『岩櫃山』登山と『岩櫃城址』探索エコツアー 〜 吾妻最大の桜『大隅桜』が咲く頃に 〜



【新シリーズ】戦国真田の吾妻侵攻と、あがつまの山・里・花を訪ねるエコツアー
http://ecotourism.or.jp/sengokusanada.html


の初回、


岩櫃山』登山と『岩櫃城址』探索エコツアー 〜 吾妻最大の桜『大隅桜』が咲く頃に 〜
http://ecotourism.or.jp/sengokusanada/iwabitsu-sakura01.html


を実施しました。



    


武田勝頼公を迎えるはずだった御殿「潜龍院」の保全活動や地域づくり活動に尽力する「あざみの会」の根津光儀さんは、岩櫃山直下の集落、郷原の農家です。岩櫃山周辺最高のガイドとお見受けし、今回のガイドを依頼しましたが、なんと岩櫃城址関連の遺構を長年にわたり徹底的に調べ上げ、その膨大な成果を惜しみもなく発表している富澤豊前守さん(富澤朗さん)も、同行してくださることになりました。このお二人に今日のコースを案内していただけるのはまさに夢の共演、こんなに地域の風を深く味わい感じられるエコツアーは滅多にありません。どこかに応募しなくちゃです。


ようこそ根津農園へ
http://www.aganet.or.jp/~nezu/


根津光儀さんブログ 
http://blogs.yahoo.co.jp/kannitikunn


岩櫃城興亡史〜強者どもが夢の跡〜(富澤豊前守さんHP)
http://www.denno2488.com/





今回のエコツアーは岩櫃城址の訪問散策からスタートしました。




      


富澤豊前守さんが、岩櫃城址のことを解説してくださいました。ここは岩櫃城最大の竪堀、北東竪堀です。岩櫃城は真田家お取り潰しの後、廃城になっているために、破城されており、不明な点が多いとのことです。しかし、この竪堀は、S字型の虎口(喰違虎口)となっており、攻城側はS字の進路を取らざるを得なくなります。周囲の地形から見るに、岩櫃城は鉄砲を使う戦術の城だったと考えられるそうです。であれば戦国時代でも後の方、吾妻太郎斉藤氏の時代ではなく、真田氏以降に築城されたということなのでしょうか…



      


「中城」とは、城と城を繋ぐ場所という定義があるが、ここの「中城跡」は何処と繋いでいたのか、またなぜ広い斜面となっているのかも解明されていないそうです。中央竪堀の上部にある「碁盤の目曲輪」も確認することができました。



      


二の曲輪へ。階段のある登山道は元々城の遺構を使ったものではないために、破壊道と呼ばれ、城址マニアからは忌み嫌われています。本曲輪(一の曲輪)からは殿屋敷まで続く「南の竪堀」を確認。若干S字型になっていますし、途中には「碁盤の目曲輪」もあります。そしてこの急斜面。なるほど、攻め上がってはこられませんね。





本曲輪から切沢方面を眺めます。善導寺はかつて、「南の竪堀」の先にありました。この場所は南西〔坤:ひつじさる〕の方向であり風水の「裏鬼門」です。(表鬼門は北東〔艮〕)。武田勝頼公がもしここで籠城することができていたら、歴史はどう動いたのでしょうか。



    


北東側を眺めます。白砂山と北に続く越後の山、仙ノ倉山から谷川岳あたりの山が見えています。



        


さて、この本曲輪にある「本丸跡」の看板は、富澤豊前守さんは「楼台跡」が正しいとのことです。本丸とは本曲輪のことであり、この看板だと楼台が本丸だと誤解を与えてしまうそうです。ただし、この高台には気になる石の配列があり、楼台などの構造物があったと考えられるそうです。「居館」の看板はそういうことです。

北側は土塁により一段高くなっており、その下は30度程の急崖です。つまり、岩櫃城岩櫃山の尾根地形をそのまま生かして築かれていて、後ろは岩山に阻まれ、両側は急斜面、尾根の下方延長線上には竪堀や虎口、曲輪などが築かれていて、自然地形を生かしさらに発展させた要害となっているわけです。



      



登っていく途中にある「北の枡形」。こういう、四角い場所に入らざるを得なくさせて、入ったところを一網打尽にするらしいです。そして、待ち伏せにふさわしい樹洞が…?





うーん、これは使えたかもしれない。子供だましに…



    



このあとは、登山道となりますが、最後にしっかりとした竪堀があったり、狼煙台と考えられる場所がありました。





山側、城の背後にある竪堀。しかし至るところに仕掛けがあって驚きます。こんな大きな城、守備の者がどれだけ必要だったことかと思いますが、実際には吾妻の石高から考えると居住人口がそもそも少なかったわけで、富澤豊前守さんの考えでは、合戦時でも徴収できた兵は500人程度ではないかと。常駐の警備兵は数十人…それにしては建造が大きい城です。この城を築城するためにはどれだけの時間と人手が必要だったことか…



    


ここからは岩櫃山登山道、東尾根通りを進みます。途中には凝灰角礫岩からなる天狗岩があります。





本当は、岩櫃山登山中の写真は全て大きく掲載したいですね。絵になる山です。



       


そのまま赤岩通りの分岐点まで進みます。



        


ここを赤岩方面に数十メートル進んだところに開けた場所があり、そこで根津さんが説明してくれました。なんと、この場所には矢沢但馬守のお屋敷、「但馬屋敷」があったそうです。矢沢但馬守とは矢沢頼康のことで、真田幸隆の弟・矢沢頼綱の嫡男です。真田家の重臣で、幸村や信之を補佐しつつ、共に戦国時代を生きぬきました。岩櫃山の上部の方、水場も遠いこの場所に住むことはとんでもないことですが、忍者軍団そのものの真田軍団なら考えられないこともありません。凄いですね。




ここからは沢通り登山道を登ります。



    


沢通りに入ってすぐにあるのは「天狗の蹴上げ石」です。天狗の足跡、吾妻郡の山中大岩には多いですね!



    


ここは「櫃の口」と呼ばれるところで、下に続く井戸のようになっています。その底は横から出られるようになっていて、「胎内くぐり」ができます。



  


一本槍というのは縦長の大岩の名前ですが、ここはとても狭く、ここで槍一本持って守れば誰も通ることができないそうです。しかし、曲者がここを通る状況のイメージは頭に描けませんが…



        


モミ巨木の横を通って進みます。





岩櫃山山頂が見えました。かつては屏風岩と名前がついていました。



        


草津白根山志賀高原の山々が見えます。それにしても今日は登山者が多いですね!そうか、週末はこの鎖場を上るために待つことになるのですね。鎖場がついてなかった時代はどうやって登ったのでしょうね。





岩櫃山山頂・屏風岩からの眺めです。眼下に岩島の集落、左奥に大戸の集落も見えます。右手には浅間山も見えています。



      


鎖場に登る=山頂ではなくて、もう一つ140cm位の岩を登って山頂になります。結構混んでいるのには驚かされますが、根津さんの話ではエベレストの山頂が、広さも混み具合もこのくらいだそうです。


眼下に見える岩は前岩といい、その上部を千畳敷といいます。千畳もありませんが…。かつては千畳敷に行く道があったそうですが、今はありません。大雪で潰れてしまった根津さんのビニールハウスも見えています。



      


鎖場を降りる際、くくりつけられていたトラロープが危ないという指摘が数人からありました。ここから西へのルートは「密岩通り」といいます。


屏風岩の下には、瀧峨山金剛院(観音山の不動堂)の修験者が護摩堂を建てて、「篭もり堂」と名付けたこともあったそうです。この屏風岩をぐるりと回って降りていくのですが、いやはや、絶壁の登山道です。すれ違いたくはありませんね…



    


ビックリマークの形の穴をくぐって降り進みます。



      


この先には、登山道から少し左側にそれる道があり、「鷹の巣遺跡」という岩陰があります。今日は専門家の方も同行してくださっていたので私たちは直接説明を聞くことができましたが、岩櫃山鷹の巣岩陰遺跡(群馬県生涯学習センター)http://www.manabi.pref.gunma.jp/rekisi/yayoi/13.htmのページには以下のように記載されています。

岩櫃山鷹の巣岩陰遺跡【いわびつやまたかのすいわかげいせき】
岩櫃山の山頂から20mほど下にある鷹の巣岩陰には弥生時代の墓がありました。
壺や甕などの土器19個が4群に分かれて出土しました。
土器の中からは人骨がみつかっています。弥生時代には再葬の風習がありました。いったん埋葬した遺体を掘り上げて骨を土器に入れて再び別のところへ葬ったのです。このような墓を「再葬墓」と呼んでいます。月夜野町の八束脛洞窟遺跡も再葬の遺跡と考えられています。
岩櫃山鷹の巣岩陰遺跡から出土した土器は、東京国立博物館明治大学考古博物館に保管されています。


「再葬墓」とは不思議な風習ですね。



      


登山道に戻り、下ります。赤松に生えた不思議なきのこ。振り返れば屏風岩に登山者が一人。忍者みたいですね。ここで、根津さんが武田の埋蔵金の話をしてくださいました。岩櫃山の朝日ちゃっかり、夕日ちゃっかり指すところにあるそうですが…?? そして岩櫃山の難所に到着しました。





この鎖場、山頂の鎖場よりも迫力ありませんか!




  


こういうところも、スイスイ降りていく当協会のガイドさん方。本当に頼もしいです。





さらにその下、「天狗の架け橋」




        


修験者や真田忍者の血を引く?吾妻の強者どもは軽く歩いていきます。途中で止まって写真を撮る忍も!
※回り道もあるのでご安心ください。



        



密岩通りを下ります。このあたりから、登山道の荒れ方が激しくなってきました。ヤブレガサの新芽が顔を出ています。





尾根道から左側の郷原集落方面へ向きを変えて降りていきます。



        


吾妻平野から切り立った岩櫃山の尾根にワープするような道ですから、急傾斜なのは百も承知です。それにしても落石をさせないで降りるのは至難の業。階段も荒れ放題。しかも落ち葉で見えないところも多い。入山料でも徴収して整備していくしかないのでしょうか…



        


ようやくガレ地を脱出したあたりの上部には、かつて水岩神社(今の密岩神社)があったそうで、水岩権現様が祀られていました。一般的ではない、別の伝説では、永禄6年(1563年)岩櫃城主斉藤基国(一般的には斉藤憲広)は武田氏の先鋒真田の軍勢に敗れ落城。北の方は落城の混乱で越後に落ちた基国公の一行を見失い、三年三ヶ月の間、北国をさまよい探し続け、もしや故郷岩櫃に帰っているのではないかと、再び城下に立ち返ったが、そこには真田の六文銭の小旗がむなしくたなびいていました。北の方は精根尽き果てて亡くなりましたが、その時一筋の煙が立ち上がり、観音の姿が現れたそうです。里人は北の方の不運を哀れんで、ここに水岩権現として祀ったのだそうです。


それにしても、この冬の大雪で樹木が倒れて大変なことになっています!



        


郷原に降りてきました。振り返ってみて、まず岩櫃山の大きな岩が幕岩、その前にあるのが前岩、左にあるロウソクのような岩には地蔵岩といいます。放射線量測定設備があり、一般人でも見られるようになっています。この場所は、群馬県内でも有数に高い数値が出てしまったところです。急崖の岩櫃山がアンテナの役割を果たし、ここに集めてしまったのでしょう。東吾妻町自体は、そんなに高くなる理由がある場所ではありません。春の花咲く郷原集落を歩きます。





到着しました。幹の太さではあがつま最大の桜・「大隅桜」。



    


エドヒガンザクラの巨木で、高さ18m、幹周り7.4m、根本回りは10.9mもあります。ほぼ満開に来られました。まるでこのエコツアーを祝福してくれているかのようです。


この大隅桜は墓地の敷地内にあり、矢倉鳥頭神社の神主さんのお家が代々守っているそうですが、年々樹勢が衰えてきた模様。え!最近は土葬しなくなったから、栄養が足りないですって



        


大隅桜の下で昼食にしたかったのですが時間も押しているので、潜龍院跡へ。ここの樹木の合間から見える岩筆山は素敵です。かつては潜龍院跡で寺子屋をやっていたことがあったそうで、来るときは水をいっぱい組んでくる習わしがあったそうです。





戦国時代、富強を誇った武田家は信玄没後、長篠の戦いに敗れ急速に力を失い衰退していきます。重臣達が寝返り揺らいだ家を立て直すために、真田家当主昌幸は武田勝頼公を迎え、武田の再挙を図ろうとしました。それがこの潜龍院跡、武田勝頼を迎えようとした御殿の跡です。


武田勝頼がこの地に来ていたらどうなっていたことでしょう、真田家と真田忍者が頑張れば、武田家は本当に持ちこたえて歴史が変わったのでしょうか?しかし、長篠の戦いでの勝頼の戦いっぷりから考えると、真田軍団がいかに強かろうと織田や徳川に敵いはしなかったでしょう。それどころかことごとく吾妻の民は織田信長に殺されていたかもしれません。



      


潜龍院跡の上で昼食をとりました。潜龍院の石垣は、N様の見立てでは、戦国時代のものではないのでは、とのことでした。長い石を斜めにおく置き方は比較的新しいそうです。



  


郷原登山口駐車場付近から見る岩櫃山。右上の女性のようなお顔が「おとげ岩」です。左下にも顔があるように見えますね。



    


郷原から平沢へ移動します。郷原小学校跡の石垣があったり、





保存状態の良い、現在も人が住まわれている、とても大きな木造住宅があります。国道145号線からもよく目立つ大きな古民家がこちらです。



        


しかし、そのお隣が本家でいらっしゃるようでして、確かに素晴らしい造りでした。民家の「うだつ」というものを初めてちゃんと見ました。しかし、こちらは相当古いらしく、保存状態は悪いです。しかしこの三軒の古民家は街の財産なのではないでしょうか。こういうものこそ改修費の補助をしてほしいと思いました。



      


郷原神社の前を通ります。ここは、実は岩櫃城の出城で、岩櫃城の弱点を補っていたのだろうと考えられています。郷原の薬師堂は海野長門守幸光が持病の眼病平癒のため建立したもので、弘法大師が彫ったという薬師様があったが盗まれたそうです。


ふきのとうの畑を横切ると、鄙びた池付きの古民家があり、文字が消えかかった看板に「親切あさってなし」とあります。これは、「紺屋の明後日(こうやのあさって)」ということわざから来ています。「紺屋」とは、布を紺色に染める職人、つまり染め物屋のことで、染め物の仕事は天候に左右されやすく、仕上がりが遅れがちなため、客に催促されると「明後日になれば染め上がる」と言い訳して先に延ばすが、その約束も当てにならないのが相場であったそうです。なので、そういうことはないですよ、という意味で「親切あさってなし」という看板を掲げて染物屋をしていたのだそうです。


これは いい看板ですね!それにしても、ここに染物屋があったということは、東吾妻町郷原切沢あたりでは藍が育つ=東吾妻町藍染体験が可能だということ! よーし今に…



      


この向かいにあるのが「耳無し不動」です。1349年、岩櫃城主吾妻太郎行盛は碓氷の豪族里見氏に攻められ、自らの首を掻っ切り対岸の里見の本陣に投げつけ絶命します(これが川戸神社「首の宮」の始まり)。その息子、千王丸が数年後に敵討ちに成功、岩櫃城を奪還し斎藤太郎憲行として城主となります。奪還の際に城中で千王丸が敵に囲まれ危機にあった時、激怒の形相をした大男が加勢してくれ、難を逃れました。この大男を祀ったのが「耳無し不動」だそうです。


このあたりの民家には、壁にリフトを備えた家があります。これは養蚕の証だそうで、二階の蚕室と物資を運ぶ際に利用したそうです。


そして、段々畑と春の花が美しい場所に来ました。切沢善導寺 です。



  


善導寺は現在、原町にありますが、昔は岩櫃城の南西(坤)の裏鬼門に建立されたのだそうです。なんと善導寺はその前は川戸の内出城址の鬼門に建立され、秋間氏の滅亡とともに郷原切沢に移転され、さらに元和元年(1615)岩櫃城破却と共に現在地原町滝沢に移転したのだそうです。


善導寺跡も玄人から見ると出城としての役割を担っていたのでは、と考えられているようです。しかし、そんな城址のことに興味がない人にとっては、棚田の周りに梅や桜の花が咲いていて、美しい里山風景としか映りません。それもまた良し。



      


歩道は終わり、真田むかし道を通ります。すると「亘稲荷大神入口」の石碑がありました。1563年、岩櫃城主斉藤基国(一般的には斉藤憲広)が真田の軍勢に敗れ落城した際のこと、斉藤氏の家臣・渡利常陸介が火炎の中を幼君を背負って切沢表まで逃れましたが、どうすることもできず、幼君を刺し殺してしまいました。その後その霊が子々孫々に祟り腹を病む物が続出したそうです。渡利家は渡利稲荷の傍らへ小社を建て殿宮大明神として祀り、その霊を慰めたところ、腹病は止んだそうです。しかし若君の怨念によって小社の竹林は残らず曲がって、一本もまっすぐな物はなかったのだそうです(富澤豊前守さんHPより引用)。



    


岩櫃城最後の城代・出浦対馬守の屋敷跡の前には木戸(城門)があったと考えられています。その近くにあった樹木の根株が、私にとっては吾妻太郎の妻、水岩権現様の首のように見えました。


最後に歩いた平沢集落は直角に曲がるカーブの連続でした。これは喰違虎口として機能できるように集落を設計したのでしょうか?これから、古い城下町などを歩くときは、地形を意識して歩いてみようと思います。






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