり、境内社として子安神社と摩多利神社拝殿がありました。
だいたい見たので、出ようとした時、境内の「天然の妙 宿木」と書かれた木札に目が止まりました。はて、どんな樹なんでしょうか…
げーっ、針葉樹から広葉樹の枝が生えている!? (ノ゚ρ゚)ノ ォォォ・・・
針葉樹の方には樹洞があり、中が空洞になっているのですが、今日は夕方で暗く、調査ができませんでした。針葉樹が肥大成長し、広葉樹をその樹体中に飲み込んでしまったせいで、針葉樹から広葉樹の枝が出ているように見えているのだとは思いますが…
明るい時間のうちに、またしっかりと調査しに来ることにいたしましょう!