岩櫃山登山記録 その2(郷原〜赤岩通り〜尾根通り〜岩櫃城本丸址〜一本松登山口)



岩櫃山登山記録記事が長くなりすぎたので、2つに分けました。


岩櫃山登山記録 その1(一本松登山口〜沢通り〜山頂〜密岩通り〜郷原)はこちらです。http://d.hatena.ne.jp/akagi39/20131111/1385550251


郷原から先をレポートいたします。



  


「古谷T字路」と呼ばれるところに来ました。赤岩通りからもう一度登り、「櫃の口」と呼ばれるところから岩櫃城跡コースを降りてくる予定です。看板を見ると、ここから45分で山頂まで行けるそうです。



  


郷原集落の中の民家に「旧赤岩通り」の看板が立っています。右手に竹林を見ながら歩きます。





竹林を抜けたあたりから見た岩櫃山。うーん、いいプロポーションです。



  


T字路を右に曲がると、すぐに赤岩通り登山口です。





そして、登山口の横にあるのが潜龍院です。

潜竜院跡(せんりゅういんあと)

武田勝頼を迎えようとした御殿跡

戦国時代の天正十年(一五八二)三月、甲斐の武田勝頼は織田・徳川の連合軍に攻められていました。軍議の席上、真田昌幸岩櫃城に勝頼を迎え入れ、武田の再挙を図ることを提案して許されました。昌幸は急ぎ帰国し、岩櫃山南面のこの地に勝頼を迎えるための御殿(現在は石垣が残るのみ)を三日間で造ったと言われています。

しかし、勝頼は吾妻の地に来ることかなわず天目山で自刃してしまいました。このときに勝頼が吾妻に赴いていたならば、この地は戦乱の舞台として時代の中心的立場に置かれていたことも十分に推測されます。

急造された御殿は昌幸の一族である根津潜竜斎という山伏が拝領して寺とし、巌下山潜竜院と称して明治にいたり、明治一七年にその護摩堂が原町顕徳寺の本堂となっています。

  


では、さっそく登ります。下の方はタケが少々あります。



  


少し登ると、岩櫃山特有の巨石が次々に現れてくる訳ですが、ここの岩の色は沢通りのものと違っていて、赤っぽいのです。きっとだから『赤岩通り』という名前がついたのでしょうね。



  


岩の見た目の感じとしては、集塊溶岩という言い方があっているのか解りませんが、大小の礫がくっついて形成されたように見えます。赤いのは、やはり形成時に酸化作用があったからなのでしょうか。



  


巨石と巨木と。岩櫃山登山道の風景です。



  


やがて、大木が登山道に倒れ込んで大きく塞いでいる場所があって、その向こうに見える岩の間を抜けたところが稜線です。



  


ここの鎖は使わなくても登れます。登ると、看板のある稜線です。



  


旧赤岩通りはなだらかに見えて、少し進んでみましたが、この先はやはりそこそこ角度があるのでやめました。旧赤岩通りは次回に取っておきます。足元の落ち葉が綺麗です。ぜいたくに踏みしめながら通り抜けて、





登ってきたところ、赤岩通り最後の急坂の岩です。紅葉の窓になっていました。



  


目的の尾根通り方面に進みます。このあたりにあるのはイヌブナ。イヌブナの森だったんですね。



  


岩櫃城本丸址へは尾根通りを経て行くのです。



  


この辺りもまだ紅葉が間に合いました。本当、ラッキーです。



  


迂回路の案内もありましたが、とにかく岩櫃城跡へ向かいます。



  


ロウソクのような変わった岩があって、まだその先に尾根が続いて、



  


ようやく、広々としたところに出ました。ここなら、ちょっと休憩したっていいですね。ところが、この後、道かたが解らなくなってしまいましたが、



  


すぐに道かたを見つけることができました。もうすぐ岩櫃城跡です。途中には大きな樹洞がある樹木があって、



  


案内看板の先が、岩櫃城本丸址です。



岩櫃城由来記(看板より)

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は一.四キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(一五六三)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲弘)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。

天正二年(一五七四)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌綱兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。
その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正十八年(一五九〇)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年〔一六一五〕)により、四百年余の長い歴史を残し、その姿を消しました。


 吾妻町観光協会

  


さっきの広場で休憩しても良いし、このあずまやを使っても良いでしょう。



  


岩櫃城跡を探索します。天然の地形・急斜面を利用した要害『岩櫃城』の土塁・切堀、竪堀を降り進みます。岩櫃城は『武田の三名城』の一つであります。(残りの二つは岩殿城(山梨県大月市)、久能山城(静岡県静岡市)です。)



  


中城跡や空堀の跡を見学して、



  


杉の植林地を降り進んで変わった根株の樹木があって、



  


一本松登山口に出ます。ふう〜結構歩きました。



  


歩いたついでに、駐車場から行ける「岩櫃神社」とやらに行ってみました。畑の中の農道のようなところを通って行くと



  


岩櫃神社はあります。しかし、由来看板等が無い上に、そんなにパワーを感じません。やはり、岩櫃は山じゃないとダメなんでしょう。いや〜それにしても良い運動になりました。今日はぐっすり寝られそうです。


帰り、おまけに「岩櫃ホタルの郷」の看板を見つけました。夏はホタルが舞うのでしょうか…






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