嬬恋浅間火山エコツアーガイドフィールド研修会の下見



来週お見えになる茅野エコツーリズム協議会御一行様は、岡野さんとの下見の結果、得意の浅間火山エコツアーでご案内させていただくことになりました。今日は午後から、予定のコースをざっと一通り下見しながら壮大な物語をイメージしたいと思います。





まずは卸売センターサンエイの前へ。1万5000年位前、浅間山が最も激しく噴火活動をしていた頃に、辺り一面に撒き散らした平原火砕流山麓嬬恋村西窪あたりで100m近くも堆積し、吾妻川の浸食により見事な断崖を形成しています。頭にイメージするのは激しい噴火のために自らの山体を破壊しながら噴出物を撒き散らすプリニー式噴火。そして辺り一面死の世界となった大規模火砕流。しかし火砕流は岩盤に比べて軟らかく浸食に弱く、吾妻川沿い、嬬恋村の国道145号線沿いでは100m近い崖が延々と続く、突出した風景を生み出すことになりました。






先ほどの、浅間山の噴火活動が最も激しかった頃の山の名前を仏岩火山といいます。大きな火山であったが自らの山体を残せなかったため、その後成長してきた前掛山火山に覆い隠されてしまいました。前掛山火山はここ8,500年程の間で成長したもので、ここ数回は500〜600年間隔で火砕流や溶岩流を吐き出す大規模噴火をしています。なかでも最も大きかった噴火は西暦1108年の噴火で、この時、麓の大笹村は厚さ30m以上の火砕流で覆われた。これを追分火砕流といいます。
キャベツを栽培する大規模農業に適した、緩やかな地形は、こういった、浅間山が形成される上で山が吐き出した大規模火砕流が大地を目地埋めしていった事で生まれました。




  


それらの火砕流の影響もあってか、嬬恋村では縄文以降、弥生〜古墳〜平安時代までの遺物は発掘されていませんが、中世には浅間山の向こうの海野氏の一族が嬬恋村に入り、一帯を治めることになりました。戦国時代は真田氏の統治下となり、江戸時代は天領に。大笹は沼田や草津と長野県を繋ぐ重要な街道(大笹街道)となり、大笹関所は、『諸国御関所書付』の「上野国所在関所一覧」によると、碓氷関所など6か所の重要な関所の1つとされていました。

大笹関所跡(嬬恋村指定史跡)

 当初沼田藩主の私関であったと思われるこの関所は、寛文二年(1662年)幕府の酒井雅楽守から許可され、沼田藩主真田伊賀守が建設した 。北国裏街道の善光寺−仁礼−大笹−鎌原−狩宿−大戸−高崎と大笹−中居−今井−草津という道筋を押さえた。しかし、真田伊賀守の悪政により天和元年(1681年)沼田藩は改易、その後明治の廃関まで幕府の所管となる。

 傍らに流れるこの鹿の籠沢(現在の小武沢)には刎ね橋を架けて有事のさいには切り落とすという仕掛けになっていた。当時の関所はこの位置ではなく、鹿の籠沢の反対側 にあった。

 廃関後取り壊されたが、当時大笹土屋源三郎氏の先祖が払い下げ秘蔵していたものを寄贈してもらい、昭和31年(1956年)この位置に復元したものである。

  


この大笹宿から、中山道沓掛宿(中軽井沢)に行く道、沓掛街道の道しるべです。右に曲がれば沓掛方面、左は草津・沼田と書いてあります。沓掛街道の文字、“街”が“海”になっています。これは、この道はまるで海の中を歩いているような道だったからです。その理由は…


さて、折角なのでもう少しこの道、大笹宿に接していた道について考察しましょう。まず、道しるべの草津・沼田方面への道は信州街道(上州街道)で、上州の高崎宿が始点で万騎峠と鳥居峠を越えて信州上田に出る街道で、高崎から上田へは中山道経由よりも距離が短く、脇往還と呼ばれていたようです。


また、中山道軽井沢宿あたりから北陸に抜けるためには北国街道という主要道路がありました。中山道追分から北陸道高田を結ぶ三十五里(約140km)からなります。正しくは北国脇往還といいます。その、北国街道をショートカットするバイパスの役目をしたのが沓掛街道(大笹街道)で、須坂と中軽井沢を最短で結んでいました。


大笹街道は「山道八里」と称し、峰の原高原、菅平高原を越える険しい道で、冬季は積雪吹雪のため通行不可能になる事が多かったそうですが、福島宿から沓掛まで、二宿十四里(約56km)と、北国街道を経由する十宿二十一里(約84km)より短いため荷駄はもっぱら大笹経由で運ばれたそうなのです。


遥かなる大笹街道
http://www.sanken-intl.co.jp/arcive_sanada/contents/column/oozasa/road1.html


どうでしょう。とても重要な道だったこと、大笹宿と大笹関所の重要性もお解りいただけましたでしょうか。そして、やっぱり昔から嬬恋村は冬季は陸の孤島になっていたようで、「日本のチベット」と云われたとの話もまんざらではなさそうです。




  


浅間山に向かって車をしばらく走らせると、やがて1783年浅間山大噴火で火口付近から流れてきた鬼押出し溶岩流が止まった断崖があります。地下水は地面に大きく厚い1000℃の蓋をされてしまいましたので熱水となり断崖下から湧きでました。当時の大笹の庄屋、黒岩長左衛門はこの熱水を大笹に引湯する大工事を行い、大笹に温泉施設を開業する事業をし、浅間山噴火と天明の大飢饉で発生した、多くの飢えた人々の救済にあたりました。『大笹の湯』と言います。


松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(十九)「大笹の湯」引湯跡
http://ecotourism.or.jp/akagi/matsushima_eiji/001-052/019.html


温泉は20年後には利用できなくなるほど温度が下がったそうで、現在はその水は「鎌原用水」として大笹では無く、浅間山北麓の一大別荘地帯の生活用水になっています。




  


その別荘地帯の中に入ってみると、大きな岩がゴロゴロしているのが解ります。これでは、とても田畑として利用することは難しいことが解ります。浅間山北麓は1783年噴火の際、どういう訳か流れてきた溶岩が途中から大崩落を起こし、砕けて岩塊となって一気に転がってきたのです。プリンスランドにある長寿岩は中でも最も大きい岩の一つで、記念写真には最適の場所です。ホテルグリーンプラザ軽井沢の足湯には、無料開放されています。セットで訪問したい場所です。




  


この後、鬼押しハイウェーを車で走りながら、1783年の吾妻火砕流の流れた場所、六里ヶ原を観察します。休憩所で車を止めて、浅間山の山体斜面が北側と南側がずいぶん違う事や、ベロ状に広がる舞台溶岩の断崖、そしてその重なりを見れば、溶岩流出による造山を体感することができます。




  


「お昼ごはんは、何にしようかな〜」




  


昼食後に、晴れたらここでデザートでもご馳走しましょうか。吾妻火砕流が作った片蓋川の様子を見に行ってもいいでしょう。






この後、小浅間山登山を一部行い、登山でのエコツアーを少し体験します。




  


レストラン峰の茶屋のメニューもチェック。案外庶民的な料金でした。しかも、ここに乗用車、止めさせていただくこともできるんですね!一日1000円だそうです。




  


この後、浅間園に行って鬼押出し溶岩流の中を歩いてみます。この土手にあるガラス状にバラバラになった溶岩の欠片に、溶岩流が大崩壊した秘密があるかもしれません。




  


今回は鬼押出し園は車窓で。途中にある、見事な浅間石の灯篭を見ましょう。この不思議な“板目石”は、世界で浅間山北麓にしかありません。その理由は…?




  


嬬恋郷土資料館で鎌原村の壊滅と復興ものがたりに触れ、鎌原観音堂を参拝。




  


鎌原観音堂の手水は恐らく先ほどの鎌原用水が引かれているのでしょう。鎌原村の子ども達は鎌原用水のおかげで虫歯が少ないそうです。はて、どうしてでしょうか?


そして鎌原神社へ。郷倉は原則的に村(郷)ごとに設置され、収穫期になると前年までの分を詰め替え、その年の貯穀分を加えたそうで、飢饉・災害の際に放出し、困窮した農民を救済するために使われたそうです。その郷倉が、鎌原村埋没からわずか5年後に建てられているのです。昔の日本人の生活力というか生き抜く力って、凄まじいものがありますよね。




  


そして、ここまで浅間山火山のことを事細かにお話ししてきましたが、私が一番好きなのは、本当は巨木なのであります。鎌原神社の裏手には、嬬恋村最大のケヤキがあるのです。鎌原神社は元々、鎌原村でも若干高かった丘の上に設置されました。それで、鎌原土石なだれの直撃を免れ、巨木が残っているのです。また、手前の大木が奥の樹をガードしたとも考えられます。






いったい何度、この樹の下から、見上げたことでしょう。この樹に登らせてあげることができたら、樹上のツリーハウスをつくる事ができたら…夢は膨らみます。でも、下から見上げるだけだって、いいですけどね。




  


根っこの上にもヒノキ。ヒノキとケヤキは木材の王様と女王様です。


さあ、嬬恋浅間火山エコツアーガイド研修会のイメージが仕上がりました。後は当日を迎えるだけです。いい研修会になりますよ!岡野さん、期待していてください。






人気ブログランキングへ にほんブログ村 環境ブログ エコツーリズムへ にほんブログ村 アウトドアブログ 野遊び・森遊びへ にほんブログ村 アウトドアブログ 自然体験へ