上田市にて真田氏の学習会



真田氏に関する史跡の学習会、二日目です。今日も上田市観光ボランティアガイドの荻原様にご案内いただきました。



  


今日、まず訪問したのは第二次上田合戦があった場所。かみしな接骨院様近くの台地付近だそうです。上田菅平ICの南東500mあたり。徳川秀忠軍は収穫期にあった稲穂の刈田を行いましたが、稲穂を焼かれるのを阻止しようと城兵が出て小競り合いが始まりました。この槍合わせが発端となり、第二次上田合戦と呼ばれた戦いは始まった…らしいです。秀忠軍は3万8千、対する昌幸・幸村軍は総勢わずか2千5百とも言われていますが、実際には真田軍も農民兵がもっといたらしく、兵力に10倍以上の差があったとは考えられないそうです。



  


次に訪問したのは第一次上田合戦があった場所のうち、徳川軍が退却の際に渡った神川のあたり。株式会社ムラヤマ様付近の古里という地名があるところです。この時も徳川秀忠軍は7千、それに対し迎え撃つ真田軍は2千余りだったと伝わっています。それでも真田軍は上田城にて徳川軍をコテンパンに痛めつけ、敗走をする徳川軍の追撃の手を緩めず、神川を渡る際に上流に築いておいた堰を切って落し増水させ溺死させた…とも伝わります。(ただし、荻原さんは堰の話はでっちあげではないか、と言われていました)。この日の戦いの徳川軍犠牲者は徳川での資料では350人、信幸の書状によれば1,300人余りだったそうです。


ところで、神川は、昔は加賀川といいました。真田氏の時代はまさにそうです。恐らくは加賀の白山信仰四阿山にもたらされていた頃についたと思いますが、その前はなんと呼んだのか、知りたいところです。その前は神川だったらいうことないですね。千曲川、神川には昔は鮭がたくさん遡上したそうです。信之は昌幸・信繁(幸村)父子がいる紀州九度山に鮭をよく送ったそうで、それを地域住民に振舞っていたらしく、そういうこともあって大坂の陣に脱出させてやった…という見方もあるそうです。


    


次に訪問したのは上田市蒼久保にある、「神川合戦の地」です。真田氏の第一次上田合戦も神川合戦と呼ばれるのでややこしいですが、こちらは一般的には「海野平の戦い」と呼ばれている戦いで、真田昌幸上田城の頃ではなくもっと前、真田幸隆が28歳の頃の天文10年(1541年)、甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎(信玄の父)が、村上義清諏訪頼重などと連合軍となり小県郡へ侵攻し、小県を領する海野棟綱ら滋野一族(海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏など)を駆逐した一連の戦いです。そのうち、上田市蒼久保のこの地での戦いを「神川合戦」と呼ぶそうです。この戦いで海野棟綱嫡男の幸義は戦死します。ただし、真田幸隆海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子であるとして、海野家の跡継ぎの立場となります。


海野棟綱真田幸隆は、鳥居峠を越えて、関東管領上杉憲政に仕える同族の羽尾城主・羽尾幸全入道を頼って落ち延びたそうです。幸全の庇護を受けた後、長野業政の箕輪城に預けられましたが、海野平の奪還をめぐって関東管領・上杉氏を頼ろうとする海野棟綱と、甲斐の武田晴信(信玄)を頼ろうとする真田幸隆の意見が対立し、幸隆は箕輪城を出て、武田晴信に仕えました。幸隆はその後、武田軍の西上州侵攻の先鋒を命ぜられ、大恩ある羽尾幸全、長野業政らと闘うことになります…



  

  

  


昔の旧道から上田城址に近づいていきます。上田城には地層の露頭があり、近づいてみると浅間山の平原火砕流の質とよく似ていました。平原火砕流の露頭は千曲川沿いに小諸市東御市付近でよく見ますが、上田市まで達しているのでしょうか?「上田地域千曲川自然電子図鑑」では「上田泥流」としていますが、記載内容を拝見するに2万5000年前の塚原土石なだれと1万3000年前の平原火砕流をごっちゃにしているようです。


上田地域千曲川自然電子図鑑〜上田城の上田泥流〜
http://edu.umic.jp/zukan/work/chikeichishitsu/chikeichishitsu-010.htm


また、この石垣は残念ながら後世になって修繕されていますね…



  

  

  


天正十一年(1583年)、真田昌幸により築城された上田城も、関ヶ原の合戦後は徳川軍に徹底的に破却され堀も多くは埋められました。その後藩主となった真田信之信濃国松代へ転封され、その後は仙石氏が入城し、破却された上田城を現在のような姿に再建しました。なので今現在の上田城では、真田氏を感じる…ようなものはほとんど残っていません。


城内の水堀へは、今現在は地下水を汲み上げて堀へ供給していますが、上田城は流れが緩やかな千曲川の第二段丘上に位置しており、千曲川から取水することができなかったために、かつては4km東を流れる神川から取り入れていました。


城内にある真田神社は、仙石氏の後に藩主となった松平氏氏神神社=松平(しょうへい)神社でしたが、近年、真田氏ブームにあやかり真田神社に改名しました。その裏にある真田井戸伝説は、後になって小説に出てきた内容なので、井戸から太郎山への抜け道などある訳もありません。



  

  


城内で唯一、真田氏の頃からのものと見られるものは本丸土塁の隅欠(すみおとし)です。艮(北東)の方角は鬼が出入りする方角として忌み嫌われ、建物等の東北の角をなくして隅欠としたり、城下町の鬼門に自社を置いたりしました。上田城本丸の土塁も東北の角を切り込み、やぐら2棟をその両脇に配置していたそうです。また、東北方向といえば四阿山があり、上田城四阿山の間には複数の寺社・寺院が配置されています。


大手門の石垣には「真田石」と呼ばれる巨石がありますが、これも残念ながら破城された後に仙石氏が改めて造ったものでした。



  


現在ある、陸上競技場や児童遊園地は、江戸時代には大きな堀で、百間堀と呼ばれていました。東側から西側の堀へ水を通すために木で作った樋(導水管)を地中に埋めてありましたが、1702年に木製から石製へ変えた時のものが今も見られます。その上には、信綱寺にある「墓前の桜」と同じ、赤い花が咲く桜があります。



  

  

  


上田城跡公園から上田市観光会館への移動する際に、橋の下に見えるケヤキ並木遊歩道は上田交通真田傍陽線跡。観光会館内は真田氏一色といった感じ。胴具足が飾られていますが、新品だとこんなに色鮮やかだったんでしょうか?それにしても信繁(幸村)軍が大坂夏の陣で着用した緋縅(ヒオドシ)の鎧は、こんなに赤かったんですかね?真田幸村の他にも飯富虎昌、山県昌景井伊直政なども猛者たちも勇猛ぶりを示すため、戦場で赤揃えの武具を着用したと聞きます。凄いですね。



  


上田藩主居館=「御屋形(おやかた)」跡地は、そのまま上田高校に使われています。四囲に堀と土塁をめぐらした陣屋の構えをとっています。注目すべきは北東方向の土塁と堀が上田城と同じように隅欠(すみおとし)されていること。



  

  


大手門への通りは鉤の手状になっており、道路工事・土地改良の際に真っ直ぐにする計画もあったそうですが、地域住民の反対により、緩やかに鉤の手状が残されたそうです。跡地はちょっとした大手門公園になっています。



  


真田昌はが上田城下町の町づくりをするにあたり、町家は海野郷(東御市)と原之郷(上田市真田町)から民家を移して海野町と原町とし、それぞれに問屋を置いて別々に六斎市を開いたそうです。その市の守護神として事代主命須佐之男命を勧請して祀ったそうで、同じ神社は海野町にもあり、原町と海野町は昔から仲が悪いのだそうです。上田市になんでまた海野町があるのか不明でしたが、これで意味が解りました。



  

  


真田太平記館で、第一次上田合戦の企画展が催されていたので寄ってみました。長野市松城町の真田宝物館からいろいろと借りて展示しているようです。豊臣秀吉上杉景勝に送った書状に、昌幸のことを「表裏者」と記されていたり、秀吉が昌幸に送った書状に「家康を説諭してやった、殿下もそなたをけしからん奴だと思うが今回だけは許してやろう、だからすぐに上洛せよ。」などがありました。


このところ、上田市真田十勇士でも売り出していこうとしているようで、十勇士の看板や像がいたるところに見られます。ただし「明治時代以降に立川文庫が創作したヒーローです。」との記載があって安心しました。



  


真田町教育委員会で、真田町誌自然編を購入できないか相談したところ、在庫もなく増刷予定もないため無理だとのこと。編纂事務局メンバーに山家神社押森宮司のお父様のお名前がありました。



  


昼食を食べて、砥石城に向かう途中、上田城の鬼門・北東方向にある大星神社をご紹介いただきました。大星神社は昌幸が北東方向に建立した八幡社のさらに四阿山寄りにあります。大星=大法師(僧侶)法性(ほっしょう、仏教用語)からきているとすると神社じゃなくて寺院となってしまいますが、ネットで検索してみると星の信仰もありえるそうです。まさか六文銭=昴(プレアデス星団)説が浮上したりして…



  

  


今日のメインイベント、砥石城訪問です。「なめんなよ!」の石版に少々驚きつつ登ると、後になってつくられた櫓門があります。その後は、しばらくの間、郭も堀もないまま歩くので城址の探索というよりも普通の登山のような感じです。米山城山頂付近には石垣を確認しました。





米山城本丸より。ここからは、上田城方面がよく見えます。



  

  


本丸跡には「村上義清公之碑」があります。砥石城は元々、坂城町の村上氏の居城で、武田信玄は生涯の戦いの中で2度しかない敗戦は、二つとも村上氏との戦いでした。その一つが天文19年(1550年)の砥石崩れです。この戦いで武田方は1200名の死傷者を出しましたが、村上方の死者は193名程だったそうです。そしてその2年後に幸隆は独力で調略でこの城を落としてしまったのですから、武田信玄にしたら願ってもいない人材だったのでしょうね。

上田市付近にはヤダケは自生していませんが、砥石城の周りにはありますので、恐らく戦争のために移植したのでしょう。



  

  


米山城から10分ほど下り、砥石城の分岐点まで戻り、砥石城を目指します。一般的には砥石城で通用していますが、上田市では「砥石・米山城」とされています。ここは、米山城砥石城・本城・枡形城の四要害から構成されています。砥石城からも米山城と同じく上田城方面がよく見えます。しかし実際には、四方の木を切り倒していたでしょうから、昔はもっと見えていたのでしょう。


ここまでの案内約束でしたが、どうも山城らしい造りが見当たらなく、私的には納得できません。さらに奥に進ませていただきました。



  

  

  

  



すると、ありました、ありました!やっと山城らしいものが!



しっかりとした堀切、郭群、石垣…。なるほど、本城と枡形城付近には、山城の遺構がかなり残っています。すると、砥石城米山城はほとんど物見的に使っていた、ということになるのかもしれません。また、学研の「真田三代」の縄張図によると、飯縄城・伊勢崎城・内小屋城などの砦群の総称が砥石城であった、とされていました。しかし広い城域です。これはきわめて堅固な要害だったはずです。


今回は時間切れのためにこれで帰りますが、また後日、大手口からしっかりと下見してみます。






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