戦国真田の岩櫃城跡探検隊 第八弾 〜 真田の忍たち 栄光と悲しみ 〜



東吾妻町の地域おこしグループである「あざみの会」が主催する 『戦国真田の岩櫃城跡探検隊』 は、このところ私が最も楽しみにしているイベントです。


第八弾のテーマは 【真田の忍たち 栄光と悲しみ】 だそうです。






真田忍者。







NINJA GAIDEN Σ2 PLUS プレイステーション® オフィシャルサイトより




いえ、私だって別にこういうのをイメージしている訳ではないんですが、たまたま画像検索でヒットしたので…


とにかく今、「あがつま忍者スクール」、もしくは「岩櫃忍者スクール」設立の機運が高まっています。(私が勝手に)


そんなことで、ウキウキワクワクして『戦国真田の岩櫃城跡探検隊 第八弾 〜 真田の忍たち 栄光と悲しみ 〜』に行って参りました〜



  


今回も凄い人気です。当初、今日の天気予報は強い雨だったので、結構なキャンセルが出たにもかかわらずに88名の参加です。廃城跡の人気は根強いです。そんなコアなファン達を満足させるこのパンフレット、いつも感心します。



  


今回は岩櫃城跡探検隊始まって以来、初めて東吾妻町外に出るのだそうです。一行は高山村中山城跡へ。ここは真田忍者ゆかりの地だというのです。高山村歴史ガイドの市村様が、高山村の城址資料をご持参の上、解説案内してくださいました。



  


国道145号線に隣接している中山城ですが、観察用の歩道に入るためにはかなり歩きます。
元々中山城は、真田幸隆に攻め滅ぼされた岩櫃城主・斎藤一族の家系にあり、上杉謙信と親交があったそうです。



  


岩櫃城嶽山城が真田軍に落城された後も、中山氏は真田氏に一時的に従いはしたものの、武田信玄死後は上杉家に寝返ったり、従った長尾氏が北条氏の家臣になったりしていました。中山城は上杉、武田、北条の覇権争いに翻弄された城だったようです。



  


本丸のことを、この探検隊ではより専門的に本曲輪(ほんくるわ)と言います。ここで中山城の説明を受けました。また、この城跡は1582年頃、北条氏によって築城された(であろう)中山新城であり、その前の中山氏の古城は中山峰城(城山)といってここから東に1㎞の五領地区にあったそうです。

※1582年は武田勝頼が天目山で自刀し、織田信長が本能寺で自刀した年。

中山城跡(看板より)

中山城は、立地上は土囲式丘陵、構造上の分類からは、本郭が一側に偏し半円形をした囲郭式で、この地域では最も新しい構造で、小田原北条の影響を受けたものである。

付図のように、本丸は正方形に近く、追手は南である。二の丸は本丸の北・西・南を囲み、三部分に分かれ、本丸との間の堀は深く土橋はない。堀は総て空堀で、掘底は通路を兼ねている。三の丸は二の丸の外側に囲い付で、その南部は広い。更に三の丸西・北側に腰曲輪、南・北に捨曲輪がある。

上杉・武田・北条の覇権争いに翻弄された城で、天正10(1582)年、沼田勢と共に白井勢と戦って破れ廃城となった。

平成二一年三月 高山村教育委員会(撰文 平形作太郎)


あれ?聞いた話と看板が合っていません。1582年に廃城?築城したんじゃないの?





本曲輪は切岸(きりぎし)と呼ばれる高い土塁で囲われています。この方面には二の曲輪、三の曲輪があるので段差はこの位ですが、登ってきたところは一番下からでしたかなり高かったです。また、堀は400年で2m程埋まってしまうそうです。



  


次に中之条町に移動し、真田忍者・唐沢玄蕃の墓を訪ねました。ここからは、あざみの会・根津光儀さんが作成した資料の文面を大幅に割愛し、私の解釈を踏まえて記載解説します。


唐沢玄蕃の家は岩下城主富沢の分家筋にあたり代々杢之助(もくのすけ)を名乗り猿渡に暮らしていました。現場の父杢之助は1563年信玄の吾妻侵攻を受けて、矢倉鳥頭宮にて斎藤弥三郎、海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟、浦野、富沢らと共に信玄恭順の起請文を交わしました。その同日には、岩櫃城攻めのために真田昌幸が六合の赤岩、暮坂峠を越えて進駐してきており、杢之助の妻と子(玄蕃)が挨拶に行ったそうです。





1573年、真田昌幸は家臣の忍・唐沢玄蕃に、先ほどの中山城と尻高城に火をかけるように命じます。玄蕃は尻高城の放火を見事にこなしその後、中山城に一人で忍び込むと見事な金の馬鎧を見つけます。どうしても馬鎧が欲しくなった玄蕃は、城に火を放たずに盗み出しました。その後、玄蕃は出陣の度にこの馬鎧をつけているとある時、武田信玄の目にとまりました。信玄が真田信綱(昌幸の兄)に聞くと、「彼のもの唐沢玄蕃なり」と答えたそうです。この一件で玄蕃の名は大いに高まったそうです。


1575年、長篠の戦いでは真田信綱・昌輝も討ち死にし、滋野一族や吾妻の郷士達も多く犠牲になり、真田氏はその状況下で吾妻を死守しました。1582年は武田勝頼が天目山で滅び織田信長本能寺の変で命を落とす激変の年です。転戦に次ぐ転戦の中、玄蕃は忍としての活躍の他、一軍の将としても活躍しました。



  


1582年、北条軍に奪われた手子丸城を奪回するときには、前出の金の馬鎧が役に立ちました。唐沢玄蕃が馬を乗り出すと敵は「真田の御大将と見受けたり」と大軍を繰り出してきました。これを森陰から見ていた真田信幸(伊豆守)が横合いから攻撃をかけました。この戦では他にも真田軍ならではの神出鬼没の戦法で北条軍を散々にかき回し、五千人の兵を三百騎で打ち負かしたそうです。真田軍は忍者の集団そのものだったそうです。



  


次に、もうひとりの忍者・割田下総(わりたしもうさ)の墓を訪ねました。唐沢玄蕃の墓から歩いて移動できます。


1563年、武田信玄の侵攻を受け名城岩櫃城が落ち、斎藤城虎丸は嵩山に篭っていましたが、1565年真田軍から総攻撃を受け、嵩山の山頂から身を投じ、兄の憲宗も自刃し吾妻の名門斎藤氏は滅亡となりました。加沢記によると、この間の1564年の記述に斎藤軍の一員として割田下総や鹿野和泉が出てきます。


割田下総も、忍びの腕では唐沢玄蕃に引けを取らない忍者だったと考えられています。ただし、家柄や真田に恭順したのが遅かったからか、出世の面では玄蕃には及びませんでした。割田下総は常々、「どうも俺は働きの割にぱっとしないが、これは良い馬も飾り付けもなく持ち物も貧弱だからである」と思っていたそうで、ある時、行商人に変装し、北条軍の金幅輪の鞍を置いた黒毛馬を手に入れました。この騒ぎはあまりの見事で、敵味方なく賞賛したそうです。


1590年、豊臣秀吉はついに北条征伐に乗り出しました。小田原征伐です。大道寺駿河守が守る松井田城へ真田昌幸を案内人として前田利家三万の軍勢が押し寄せました。この中には出浦上総介、唐沢玄蕃、割田下総らが従軍していました。この時、割田下総は竹束をかざして鉄砲弾よけにし攻め寄る手法を考案し、手柄を立てました。この考案により割田は昌幸公から感謝状と備前長則の刀を添えて褒美を賜っています。


1615年大阪夏の陣では、沼田真田信吉(信幸の長男で幸村の甥)の手勢は竹束を身につけて前進し、城から打ち出される弾丸を避けて迫っていました。天守から秀頼君がこれを見て「あの赤い備えの者ども目障りなり」と仰せになるのに真田幸村は「あの赤い旗の六つ連銭は、伊豆守(信幸)の子供です。ご無礼なので今から蹴散らしてまいりましょう」と言いましたが、秀頼君は「そちの親戚なら赦してやろう」と答えたそうです。この時、幸村公が出馬すれば沼田の兵は生きては帰れなかっただろうといわれており、下総考案の竹束作戦はいろんな意味で功を奏しました。



  


1618年、訪れた平和の中で割田下総は百姓仕事と少々の盗みで暮らしていましたが、郡代出浦上総之介に盗みが知られ、捕り手を差し向けられました。捕り手は、斎藤城虎丸軍の一員として一緒に嵩山に篭った仲(1564年)である、鹿野和泉とその息子、又兵衛でした。割田は弓鉄砲で散々あしらわれた体でも、役人七・八人を手負いにしますが、又兵衛に切られて倒れます。瀕死の状態でしたが首を討ちに来た和泉の足を払い傷を負わせました。この傷がもとで和泉は命を落とします。


鹿野和泉葬儀の際、浅間山の方から不気味な雲が湧き岩櫃山に猫魔がのり上がりました。大雨あられとなり、大変なパニック状態になったそうです…。


当代最高の忍であった唐沢玄蕃と割田下総でしたが、天下泰平後は召抱えられることはなく帰農していきましたが、出浦上総之介や鹿野和泉は真田家臣として残りました。しかし、そのように俸禄にありつき武士として長らえた者達も1615年、沼田真田家お取りつぶしであえなく浪人となりました。…戦国時代、殺し合いに生きた者達の末路とは、どうあっても人並みの幸せに浸る事はできなかったのですね。戦争の虚しさというか、現世のできごとは全て夢幻かな…と、一行はしばし感傷に浸りました。



  


コニファーいわびつに帰って昼食です。このランチ代だけでも今日の参加費2000円をペイした気分です。



  


昼食時間を利用して、東吾妻町・中澤恒喜町長がごあいさつ。岩櫃城岩櫃山にかける思いが伝わってきます。高橋政充教育次長からは、いよいよ岩櫃城の発掘調査を始めるとの発表がありました。いや〜楽しみですね。



  

ロビーにある岩櫃城祉縄張図は、富澤豊前守(富澤朗)さんが作ったもの。しかしあざみの会は人材が豊富です。http://denno2488.com/wordpress/?p=221


午後は3コースに分かれて探索。私は、岩櫃城を詳しく探検する「出浦対馬守屋敷跡ハイク」に参加しました。今日学んだ真田忍者、唐沢玄蕃や割田下総と共に戦場を駆け回り、やがては岩櫃城代にもなり、割田に取り手を差し向け殺した出浦上総之介のお屋敷跡を訪ねます。案内人はあざみの会前会長の根津光儀さん。



  


コニファーを出て、右手に岩櫃山を見ながら橋を渡り、キャンプ場方面へ。すると何気ない場所にある竪堀の跡を紹介してくれました。プロと一緒じゃないととても解りませんね。



  


作業用林道の脇にも竪堀が。地図を見ながら、現在位置を確認しつつ…



  


二重構造になった竪堀。根津さんが解説するとさらにそれに対して別の見解を述べる有識者の参加者達。聞けば、箕輪城群馬県高崎市箕郷町)と上田城(長野県上田市)の案内人であり研究者でいらっしゃるとのこと。これは、このチームレベル高すぎです。参りました。





岩櫃山の森林は岩櫃山風景林として保護されているようで、冷温帯の成熟した針広混交林です。長年禁伐しているようなので、極相林であるといえるでしょう。大きな樹木がたくさんあり、この森の中で森林体験イベントをすることができたら、かなり深く森を味わう事ができると思います。上手にコース取りをすれば森林浴セラピーでも使えるでしょうね。いい宿題ができました。



  


普通に沢を渡るのにも入念なチェック。人為的に作った水取り場かどうか…
そして突然、藪の中に進路を取ります。え!ここに入って行くのですか?



  


藪の中、二重竪堀を歩いて降りて行きます。実踏して体感するのですね、なるほど。古城跡探検がどういうものか理解してきました。



  


志摩小屋虎口に到着。虎口とは城あるいは郭の入り口で、敵の侵入に備えて小さくしてあり、開口部の両側に土塁が高く築かれていることが多く、本来は小口だったものが、虎の字を使い、非常に危険な場所の例えにしているそうです。

  • 例1:「虎口を逃れて竜穴に入る」=一旦危機を脱したと思ったら、別の災難に見舞われる
  • 例2:「虎穴にいらずんば虎子を得ず」


この後、糞の跡から馬を繋いでいたことが解った場所を見て、いったん岩櫃山の沢通り登山道に出ます。すると沢を越えた時に渡った石垣が、人為的なもので、しかもその組み方によっていつの時代に組まれたことかまでが解るのだそうです!ひえ〜恐れ入ります。



  


この辺りの斜面を山側に入ります。かなり急斜面で、とても攻め入れられるとは思えません。ここで鉄砲隊が待ち伏せしていたとしたら…



  


背後は大岩に守られています。元々の地形を生かした天然の要害なわけです。



  


ここは枡形虎口といわれるところ。高い土塁の跡はありませんが、例えば柵を設けられていれば、そこから入らざるをえなく、虎口となります。岩櫃城のことは古い文献があまり残っていなく、肝心なことが解らないことが多いそうです。参加者は「一度でいいからタイムスリップして城の全体像を見てみたい」と言っていました。城は火攻めに会えばお終いのため、また侵入者を不利にさせるために、樹木を伐って剥げ山にするそうです。確かに、剥げ山の岩櫃城を鷹にでもなって鳥瞰できれば最高でしょうね。





本丸の一つ下の段です。



  


凄い形相の樹木。どんな魂が籠っているのやら。もしかして吾妻太郎の霊?!一段上がると本丸跡で、25m×15mの建物の土台状の遺構があり、展望台、指揮台を兼ねての中枢部があったと考えられています。



  

岩櫃城由来記(看板より)

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は一.四キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(一五六三)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲弘)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。

天正二年(一五七四)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌綱兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。
その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正十八年(一五九〇)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年〔一六一五〕)により、四百年余の長い歴史を残し、その姿を消しました。


 吾妻町観光協会


  


ヤダケは、二年目の稈を矢に使用します。参加者様によると上田付近には自生しないはずなのですが、上田城にはあるそうです。植えられたのでしょうか。
本丸下竪堀はとても長く幅も広く、城の規模が大きかったことがうかがえます。



  


「殿屋敷」というところは、海野長門守幸光が住んでいたところです。


海野長門守輝幸は元々、上野国羽尾(群馬県吾妻郡長野原町)城主、羽尾治部少輔の二男として生まれました。長男は羽尾城の羽尾道雲です。長門守は修験道を修めて、福仙院とも号していました。宗教心は強く、永禄2年(1559年)に長野原の雲林寺を創建し、永禄12年には矢倉の行沢観音堂を改修して、天正3年(1575年)には羽尾に宗泉寺を創建した程です。


真田幸隆岩櫃城攻めの際、斎藤越前守憲広を裏切って弟の能登守と共に武田側に寝返りました。その後、長門守の領地、羽尾も能登守の領地、長野原も没収されて信濃へ送られますが三年後の永禄9年(1566年)、真田幸隆の口添えもあって、長門守と能登守は岩櫃城代に任命されて、吾妻郡に戻って来ました。


また、弟の海野能登守は、幼少より剣術の修行に励み、新当流の塚原卜伝の弟子になりました。若き日の武田信玄に武術を教えたり、斎藤越前守の時代には岩櫃城城内に道場を開いて若い者たちに武術を教えていたりもしました。戦では必ず手柄を立てる大剣豪でした。


しかし、1581年、海野長門守・能登守兄弟は北条に与して反旗を翻したとして誅伐されます。吾妻郡代であり、しかもわずか四か月前には昌幸公の善導寺訪問の案内役を任されていたのにかかわらずです。


海野兄弟は勇猛果敢な武将で真田にとっては強力な戦力でした。しかし、高齢(長門守75歳、能登守73歳)で非常に態度が大きく、吾妻の諸侍からかなり反感をかっていました。特に能登守においては「吾妻郡は俺のもの」という態度だったそうです。また昌幸は海野兄弟が岩櫃、沼田の両城を堅く守ってくれるならば吾妻一円は兄弟に与えると約束をしていましたが守っていなく、本心では海野兄弟の存在は真田氏繁栄のためには有害無益なものであったのでしょう。


長門守は岩櫃城の館を包囲され居館に火を放って自刃しました。75歳だった長門守は目も見えなくなっていたそうです。


しかし次の日攻められた弟の沼田城代・海野能登守輝幸は諸国に名を馳せた武芸者で、簡単には殺られませんでした。真田兵に包囲されながらも斬り込む隙を与えず、城外に脱出します。そこには真田家一の勇者・木ノ内八右衛門がいましたが、なんと73歳の能登守は一騎打ちし勝ってしまいます。真田の重臣での検視役・田口又左衛門も斬りましたが、嫡男幸貞と「無益の殺傷はこれまで」と刺し違えて壮絶な最期を遂げました。





そして、今日の目的地、吾妻郡代・出浦対馬守(出浦上総之介)の屋敷跡に到着。割田下総がいる吾妻衆を統率していました。出浦もまた忍者出身で、割田に捕り手を差し向けたのも出浦でした。


いや〜それにしても険しかった〜、これは案内してもらわないと絶対に来られません。でも、今日の学習内容では、ここに来ないと完結しませんよね、連れてきてもらって良かったです。



  


出浦対馬守の屋敷跡は思ったよりも真田道に近い…というか通り沿いにありました。真田道は敵軍は通らないのかな? 橋台跡より想像するに、これもかなり大きな橋だったそうです。





っていうか、




えーまだ探検するんですか?!(゚〇゚;)




  


そしてまた空堀を見学。なるほど、こうやって実際に城の土塁・切岸斜面を登らせることで、岩櫃城を体感させようとしているのですね、根津さん!


あ、タマシイみたいな根株…



  


たっぷり3時間以上かけて、岩櫃城跡を探検しました。登山口休憩所に東吾妻町が作成した「岩櫃城跡」のパンフレットがあります。場合によっては富澤豊前守さんの手製の岩櫃城祉縄張図が置いてあることがあるそうです。



  


それらのパンフレットを手に、ご自分で歩いてみてもある程度は岩櫃城を体感できるでしょうが、やはり地元の詳しい方に案内してもらった方が、理解が深まるというか、戦国時代に想いを馳せながら歩くことができます。上りは岩櫃山登山、下りは岩櫃城探検とすれば、かなり岩櫃を堪能できることでしょう。



  


最後は、平沢集落を歩いてコニファーいわびつへ。古い城下町は折れ曲がった道が多いのですね。
登山口前の道路正面には赤城山が見えていました。赤木道紘→赤城山。うーん、ますます岩櫃との縁を感じますね。ゆっくり時間をかけて、自分の岩櫃にしていこうと思います。






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