羽根尾城址、海野長門守の墓散策



羽根尾城址は、国道から城址の丘陵(城峯山)を見るに、規模が小さいように感じていたので、これまで訪問探索をしていなかったのですが、先日、長野原城址を散策したところ、長野原城主・羽尾入道幸全氏の元々の本拠地は羽根尾城であり、羽根尾城を散策し風に吹かれておかないと真田氏VS斉藤氏のことは語れない…と思い、探索してきました。



      


近くには海野長門守幸光の墓もあるのですが、そこからは登山道が確認できなかったので、案内表示が出ている車道を上がっていきました。軽自動車がぎりぎり通れる幅の道を上っていくと、駐車スペースがありました。その先は、軽トラックならもう少し登れそうですが、そうではないので歩いて登ります。



      


白いアスファルトは王城山にできた新しい登山道と同じものなので、ここも国土交通省により整備されたのでしょう。やがて、舗装道から右に案内板があり、丘を登ると、送電鉄塔がありました。



  



この、鉄塔があるところに、羽根尾城の本丸があったそうです。長野原城がギリギリのところで見えるのもミソですね。

長野原町指定文化財 羽根尾城跡(羽尾城)
 昭和49年9月21日指定

 戦国時代に信濃源氏、滋野氏の末裔羽尾幸全入道は羽尾城を根拠として勢力を振るった。幸全の舎弟海野幸光(長門守)輝幸(能登守)兄弟、ともに武勇を謳われた豪の者で、永禄九年(1566)真田幸隆により幸光は岩櫃城代、輝幸は沼田城代にそれぞれ任ぜられたが、兄弟を妬む者の陰謀により真田昌幸の誤解を受け、幸光は岩櫃城で、輝幸は迦葉山の女坂で自刃して果てた。時に天正九年(1581)11月29日、幸光75歳、輝幸72歳であった。
 羽根尾城は梯郭式の城で僅かな平坦地が本丸で虎口は東南部にあり東側に腰曲輪がつく。本丸の南に二の丸、更に南に三の丸が続く。

 平成7年3月吉日 長野原町教育委員会


この看板でも、羽尾幸全入道の本拠地は長野原城ではなく、羽尾城だったと書いてあります。



  


東側の腰曲輪。本当に狭いです。



  



本丸に隣接して堀切跡があります。形状がよく残っています。



      


ここでも猿のため糞が凄いこと。堀切の南には、尾根地形を利用した二の郭、三の郭が続きますが、長い尾根ではないので最後は絶壁になります。



  



引き返して来ました。最初に本丸の丘に登った場所は、尾根を分断する地形になっていることから、大堀切跡と考えられているようです。

それにしても、本丸までの道があっけなかった感があります。二の郭、三の郭の両側は絶壁でしたが…。



    


もう一度、ゆっくり車で降りて、上ってきた来た道を確認します。車で上れるほどの地形ですから、ここから攻めれば容易そうですが、まずはこのU字溝が小川だったかもしれません。そのまま上り攻めれば三の郭から兵が下りてくる、その次は二の郭から兵が下りてくる…という仕組みだったのでしょうか。もしくは、羽尾一族はとにかく武術に秀でていたらしいので、「来るなら来い」状態だったのでしょうか…


以下のブログに、長野原城址の縄張図があります。この城に、真田幸隆が逃れてきてかくまった、と思うと、あまりにも小さいように感じてしまいます。


箕輪初心●群馬長野原【羽根尾城=羽尾城】
http://53922401.at.webry.info/201201/article_24.html



    


次に、海野長門守の墓へ。ここは駐車場がないので困ります。行きたい方は、JR吾妻線羽根尾駅の駐車場を利用し、そこから歩くのが良いでしょう。



    


石段を登ると、広い場所があり、あずまや、社、墓、看板などがあります。


長野原町指定史跡 海野長門守の墓
 昭和49年9月21日指定

 墓碑は宝筐印塔で、総高二メートル、墓碑の三方に碑文が刻まれている。

右側、上野州我妻郡羽尾城主海野長門守同舎弟能登守従往者雖有遺跡没為水災故改之
正面、雲林院殿前長州洞雲全龍居士
左側、干時元文三年戌午七月朔日宗泉五世心叟再興之

 海野長門守は、中世の頃、羽根尾を拠点に領地を所有していたが、真田幸隆岩櫃城攻略のとき、城主斉藤氏討伐に忠誠を尽くした功績で、永禄九年(1566)吾妻郡代となり、16年間激動の時代に城を守った。天正9年(1581)、真田昌幸に逆心したということで、居館の岩櫃に攻め込まれ75才を一期に11月21日に自殺した。長門守の弟、能登守は沼田の女坂で壮烈な討死を遂げた。その墓は沼田市の史跡となっている。羽根尾は旧領だったため遺臣等がこの地に葬ったという。墓の西に並んで二基の石塔がある。一基は海野長門守家来の霊として家臣を祀ってある。一基は松尾沢戦死者の霊を祀り、更に一基は海野長門守家来の霊として家臣を祀ってある。

 昭和63年 長野原町教育委員会

  



一番右側が海野長門守幸光の墓です。そして驚いたことに、その隣の、丸い石が積まれた石塔は「松尾沢戦死者」の慰霊塔であるというのです。


吾妻の動乱のきっかけともなった、鎌原氏と羽尾氏の争い。加沢記によると、まず、羽尾入道(海野長門守の兄)が、鎌原氏の本拠・鎌原城を攻めて奪いますが、その後、永禄五年(1562)6月、万座の湯に湯治に出かけている事を鎌原氏に知られ、鎌原城を奪い返されます。羽尾入道は信州高井野に落ちていましたが、同年9月、高井野の加勢500人騎を引きつれ、9月上旬に万座山を越え干俣を通り米無山へ陣を張り、大前の上原という所から鉄砲で鎌原氏棟梁・幸重を狙います。弾は命中し、見事、大将を討ち取ったと思い、弁当を取り出して酒盛りを始めた羽尾軍の前に、無傷の鎌原幸重の軍がどっと押しかけます。実は討ち殺したのは鎌原氏ではなく、なんと内通者の樋口氏だったのです。羽尾入道は命からがら岩櫃城平川戸へ落ち延び、高井野の加勢はほうほうの体で万座の山をさまよいながら、7日も10日もかかって故里へ逃げ帰ったそうです。


この、高井野〜万座〜米無山〜大前上原→戦い→敗走、高井野へ の際に通ったのが「松尾沢」であることに間違いありません。


私は万座温泉日進館に勤めていた頃、この話を聞いたことはありましたが、どうせ伝説だろうと高を括っていました。あれから10年以上経って、その伝説にこうして向かい合うことになるとは…。今は、この伝説を信じています。理由は、この吾妻の地で残りの人生を全うし、吾妻の土に帰っていきたいからです。吾妻を築いてきた祖先たちから代々引き継がれてきた地域の意識と同化し、同じ土壌となり水となり空気となり、根底の一部になりたいからです。


それを気づかせてくださった海野長門守の墓をはじめ中世の史跡・伝説の数々、そして出会った関係者の方々に、心からお礼を申し上げます。



      


御嶽山座王神社石碑もありました。ここから登れてもいいはずなのですが、案内看板がありません。墓の裏手にU字溝があり、たどってみると、送電鉄塔の真下に出ました。どうやら、ここから上に登れるようです。



      


上に登る階段があるものの、整備がほとんどされていません。急斜面なこともあり、町役場としてはここからのルートは積極的に案内したくはないのでしょう。下り道は落ち葉で階段が見えませんからお気をつけください。





海野長門守の墓に戻りました。羽根尾城跡の看板に記載されている内容が、本丸のものよりもこちらの方が詳しいようなのでここに転載いたします。


長野原町指定史跡 羽根尾城跡
 昭和49年9月21日指定

 羽根尾城跡は、大字羽根尾城峯山の山頂にその遺跡を残している。雑木林に囲まれ北端に本丸の土居がみえ、その南に二の丸、更に一段低く三の丸が続いている。山麓西側には地獄窪、また北方堀切を距てて北方水という用水地がある。築城年月は定かでない。この城は羽尾氏の本拠であって、羽根尾幸全入道とその弟海野幸光(長門守)輝幸(能登守)の兄弟がここから出ている。戦国時代の羽尾氏は、この城にあって勢力を振い、草津の湯本、嬬恋の西窪鎌原両氏等と並んで吾妻を舞台に活躍していた。永禄六年(1563)長野原合戦では、海野兄弟は岩櫃城斉藤越前守方の大将として長野原城を攻略した。

 その後、真田方についた羽尾氏は、永禄九年(1566)真田幸隆より岩櫃城攻略の戦功によって岩櫃城代に任ぜられた。幸隆の没後、子昌幸も海野兄弟を信頼して吾妻郡を一任したが、海野兄弟に対する誤解と地侍の手前から天正九年(1581)海野兄弟を急襲した。長門守は、岩櫃城にて自害し、能登守は迦葉山(かしょうざん)に退いたが、追っ手の多勢に敗れ自刃した。

 海野兄弟を失った羽根尾城は、天正十一年(1583)昌幸の命により湯本三郎右衛門が在城するようになったが、いつ頃廃城になったか定かではない。

 昭和63年 長野原町教育委員会




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