第1回つまごい村歴史探訪 天明の浅間焼けと悲劇の村・鎌原



今日は郷土資料館、鎌原観音堂、鎌原集落を散策し嬬恋の歴史を探るイベントです。当会会員でもあり、郷土資料館のボランティアガイドでもある方が担当した。

久しぶりの観音堂だったが、「はかりばばあ」とやらが出現!観音堂に詰めているお年寄りに聞いたところ、1783年浅間焼けの際から、あの生死を分けた15段目のところにいたそうだ。スゲー、命を計るばばあか。まるで閻魔様じゃないか。

鎌原観音堂は806年の創建と伝えられているが、1713年に改修され、今の形になった。その後何度か改修を繰り返しているが、1713年から残っている柱がこれ。約3mm風化しているように見える。観音堂の方がいうには材はカラマツらしい。


  


右すがをミち 左ぬま田 とある道しるべは、延命寺の門石が欠けたものをうまく利用した。観音堂の北側に位置していた延命寺も埋没し、土石なだれに押し流された門石本体は明治43年の洪水の際、25キロ下流東吾妻町矢倉の吾妻川で発見された。

かつて土石なだれに埋まった集落・鎌原にも今は稲が実る。その田んぼにツバメがしきりに泥を突き咥えてはどこかに飛んでいく。ああ、巣作りの季節か。これは、今度来る子供たちに見せることができるといいなあ。

カエルの卵がわんさか。卵を見てカエルの種類の同定はどうだろ、覚えなくちゃいけないのかなあ…


  


公民館に来ると、大きなケヤキがある。胸高直径130センチ位か。ここは鎌原神社と隣接していて、鎌原神社は以前、周りの土地よりも小高い場所だったらしく、土石なだれの被覆量は少なかったと考えられている。

次にあったのはこれまた大きなカツラ。しかしこれも立派な木だが、何かがおかしい。後でわかったことだが、根と幹の境目あたりがおかしいのだ。もっと根元がロケット状に太くなるのが大木の特徴。つまり土石なだれによって土が被り、深植え状態となっていると考えられる。

公民館が後で木を切り土を削り建てているが、恐らくこの付近には鎌原神社を土石なだれから守った大木がいくつもあったのではないか。そうでないと、いくら小高かったとはいえ、鎌原神社の裏側がほとんど被覆していないのはあり得ない。

最初、この大ケヤキが1783年噴火の前からあった木だと言われた時は嘘だと思った。なぜなら三原のケヤキは40年で胸高直径60センチにはなるからだ。しかし、鎌原神社の裏にあるケヤキの切り株を見て驚いた。被災後の年輪の感覚は1mm程度でしばらく続いているのだ。これは私が思うに、深植え状態となったケヤキの根が呼吸が苦しくなったため、樹木の成長スピードが遅くなったと考えられる。

となると、この大ケヤキは深植えとなってからはそんなに幹は太くなっていないのかもしれない。すると、被災当時から直径1メートルの大木で、神社を守った。そして他にも一緒に神社を守った中径木の木がいくつかあったが、被災後生き延びられなかった、もしくは公民館を建てたときに伐られた可能性がある。

おかげさまで、ケヤキの声を聞くことができた。あなたの声を、私が今日から皆に伝えましょう。


  


鎌原神社の横には、嬬恋村指定重要文化財の郷倉がある。郷倉とは飢饉や災害に備えて穀物などを保存しておく蔵であるが、1783年に被災した鎌原村は、1788年にこの郷倉を建てた。被災から5年ではまだ自分たちの家ですらままならなかったろうに、大したものだ。つくづく、日本人は土地につく生き物なのだと思う。住民の2割が死んだポンペイの住民たちは町を捨てた。しかし住民の8割以上が死んだ鎌原は村を棄てなかった。ここで生きて再建していったのだ。

この郷倉の工法については専門家じゃないとうんちくは語れないが、地元の木、地元の土や萱を使い建てた、環境にやさしい建物だということはお話しできる。


  


お庭に、コクサギを植えてあるお家があった。普通の葉は左右交互か、または対で生えるのだが、なぜかこのコクサギは左右交互に2回ずつ葉が出る。コクサギ型葉序といい、他にもいくつかあるようだ。

花の部分に蟻がたかる。最近思うのだが、地上植物は蝶や蜂で受粉されるイメージが強いが、蟻も必ずと言っていいほど植物に群がっている。どのくらいの割合で蟻媒花があるのか知りたい。

延命寺の跡地には今は何もない。コーラ噴火の場所に良いかとも思ったが付近に軽石がなく、ここでやっては大道芸になっちゃう。タンポポの花がきれい。ここではタンポポの花で王冠を作るのがいいんじゃないかな。