浅間火山ジオパークガイド研修会



明後日から2日間、嬬恋村内ホテルにご宿泊の中学生林間学校の生徒様をネイチャーガイドでご案内します。二班に分けた下見研修会、今日は2回目です。



  


アオクサカメムシの幼生によく似ていますが、普通の図鑑によるともっと色鮮やかなはずです。マツムシソウ、ヤナギランで見ました。



    


一つ目の平原のクサモミジは、5日前に来た時よりも、朱色から枯れ色にずいぶんと進んだようです。


葉に含まれているたんぱく質核酸クロロフィル葉緑素)などは、秋になり日照時間が短くなると分解されてきて、植物生命の源である根に移動します。ところがその最中にも光合成は行われており、葉で作られた水溶性のブドウ糖や蔗糖などの糖類やアミノ酸類は光合成反応等により新たな色素が生み出されます。それが紅葉の色素・アントシアニン…と考えられています。


となると、秋になりすでに離層が形成されている木本の方が、アントシアニンは蓄積されるので朱色は鮮やかになることが考えられますし、結構大切なものは根に戻した上で、残りカスでアントシアニンを合成した、ということになります。草本の場合は特に、赤くなってきた頃には草刈りしたって意味がない…ということかもしれません。


また、アントシアニンは抗酸化物質でもあり、また温度を上げる効果もあり、実や若芽や若枝を守るには最適です。木本にとっては積極的に作る理由がありますので、「残りカスで結果的に合成された」だけとは言えないでしょう。また、地上部を枯れさせてしまう草本では、実以外にはそんなに必要無さそうです。強いて言えば、根に赤い色素を蓄えておいて、春先にシュートを展開させる際にそれを使う、或いは鮮やかな花片を作る際に使う…ということでしょうか。



    


朔果が割れてきたアヤメ、花真っ盛りのイワインチン、美味しそうなコケモモ。時期を同じくして観察できます。



    


ナナカマドの花梗・果柄の秘密、火口縁にある溶結火砕岩の様子、浅間・烏帽子火山群としての見立て方…などを学習。



  


大昔の三方ヶ峰火山火口から、どのようにして現在の池の平湿原に遷移をしたのかイメージしてみましょう。見晴岳手前にある割れた溶岩からは溶岩の内部と外側(クリンカー部)の様子がわかります。



  


とうとう外れたコマクサ園の鉄格子。あなたは、どう思いますか?



  


この看板の横にアカマツがありました。もしかしたら増えて行っているのかもしれません。三方ヶ峰のガレ地。かつてここに本当に、コマクサは群生していたのでしょうか。ここは砂場ではなく、結構礫のサイズが大きいです。



  


まん丸のお地蔵さんと秋の池ノ平湿原。



  


奇跡的に残った針葉樹巨木林と七人の侍・コメツガ巨木。



  


神の手「五つ又のコメツガ」とヒメウスノキ。



  


クロイロコウガイビル?と黄葉するヒノキ。



  


【浅間園に移動】コーラ噴火実験。



  


見えている鬼押出し溶岩流風景と実態の鬼押出し溶岩流。




【鎌原区に移動】

(看板より)延命寺石標の欠片を利用した 道しるべ
 「右すかを 左ぬまた ミち」とあり、右を行くと苅宿を経て須賀尾、大戸、高崎へ、左を行くと、袋倉、羽根尾、原町、中之条、沼田への街道を教えています。
 裏面を見ると、さかさの「別」の字が刻まれていて、「別当浅間山延命寺」の、石標の一部とわかります。
 延命寺の石標は、天明3年の浅間押しの際、土石なだれによって押し流されました。
 明治43年に吾妻川下流約25km先の矢倉の河原で発見されました。そこの鳥頭神社に祀られていたものを、昭和18年に鎌原に戻され現在の観音堂の境内に保存されています。この道標の建立年代や経緯については、不明です。
鎌原区


江戸時代の1700年代後半には野口円心という僧侶が全国を遍歴し、托鉢で浄財を募り、道陸神峠−久森峠−釣鐘−鬼岩の開削工事に喜捨したと聞いています。恐らく、この道しるべは円心が道陸神峠道を整備した後、吾妻渓谷が死を覚悟して通るものではなくなってから設置された、と私は見ています。矢倉鳥頭神社に引き上げ祀ったのも、恐らくは円心なのでしょう。縁とはそういうものです。




(看板より)天明三年の浅間押しを生き抜いたご神木 でぇだらもみ
樹木名 モミ 推定樹齢250年
 モミの木は、この村では昔から、死人が出ると、近所の人や縁者が集まって、その日、その時に山から1本のモミを切り出し、死人を送る棺桶を造り、手厚く埋葬する風習がありました。ご先祖の亡きがらを包み、土に帰してくれ、魂をあの世への送り届ける乗り物の木として、大切に育てました。
 遠い昔からのご先祖の霊を守り鎮めてくれる鎮守の森にふさわしい大木です。でかくて、枝垂れて、黒ぐろと葉を茂らせ、のっそりとした怪物のような不思議な力で、村や村人を守ってくれる木といえるものです。
鎌原区


このモミは確かに郷土資料館の屋上から見ても、その高さに驚くほどの大木で、いい樹木です。御神木にふさわしいでしょう。




(看板より)天明三年の浅間押しを生き抜いたご神木 なんかからまつ
 カラマツの、厳しい自然環境を長い年月生き抜いたカラマツの大木は、固く、腐りにくく、水に強いので、昔から水車の歯車などにも使われた貴重な資源でした。
 この地の古老が、言うことを聞かない、気の強い若者を評して「このなんかもんめ」と言った言葉に因んだ呼び方でしょうか、たくさんあったカラマツの大木の中でたった1本残った、風格のある、いかにも『なんかもん』に似つかわしいカラマツです。
鎌原区


おや、このカラマツまで御神木に…樹齢230年以上には、見えないような気もしますが…



  


(看板より)天明三年の浅間押しを生き抜いたご神木 かつらの木
樹木名 カツラ 推定樹齢250年
 この鎌原神社の鎮守の森は、鎌原村の中心に位置し、小高い丘となっていましたが、天明3年(1783年)の浅間押しでは土石なだれをかぶりました。
 建物は全て流されましたが、このかつらの大きな木はなんとか生き残りました。しかし、
多くの大木が、永年の風雨に朽ちたり、昭和34年の伊勢湾台風などで倒れたりしました。それでも残った木が十数本、今なお生き続いています。
その内、このかつらの木を含め5本の木について、現代の専門的な調査で、天明3年以前からの年輪を重ねた樹木と診断されました。
鎌原区


このカツラは私も長生きしていると思っています。樹洞がミツバチの巣になったり、根株にマスタケらしきものが発生していたりと、もう長くはないでしょう。倒れるときに公民館側に倒れないことを祈るばかりです。




(看板より)天明三年の浅間押しを生き抜いたご神木 におうけやき
樹木名 ケヤキ 推定樹齢350年
 この丘の、浅間山に面した斜面で、泥流の圧力を最大に受けたと思われるケヤキながら、たくましく、すっくと立つ姿は、雄々しくに王様の名に恥じない姿です。
 天明3年の浅間山噴火大災害の前の鎌原村と奇跡の復興を遂げた鎌原村を見守ってきたケヤキです。
鎌原区


このケヤキを「におうけやき」にしたのですね。いい名前です、ひらがなっていうのも味があるし…。後になって気がつきましたが、「5本の木を御神木にした」と書いてありましたね。もう一本は、どれだろう?私だったら迷わずケヤキ巨木にしますが、そうすると「だいおうけやき」とか? 今度調べてみましょう。



  


今年から閉鎖してしまった鎌原幼稚園。当協会ガイドの咲貴ちゃんは、この幼稚園に通ったそうです。樹齢約200年のケヤキ切り株は、おままごとの台だったそうです。心温まるお話が聞けました。やっぱり、鎌原神社は嬬恋村を代表するパワースポットです!






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