戦国真田の岩櫃城跡探検隊 第九弾 に参加



東吾妻町にある潜龍院跡(武田勝頼を迎えようとした御殿)の保護活動や、岩櫃城址関連の遺構、歴史文化的なものの啓蒙・案内活動を行っている地域おこし団体「あざみの会」による、「戦国真田の岩櫃城跡探検隊 第九弾」に参加してきました。今回も100名以上の参加者があり、大変賑やかに行われました。



      


中央公民館に集合し、群馬原町駅まで5分程徒歩移動。駅前では毎週日曜日に朝市が開かれている模様。JR吾妻線に乗車し、郷原駅に移動します。



  


郷原駅ではあざみの会の別メンバーが待機しており、案内開始。こういうやり方もあるのか、と感心しました。
郷原駅は標高410m、郷原城は530m、潜龍院は510mの高さに位置します。



      


郷原から菅谷家古民家横を通ります。この菅谷家三家は町の有形文化財にしてほしいくらい立派です。旧家の屋根が一部破損していて、トタンが剥がれていました。板張りの屋根だったのですね。トタンの前の時代は石が置かれていたのでしょうか。



    

    


郷原小学校跡地に到着。あざみの会の資料によると、学校の発生とは室町時代に始まった寺子屋に始まり、修験道が盛んだった吾妻の地では修験寺が教育機関(学校)、修験者が先生なるケースが多かったそうです。

潜龍院根津院主、岩下菅原神社海野宮なども寺子屋を営んでいたようです。


明治5年、学制(日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令)が領部され、明治6年には原町小学校(群馬県第三小学校)ができ、明治7年には郷原榛名神社拝殿に郷原村と厚田村を通学区とする小学校を設立、その後、現在の地に新校舎を建設したそうです。郷原学校は明治初期に、他地区よりも早く始められた理由は、江戸時代より潜龍院で行ってきた寺子屋により、郷原小谷地区住民の教育に関する意識が高かったからだそうです。



      


      



郷原小学校跡地は、地主さんのお宅と隣接しており、敷地内を通過して、その裏山を登ると郷原城跡となります。まっすぐ上がるとかなり急なのですが、地主さんの作業用の道?がジグザグについていて、それをたどっていきます。それでも参加者のほとんどは中高年者であることも踏まえて、前日に本間様らがロープを張るなどして今日に備えたそうです。確かに、この急傾斜を鎧兜を着て攻め上がるのはかなり厳しいです。





岩櫃城址の西側は断崖絶壁の岩櫃山、東側や南側の唐沢あたりからは急傾斜で大軍をもっては攻め上がれない。しかし、そのさらに南西の郷原以西は広く、郷原から岩櫃城に直接攻めれはできないものの、敵軍が駐屯することはできたことでしょう。吾妻渓谷自体が天然の要害で大軍の進軍が不可能であった(と思われる)ため、岩櫃城吾妻川沿いに進軍攻略されることはないにせよ、大戸(手子丸)からの街道をも監視できる場所にある、この郷原城は必要だったに違いありません。



    



郷原城跡に到着。お、曲輪の段々形状がありますね。上田市の方のお話だと、真田氏の家紋・六文銭は商標登録されていて、小物に六文銭をプリントしたり染めたりする商標は上田市の呉服屋(ゆたかや)さん、着物や帯地など生地に織りで六文銭を表現する商標は上田紬織物共同組合が所有しているのだそうです。個人の家紋だし、真田氏だけでなく、嬬恋村でも海野氏、樋口氏、熊川氏、深井氏、鎌原氏…など、たくさんいました。そういう場合はどうするのでしょう?

しかし、真田氏の家紋には「結び雁金」もあり、そちらだったら大丈夫だそうです。でも、六文銭使いたいですよねえ。参りました。



    


    


郷原城跡では富澤朗さんと教育委員会の吉田さんが解説してくれました。
郷原城は城自体の規模が小さく、これまでは岩櫃城や潜龍院の物見の役目と考えられてきたが、「馬出し」「土橋」「主郭」など、城の構造をしており、最近の調査ではかなり凝った造りになっていることが解ってきたそうです。また、下(唐沢)から登る道は立道と呼ばれていて、これは「舘道=館に向かう道」であり潜龍院へ続きます。そのまま樹齢千年大隅桜、矢倉鳥頭神社へと古い道が続いています。旧草津街道をこの城内に経由させ、関所としての役割を持たせていたことも否定できないとこのとです。なんと、凄い話しですね。



  



岩櫃山十二様通り登山ルートと隣接しています。なかなかの大木があり気持ちよさそうです。



    


箕輪城日本100名城の一つ)のガイドであり全国の城址に精通した生方さんによると、この馬出しは武田のものにしては気が利いていない、そうです。際に盛土がされているのが武田流、と仰っていました。潜龍院に着く手前の左側の道下の石積みは最近のものっぽい、右側の広い場所は馬場に使えたのではないか…とのことです。



    


    


潜龍院到着手前で弁当の配布、そして岩櫃太鼓でお出向かえ。石垣がある側の道路向かい側はとても広く、そして高木により日陰が十分にあります。ここなら、500人、いや1000人位集まるイベントやったってできそうな気がします。院の真南にある大岩は「来福寺左京物見の岩」です。




岩櫃山直下のこのロケーションで、木陰でお弁当を食べる…なんて、最高だと思いませんか?



    


お弁当の空箱をスタッフが回収しています。きめ細やかなサービスですね。私は早々に食べて、周囲の遺構を探しました。潜龍院の南東側は腰曲輪が数段設けられています。



      


    


「来福寺左京物見の岩」からは景色は見えませんでしたので、その一段右下にあるもう一つ岩に登ってみました。似たようなものでしたが、南側の樹木を伐採すれば、大戸(手子丸)方面は丸見えになるそうです。この岩の下は急崖が曲輪状に続いており、やはり攻め上がるのは厳しいですね。

潜龍院跡地は、この岩櫃山・幕岩の絶壁直下でこんなに広い場所が自然地形として成立するのはごく稀なことのように感じるのでやはり人為的に造ったのでしょう。物見の岩下の曲輪状地形も…それでも、武田勝頼公を迎えるために3日で造った、というのは信じがたい話なので、すでに潜龍院跡に築城するための土木工事は済んでいたのではないでしょうか。上モノを3日で建築した、ということなのか、もしくはできていたものを勝頼公用にリニューアルしたとか…策略家の真田家のこと、そのくらいはするでしょう。さらに自分の手の内にある草津街道沿いに勝頼公を居住させることで、真田昌幸は勝頼公をいいように利用・コントロールできるようにと考えていたのでしょう。


また、来福寺左京という人物は、武田信玄に仕えていた修験者で諜報・工作活動に従事していましたが、後に武田家の謀略担当の真田幸隆に出向で仕える事になり、武田家が滅亡すると正式に真田家に迎え入れられ、真田忍者の総元締めとなった出浦対馬守盛清と共に忍者の組織化と育成に力を注いだ人物だそうです。天正13年(1585)第一次上田合戦(神川の合戦)では偽情報を流して徳川軍を誘いだす等、徳川軍撃退に貢献しました。

また、根津潜龍斉昌月も武田家の家臣でしたが、天正十年(1582)武田勝頼公が自刃したあと、真田家に仕えないかと誘われたが、武士二君に仕えずとして修験者になったのだそうです。真田昌幸とは同族のよしみで御殿を拝領し潜龍院を興しました。

来福寺左京と根津潜龍斉昌月はどんな関係だったのでしょうか。共に戦う、ようなことはあったのでしょうか…



      


  


あざみの会会長の山崎公一さんが挨拶し、菅谷社中の皆様が武田勝頼に対して「奉茶の儀」を行いました。ワオ、お菓子まで。儀式的なのは良かったのですが、ちょっと格式が高すぎるというか、敷居が高そうで一般市民が引いてしまいませんかね?



      


お茶を頂いている間、岩櫃太鼓が再び。「鶴の舞」「合戦」などの演目を演奏してくださいました。西山さん格好いい!





岩櫃山直下で聞く太鼓の響き。絶壁に岩々に反響してなんと心地よいこと。



    


次に、上田市観光大使も務める歴史プロデューサー・早川知佐さんのあおぞら講演会「真田信之岩櫃城」。真田信之をテーマに持ってくる、というのはちょっと不思議な気もしましたが、早川さんが仰る通り、真田三代では信之よりも幸村の方が目立っていましたが、真田太平記は真田家が大名としていつまでも安泰であるように奔走した信之の物語であると。そうでなくては太平記として収まりがつかないのだと。


天正10年(1582)は魔の年でした。織田信長甲州征伐の後、3月には武田勝頼重臣小山田信茂の裏切りで自刃、6月にはその信長が重臣明智光秀の裏切りで自殺(本能寺の変)、これにより空白地帯となった旧武田領を巡って、周辺の大大名である徳川家康北条氏直上杉景勝が争った天正壬午の乱が起こりましたが、北条氏直は一挙に上野を併呑しようと沼田・大戸の両方面から真田領に襲いかかりました。手子丸城は落ち、大戸(浦野)兄弟は戦死します。この上州の要害・手子丸城を信之は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し武功を挙げます。この時、信之は16歳か17歳、しかも初陣です。通常は大名の嫡男の初陣とあれば簡単に攻め落とせる安易な戦をあてがい、自信をつけさせる…位のものなのに、当時の真田家にはその余裕がなかった。手練の家臣・真田忍者たちの功績もありますが、信之の強さもまた、ただ事ではなかったのです。


真田幸村は全国的に知名度があり人気がある武将ですが、実は女性(歴女)は、信之のファンが多いのだそうです。


その他には、

  • 仙台にも真田幸村の二男片倉守信を家祖とする真田家があり、江戸時代を通じて仙台藩士を勤めた。
  • その周辺には我妻氏という名前が多い。
  • 真田氏は「不撓不屈」の言葉を好んだ。
  • 今年は真田幸村公の400回忌。
  • 2016年大河ドラマ真田幸村の生涯を描く「真田丸」に決まったが、脚本の三谷幸喜さんは、戦国時代の大海原を乗り越えていった真田家を一艘の船に見立てた「真田丸」として画きたいと言っている。昌幸のことや幸村の幼少時代のことなどが盛り込まれれば岩櫃城も必ず露出することになる。その土壌を地域住民が作っていくことが大事だが、岩櫃城には、あざみの会を始め、そういう土壌が整っている。これからも、地域団結して継続して取り組んでいってほしい。

      


最後に、密岩神社に参拝しました。真田幸隆の軍勢に攻められ岩櫃城が落城した際、斉藤城主や北の方は越後に落ち延びましたが北の方が迷い、三年三ヶ月の間、北国をさまよい探しましたが巡り会えず、もしや故郷岩櫃に帰っているのではないかと岩櫃に戻ったが、城には真田の六文銭の旗がたなびいていました。北の方は精根尽き果て絶命しましたが、その際に一筋の煙が立ち上がり、その中に観音の姿が現れ、すぐにまた消えてしまいました。


里人は北の方の不運を哀れんで、そこに水岩権現を奉り、手厚くその霊を慰めました。やがて水岩権現は密岩神社と呼ばれるようになりましたが、岩櫃山の落石によって進入禁止となり、現在はこの場所に移転したのだそうです。



      


岩櫃山の尾根の一つ。あの枯れたアカマツのあたりに郷原城跡があります。陣馬という地名が残る坂を下って郷原駅へ。皆さん、お疲れ様でした。最高のエコツアーでしたね。





群馬原町駅にて、あ、この文化財マップいいな。写真もらっておきます。






人気ブログランキングへ にほんブログ村 環境ブログ エコツーリズムへ にほんブログ村 アウトドアブログ 野遊び・森遊びへ にほんブログ村 アウトドアブログ 自然体験へ