上田市旧真田町で真田氏史跡と四阿山について学ぶ
四阿山と真田氏の関係について調べるために、上田市真田町に関連史跡を視察してまいりました。上田市観光ボランティアガイドの荻原様にご案内いただきました。
まずは、真田町山家郷の産土神(うぶすなかみ)で、四阿山を源とする神川沿いに生活する人々の「水分(みくまり)の神」として厚く崇拝されている「山家神社」に寄らせていただきました。山家神社は平安時代(927年)に編纂された延喜式神明帳という法典にも収載されている由緒正しき神社で、真田氏一族は山家神社の氏子であり、その崇敬も大変に厚かったそうです。
真田町誌(歴史編)によると、
(1). 山家郷の郷社として、四阿山をご神体とする社、それが山家神社の当初の姿であった。そこへ東征伝承とかかわって日本武尊などの諸神や、あるいは白山信仰にかかわっての諸神などが祀られて、今日に至っている。
(2). 山家神社は四阿山を背にしてではなく、岩井山を背にして建っているので、岩井山をご神体とする素朴な自然信仰の中に成立した社であった。天安二年(858)、あるいは久安年間(1145〜1151)のいずれかに、洪水によって岩井山にあった社が流れ現在地に留まった。岩井山は山伏らの修行・禅定(ぜんじょう)の地であり、やがて山伏らは白雪を長く戴く四阿山を霊峰として、その開山へと発展するとともに、その霊山が望まれる山家神社に白山権現を移し白山大権現の社とし、四阿山信仰の里宮とした。
の二つの考え方があるようです。
山家神社拝殿で、押森宮司が宝物を見せてくださいました。
四阿山山家神社奥社古扉に書かれた朱漆書きの文字には、永禄五年(1562)に幸隆(幸綱)・信綱父子が社殿を修造した、と書いてあります。永禄五年といえば武田VS上杉の川中島の戦いの翌年です。この戦いのあと、武田信玄は西上州への侵攻を本格的に始めます。武田軍の先鋒としての真田氏は、四阿山奥社社殿を修造してから吾妻に侵攻したことになります。ただし、約20年に一度のペースで修造を繰り返しているために、必勝を祈念して…ということではないのかもしれません。
永禄五年といえば、吾妻では鎌原氏と羽尾氏が激しく争っていた頃です。6月には羽尾入道が万座の湯に湯治に出かけている間に鎌原城を奪い返され、信州高井野の加勢500人騎を引きつれ、9月上旬に万座山を越え干俣を通り米無山へ陣を張り、大前の上原という所から鉄砲で鎌原氏棟梁・幸重を狙うが失敗、命からがら羽尾入道は岩櫃城平川戸へ落ち延びた…という伝説があります。
http://d.hatena.ne.jp/akagi39/20140506/1399500527
その前年(永禄四年(1561))に、すでに武田信玄と鎌原氏は面会していたそうですが…
こちらは、「四阿山末社寄進記」。四阿山奥社までの参道には、一町ごとに石祠が設置されていますが、それには一つ一つ具体的に祀られている神様があったのです。そして花童子には「西花童子」と「東花童子」があったのです。安永三年(1774)に末社百二十社を奉納したのだそうです。
こちらは武州入西郡苦林の清金さんという方が四阿山奥社に奉納した鰐口。文安三年(1446)には、すでに四阿山の名前で通用していました。群馬県側の吾妻山という呼び名は、どのくらい古い記録を遡れるか、調べてみたいところです。
山家神社の石垣。これも相当古そうです。
社務所で押森まこと宮司様を中心に、荻原美智男様、宮下良雄様、松尾吉隆様にいろいろとインタビューさせていただきました。
「菅平その自然と人文」にあった、松尾家に伝わる江戸時代末期の四阿山の図。最も古い登山道は、鳥居峠からのルートのようですが、この頃にはすでにあずまや高原−菅平牧場ルートが開いていた模様。「此山より流れ出す川は滝沢・大明神沢一致して加賀川と云う 北の方へ落る川を越川と云 南へ落る川は上州と根川の上なり 合せて四流絶頂の雨を垂ると云」。
山頂、信州祠は昔は西宮、上州祠は東宮と呼ばれていたそうです。その間の石室のある祠は末社の一つで七面大明神とありますが、後で押森様から大己貴命(おほなむち)を祀ったもので、最も古いものだ、とご連絡をいただきました。
山家神社境内には、真田三代のうち、幸隆・昌幸・信幸・信繁(幸村)を祭神とした真田神社があります。明治十八年(1885)に出願し翌年許可を得たが二十年の真田大火で焼失、明治二十一年に再建し、大正八年(1919)に山家神社境内に遷し奉ったのだそうです。その前には白山寺がここにありました。鎌倉時代の頃大いに栄えていたようですが明治元年の神仏分離令により廃寺となり、その跡地に真田神社が建っています。
ところで、修験道の白山寺の話が出たところで、整理しておくと、嬬恋村では宝永七年(1710)に四阿山別当御師の松尾氏の記した「四阿山縁起」にある通り花童子行者が白山比竎神を勧請した、としていますが、真田町としては明治三年(1870)山家神社書上げのとおり、白山開祖泰澄の二高弟の一人、清定(じょうちょう、きよさだ)であるとしています。勧請年は共に養老二年(718)としていますが、この伝承よりも約二百年後に成立した『延喜式神明帳』には山家神社と記載されていますので、『延喜式』成立(927年)の頃には、まだ山家神社には白山信仰が伝わっていなかったのではないか、と考えられるそうです。
しかし山家神社の名は平安中ごろから影をひそめ、中世の資料からは白山大権現・四阿山大権現を中心とした白山寺、蓮花童子院などの寺名がみられるそうで、神仏混交となり元々の山家神社もひっくるめて「白山権現」「白山宮」「白山様」と呼ばれていたようです。しかし、押森家文書に白山寺と山家神社との争いを記録した「争論委細口上書」(1775)というものがあり、山家神社が完全に白山寺に変わった、或いは支配下に置かれた、ということではなかったようです。
ちなみに、白山寺の中社であった『蓮華童子院』は、嬬恋村では『華童子の宮』跡とされ、大岡越前の裁判で群馬県側に取られてしまったそうです…
次に、しだれ桜の名所でもある長谷寺へ。真田幸隆・昌幸の墓をお詣りしました。「一徳公之墓」が幸隆の墓なのは、幸隆が晩年、一徳斎と名乗っていたことを知っていたのでわかりました。「干雪公之墓」は昌幸の戒名なのですね。
長谷寺の奥にある岩井観音堂。弘長三年(1263年)に了然という僧がここに白山信仰の寺『光明寺』を建立した、という石碑があります。上部には白山権現の本地仏である十一面観音を現す「キャ」というう読みの梵字が刻まれています。これが真田町で見つかっている、本も古い白山信仰に関する遺跡で、鎌倉時代初期には岩井観音堂一帯が白山信仰の霊場であったことが解ります。
昼食は蕎麦屋「佐助」にて「冷やし六文銭そば」を注文。荻原さんに見せていただいた、昌幸のサイン。いわゆる「顔」というもの。山家をイメージしているように見えます。私も顔、作りたくなってきました。
次に、真田氏本城跡へ。真田氏が上田城を築城する以前の居館跡で、真田郷のほぼ中央、上州道(真田道)を眼下に納める位置にあります。北東にある四阿山を背にして立つと、真田氏館跡、その奥に砥石城、さらに上田城と続きます。まるで四阿山の加護を得て南西に侵攻していったかのようです。山側には水の手もあり、規模も大きいですが、吾妻にある山城の様に深く大きな堀がありません。堀が進化してくるのは戦国時代後半なのでしょうか。そして後半頃は、真田本城あたりは安泰で手をかけることもなかったのかもしれません。
次に、真田氏館跡を訪問。真田氏館跡は整備され、「屋敷跡公園」となっていました。中世豪族の居館の形態を知ることができます。ここには水堀があったそうです。土塁もよく残っていました。私にとっての一番の見どころは古い石垣。とても立派でした。皇太神社が奉られていましたが、真田氏との関係はわかりません。
次に信綱寺へ。最初の見どころは黒門と名がついた総門。どういう訳か中心から少し外れて設置されています。
その近くにある石碑には馬の顔が線彫で刻まれていて、珍しい馬頭観音です。看板で目を引いたのが大柏木を「おおかしゃぎ」と呼ぶこと。東吾妻町大柏木もそう呼ばれています。
境内は広く、信綱・昌輝の墓までは結構歩きます。六連戦とも呼ばれる真田一族の家紋・六文銭。三途の川の渡し賃でもある六文銭を旗印とし、不惜身命(ふしゃくしんみょうの精神は敵方を震え上がらせた…そうですが、実際には地蔵尊信仰の六道に由来するそうです。全ての衆生は「欲 怒り 愚痴」などの業により「地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天上」の六道にさ迷います。その六道の辻々に地蔵様がいて、人々を迷いから救ってくれるのだそうです。地蔵様を拝む時は「オンカカカビタマエソワカ」と唱えるのだそうです。
真田信綱は幸隆の長男でしたから、家督を継ぐはずの人物でした。武田二十四将にも数えられ、立派な武将だったと伝わります。武田氏の命運を分けた長篠の戦で討死した信綱の首は、家臣の白河兄弟が信綱の陣羽織に包み、この桜(エドヒガンザクラ)の下に持ち帰ってきました。それ以降、この桜は赤い花をつけるようになり、白河兄弟は自刃したそうです。
信綱と信綱夫人、そして後年になって昌輝の墓もここに遷されました。
次に、日向畑遺跡へ。ここは真田氏の最初の居館跡といわれています。昭和46年に五輪塔や宝篋印塔を墓標とし火葬骨を納めた墳墓群が発掘されました。室町時代から戦国時代にかけてのものと推定され、幸隆以前の真田一族の墓地だと考えられています。ここには安智羅明神という仏像があったそうで、幸隆の幼少の頃を写した像であると伝わっています。
この裏山が松尾古城で、真田氏の現存する一番古い山城です、ここは、近いうちにまた下見に来たいと思います。
近くには角間渓谷があり、せっかくなので寄ってみましたがあいにくの雨になってしまいました。猿飛佐助修行の地というのは講談本の世界ですが、ここの、烏帽子岳の噴火による溶岩が浸食されてできた渓谷はとても美しいです。また時間をかけてゆっくりと訪問させていただくことにします。