手子丸城(大戸城)跡



かねてから訪問してみたかった手子丸城を訪問散策してきました。


東吾妻町大戸の仙人窟の看板に、

手古丸城跡は戦国の世、天正八年(1580)城主大戸真楽斎は遠州高天神に於いて戦死、天正十年(1582)手古丸城も北条氏の為に落城している。窟中に古墳が三つあるのは、城主大戸真楽斎の石碑だと伝えられている。天正十四年(1586)真田信幸は五百騎を率い、北条網可等の二千騎と戦う。信幸は軍を仙人窟に伏せ、大返して大勝し手古丸城を奪還した。北条勢は大運寺前を西へ敗走したという。


とあり、また、長野原町林地区の御塚の看板に

 村信は浦野家三代浦野右衛門尉重俊の二男として生まれ、父は上州大戸城主で吾妻郡三島村に住し、天正十一年(1583)榛名堺論には、村信・村英兄弟は榛名山房に切り込み山中には一人もなく逃げ去ったと言う。
 それより村信は禄を得て林村大乗院に赴き、修験号を仮に大善院と称し、天正十七年上京して大乗院住職となった。村信は嗣がなかったので、海野長門守の二男俗名信濃丸を養子に迎え嗣とし幸照と号した。後に沼田城主真田伊賀守の祈祷所となり、村信の没後伊賀守は近村に令して戸毎に蕎麦の殻を課徴してこれを埋め、塚を築造し村信の墳墓とした。これが林の「御塚」である。


とあります。


箕輪初心様の手子丸城解説
http://53922401.at.webry.info/201201/article_14.html


富澤豊前守様の手子丸城解説
http://www.denno2488.com/index.php?%E6%89%8B%E5%AD%90%E4%B8%B8%E5%9F%8E%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC


を拝見するに、大戸城主の大戸氏の本名は浦野氏で、祖先は鎌倉時代に幕府に仕えた海野幸氏だそうで、信州滋野氏一族、つまり真田氏と同族になります。大戸城主大戸真楽斎は岩櫃城主斉藤憲広の妹を嫁にもらっていましたが、真田氏岩櫃城攻略の際には、大戸真楽斎は真田方についていました。


手子丸城は吾妻きっての要害だったそうで、永正10年(1513)4月、長野伊予守兼業(憲業とも、業政の父)は榛名満行権現=現榛名神社に「大戸の要害を私の思い通り落とすことができたなら、百疋の土地を末代まで寄進致すことでありましょう。」という願文を掲げています。


浦野右衛門尉重俊という大戸城主は年代的には真楽斎の父かも知れません。すると浦野村信は真楽斎の兄弟なのかもしれません。村信には子がいなく、岩櫃城代・海野長門守の次男(幸照)を養子に迎え、長野原林地区の大乗院を継がせたと。そして大乗院は沼田城主真田伊賀守(真田幸村の兄信之の孫)の祈祷所となった…


というのが、私の理解です。



  


県道58号線(中之条東吾妻線)を大戸方面へ。左に見える小山に四人侍のような岩・御前岩があります。あの裏に、手子丸城があるのです。



  


大戸信号で国道406号線に出るやいなや、大戸関所跡の手前をすぐに左折すると、橋があります。その名も「見城橋」。下に流れる川は見城川です。



  


「手子丸」という集落に向かう最中に、空に見える送電線の真下にあたるところを通ります。そこが、手子丸城の登り口です。



    


「榛名線34号」という送電鉄塔の工事用階段を登って行きます。



    


上部の方は落ち葉で階段が埋もれていました。登りきったところに「榛名線34号」の黄色い案内板があり、そこは大きな堀切を渡る土橋となっていました。





立派な土橋です。こちら側に二の城、あちらには三の城があるそうです。この二つは土橋で繋がっていたようです。





とても大きな堀切です。自然地形をそのまま使ったのか、それとも手を加えているのでしょうか。



  



二の城にある、榛名線34号の送電鉄塔。ここからは岩櫃山がよく見えます。



  



尾根伝いに、本城(一の城)に移動します。二の城から本城へは、堀切で隔たれています。



  



尾根に現れた岩は、岩櫃山の岩によく似ています。凝灰角礫岩でしょうか。



    


左側は急崖で、こういうところから直に攻め上がってくるのは無理だったでしょう。ヤマツツジ、ルイヨウボタンなどが咲いています。



    



本城、本郭を取り囲む腰曲輪群。見事に形状が残っています。



    


急坂を登ると、本廓です。





本城の本廓、つまりは本丸です。戦国時代の城は木を伐ってあったそうですから、ここからは大戸の集落がよく見えたことでしょう。



    


本丸の周りは急坂に囲まれています。南側に石の記念碑がありました。



      


二の城に戻ります。二の城には、小山状になった土塁?がいくつかあります。迷路状にしてあるのでしょうか…



    


二の城虎口を通って三の城へ。最短で行く方法は、この高く盛られた土塁を渡ることです。渡ったところにある盛土に伏兵が忍んでいて、パンッ!と撃たれたら…



  


三の城へ行くには尾根を登っていくのですが、左下の堀切の上にも曲輪があるようです。ここにも兵がいて、堀切を渡ってくる、登ってくる敵兵を「パンッ!」としたかもしれません。



        


三の城には測量点(三角点)があり、その周りには何段かの腰曲輪が見られます。一の城(本城)ほど深い段差ではありません。



  



三の城の東端にある二重竪堀。ここは自然地形ではないでしょう。凄い土木工事の量です。



  



二重竪堀の奥は、富澤豊前守さんは搦手虎口(からめてこぐち)として解説しています。城の裏に当たる方向、大手の逆にある虎口だそうです。この先は緩やかな上り坂となっており、本城本丸や三の城よりも高い山につながっているので、この搦手側からの方が攻めやすいような気がします。初めに築城したのが本城で、その後、二の城、三の城と拡大していったのでしょうか。ならばこの先にも何らかの遺構があると思われます。



  


ここが、三の城で最も高い場所です。登ってみましたが、うーん、このポジションで守備を担当しても生き残れる気がしない…やはり搦手の奥が気になります。



  


これまで南北に掘られた竪堀ばかり見てきましたが、枝尾根、つまり東西に竪堀があることがわかりました。三の城のものでも、結構大きいです。



      


であれば本城のものも見たいと思い、もう一度、本城へ。今回は尾根道ではなく追手虎口(城の正面の虎口)から枝尾根の曲輪に進みました。





本城の枝尾根の竪堀です。かなり深いものが何層もありました。元々はこの枝尾根が最も敵に攻められやすいルートだったのかも知れません。



  



植林地であるため、林道のようにも見えるものもあります。曲輪地形を利用したのでしょうか。


帰り道は急傾斜です。十分に気をつけましょう。この斜度は、よく考えると嵩山城と同じくらいです。落とせない城では、なかったのであります。



      


最後に、大戸の文化財に寄っておきました。

大戸関所跡(現地看板より)

大戸関所は信州街道の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永8年(1632年=1631年では?)に設置された。
 信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三侯の廻米や武家商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したともいわれ、江戸と信濃を結ぶ最短距離として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれた。
 大戸関所は元和9年5月(1623年)将軍(徳川)秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。其の後、寛永7年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、翌8年に正式に関所が設けられた。 中山道脇往還で、碓氷関所の裏固めの意味を持っている。 以後230余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年9月に廃止された。関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破り(関所を避けて山越しなどをした者)は重罪として処刑された記録がある。通行の門限は明六つから暮六つ(午前6時から午後6時)までと定められていた。また要害地域を守る関所付の村として、大戸、荻生、本宿の3ヶ村は関所番人をを出し、警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ、近隣の11ヵ村は関所普請村に充てられていた。
 嘉永3年(1850年)12月に関所破りの罪を受け、侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画や講談、浪曲でも知られる處である。

 吾妻町観光協会・史跡保存会

寛永8年(1631)に設置され、将軍徳川秀忠上洛の際にこの地を守護した…つまり、中山道を通るために、脇海道・信州街道の大戸に関所を設けた、ということです。嬬恋村の大笹関所は寛文2年(1662)に真田伊賀守が設置したことになっていますから、将軍秀忠上洛の際には無対策であったようです。中山道と信州街道の位置関係から見て、大笹も決して遠くはないと思いますが、浅間山の裏側なら大丈夫、とみられていたのでしょう。



      


加部安左衛門関係遺跡は、土曜日の夕方だからかな?入館できませんでした。それにしても、この看板の位置と矢印の方向が悪いです。矢印の方向には何もありません。何なら矢印は真下に向ければ良かったんじゃないかな。






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