東吾妻町一般向け歴史講和「真田三代と吾妻郡」に参加
東吾妻町ボランティアガイドの会が、一般向け歴史講和として「真田三代と吾妻郡」を開催いたしました。全6回シリーズで、私は全部は参加できないのですが、行ける日は何とか参加しようと思っています。
【講 話 内 容:全6回シリーズ】
- 第1回 6月4日(木)『真田氏の出自』
- 第2回 6月18日(木)『真田氏中興の祖、幸隆』
- 第3回 7月2日(木)『武田氏の人質から重臣へ、昌幸』
- 第4回 7月16日(木)『表裏比興の者、昌幸』
- 第5回 7月30日(木)『日本一の兵、幸村』
- 第6回 8月6日(木)『真田氏の行方』
講師の片貝正明さんは中之条町・戦国武将真田氏歴史研究会の会長で、東吾妻町観光ボランティアガイドの会の会員でもあります。こんな強者がいらっしゃったとは知りませんでした。講和資料は全てご自分で作成されます。とても手がかかっています。
先日、たまたまFacebook上で宮本亮さんに紹介していただいた、平山優著の「真田三代」はとても内容が良いとのこと。まだ読んではいませんが、安心しました。
この「狭名田」は、受講者が書いたもの。本当の名前はこうだったのではないか?と。片貝先生は知らないそうですが、他の参加者の中から、真田氏本拠地の真田村は平場がなく、田んぼがあまり作れなかったので、平場を求めて領地を拡大していった、だからそういう名前もあったと聞いたことがある…そうです。本当ですかね?
真田氏の家紋は六文銭以外にいくつかあり、よく真田に関係する寺社の門の裏側に見られるのは「結び雁金」ですが、それ以外に「州浜(すはま)」「割州浜(わりすはま)」も使われたそうです。また、家紋として六文銭を持っている人が真田氏以外にも複数いるが、子孫でなくても、戦の褒美として家紋を使うことを許される場合があるそうです。
真田氏と海野氏の関係については、海野平の合戦で滅びることになった海野氏最後の棟梁、海野棟綱の娘の夫であるという説を支持していらっしゃいました。海野宿にある白鳥神社に伝わっている系図を紹介してくださいました。真田村にある日向畑遺跡は真田氏の先祖の墓であり、真田氏が壊したと考えていて、その理由は滋野氏一族に対し影響力の強い海野氏を名乗りたかったから、だそうです。
東吾妻町原町の名前の由来がは、昌幸が上田城を築城時に、真田村の原之郷から人を移住させ、城下に「原町」をつくりましたが、それにちなんで真田信之が東吾妻町につくった新たな町を「原町」と名付けたのだそうです。
「真田道」の定義については、私は「真田の御殿様がいた時代に、上田城と沼田城を結んでいた主要街道である信州街道や上州街道のことを云う」…と思っていましたが、一本ではなく、少なくとも4本はそう呼んでいいと考えられていました。つまり、加沢記にある岩櫃城攻略の際に使ったルートは、「真田道」と言ってもいいだろうとのこと。
- 道陸神−松谷ルート
- 赤岩火打花−高間山−雁ヶ沢ルート
- 暮坂峠−沢渡ルート
- 万騎峠−須賀尾−大戸ルート
海野平合戦で負けた真田幸隆が羽尾城にかくまってもらえたが、それは合戦の前から幸隆はちょくちょく吾妻に来て様子を見ていたのではないかと。人間関係ができていたからかくまってもらえたと。
さらに、戦国の世になる前に、滋野一族である海野氏は嬬恋に、祢津氏は狩宿、倉渕、大戸、三島、矢倉、郷原などに、望月氏は草津、六合、沢渡、松谷などに進出していた。その説明の仕方が、すでに真田氏関係が入り込んでいた…という言い方をしました。それは、吾妻側からすると、滋野一族も真田一族も信濃からきた侵略者として、同グループに見ている、というイメージを感じました。これが嬬恋村の感覚だと、あくまでも海野氏は古い時代に東御市から湯の丸地蔵峠、鹿沢温泉から入ってきて当地を治めていた感覚で、真田氏は後世に上田市から鳥居峠越えで侵略者として入ってきた別グループとしてのとらえがあります。鎌原氏、西窪氏、湯本氏などの地元に根付いた土着の侍達は、自分たちよりも強い真田氏(武田氏)、場合によっては斉藤氏(上杉氏)の侵略により、同族なのに殺し合いをさせられた、と。
いや〜面白かった。本当は全部参加したいです。残念無念…