富沢家住宅(中之条町・国指定重要文化財)



中之条町の国指定重要文化財、富沢家住宅に行ってきました。




富沢家は天正年間(1573〜1592)に新田村に土着した小池三郎右衛門の後裔で、その後の開発により貞享年間(1684〜1687)には村の3分の2の水田を所有し、運送業や金融、養蚕などにも家業を広げ地域を代表とする豪農となった家柄です。


現在の建物は寛政2年(1790)に建てられた茅葺入母屋造りの2階建てで、正面の屋根を高く切り上げ、2階の部屋に光を取り入れられるようにした「前兜造り」「平兜造り」風の屋根をしています。桁行13間(約24m)、梁間7間(約13m)の大型農家建築で、屋根の形状や平面構成から北毛地方の養蚕農家の典型とされています。



  


  


224年経った柱…ですかね。でも上から塗ってあるのでそう風化していません。真ん中あたりから入ったはずでしたが、右側半分以上が土間になっていました。運送業もやっていたので土間を広くしたのだそうです。「うまや」が4部屋ありました。養蚕農家ですから、お蚕様を飼育する2階を1階よりも広く取っていて、「出し梁造り」というそうです。



  


ありゃま。2階は立入禁止なのですね…





いや〜、下から見ても広そうな2階です。行けなくて残念…




  


ざしき は、広いが普通ですね…いや、この梁を止める金具、やはり凝った高級品を使っていますね!





部屋の奥に部屋、またその奥に部屋…。富沢家は上級農家だった為、幕府の役人など身分の高い人物との接触も多く、彼らの休息や宿泊にも利用されました。「でえ」「なかでえ」「上段」と、奥に行けば行くほど良い部屋、というわけです。



  


「上段」とされる細工建具の素晴らしいこと!



    


「からうす」とは、臼を地中に埋め,柄の端を足で踏み,杵(きね)を上下させて穀類を搗(つ)く仕掛けなのだそうです。神輿や消防器具は富沢家のものなのかよくわかりません。



  


それにしても「へっつい」と呼ばれるかまどの大きいこと!それにしても、食事のたびにこんなどでかいものを取り外して洗っていたのですね。



  


  


入母屋造りには、妻側の三角形部分に破風(はふ)という造形ができます。ここが換気窓になっているのですね。

嬬恋村では茅葺き屋根の養蚕農家は見たことがなく、木造、トタン、或いは瓦屋根で、櫓(やぐら)という換気窓がありました。この入母屋造りというのは、茅葺きならではの様式なのでしょう。また以前、東京の建築士の方に「せがい造り」という建築用語を習いましたが、群馬県吾妻郡では「出し梁造り」と言った方が地元らしいのでしょうかね。


裏側に回ってみると、こちらは正面のように全面を切り上げてはいませんでしたが、部分的に光が欲しいようなところだけ切り上げていました。凝った造りです。


帰ってからいろいろと調べ、富沢家住宅の理解が深まりました。今度は詳しい方と一緒に行ってみたいです。






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