上田市真田町の松尾古城、真田本城を探検。その後長野原町の丸岩城探検。



先日、上田市観光ボランティアガイドの荻原様にご紹介いただいた、上田市真田町横沢、日向畑遺跡の真上にある松尾古城。幸隆以前の真田氏の最も古い城であると聞いています。ようやく今日、訪問することができました。



  


角間渓谷への入口に立つ看板。ここから山に向かうと目の前に現れる急峻な尾根が松尾古城跡です。



  


駐車場はありませんので、工夫をして…ということになります。日向畑遺跡から登ります。立派な石垣がありますが、さすがにこれは近年積み直されていることでしょう。



  


日向畑遺跡は、真田氏の最初の居館跡といわれています。14世紀末から16世紀末の遺構と考えられているそうです。また、真田氏が滅ぼした松尾氏の遺跡だという説もあるようです。



  


道かたがあるので進んで行きます。山の斜面に、日向畑遺跡にあるのと同じようなやや風化した板状節理の石がいくつも見えます。石垣の石はこの山のものをそのまま使っているようです。



  


うわっ、凄い形相の樹木ですね。薪炭林として使われていた里山であることが解ります。一番奥は地元の方のお墓のようでした。



  

  


いよいよ尾根へ。ところが、迂回路が用意されていたので、そっちを通ってみました。確かに、尾根は岩が多いですね。



  


途中には秋葉神社があります。その先は、いよいよ岩稜に覆われてきました。





うわっ、これは険しい。いかにも真田忍者の城って感じがします。



  


そんなことで、随所に回り道が用意されているのですね。



  


そして、松尾古城内での最初の石垣が出てきました。





どうなんでしょう、この石垣。吾妻地方の中世城址は石垣が地上に出ているところはほとんどなく、岩櫃城では発掘調査により本丸にあった石垣が出てきました。しかし、ここの石垣は急峻な尾根道とはいえ地上に出ています。落葉落枝等リター量が少ない場所だとしても、近年積み直された、と考えるべきでしょう。大丈夫ですかね。きちんと同じ場所に同じように積んでくださっていますかね?



  


先に進むとまた石垣がありました。石垣の上はたいてい、平場になっています。





馬場と呼ばれる広い帯郭。しかし、大切な馬をこんな急峻なところに連れてくるものなんですかね?馬を置いていたら一網打尽にされてしまいそうです。



  


そのまま登っていくと、広めの腰郭があって、



  


その上には城内で最も立派な石垣があります。





来ました。松尾古城本郭です。この尾根地形に見事に平場を造りましたね。



  


石塁で囲むことによってつくった平場でしょうか。いずれにせよ、これだけ見事に残っているのは初めて見ました。それにしてもわかりません。積み直した可能性はあるのでしょうか。



  


小さな祠が奉ってありましたが、中の神様はちょっとかわいそうな状態でした。まさに「埋もれ行く古城」という感じがします。



  


ここの標高は1,037m。この位置でも比高200m位あるので、真田の町がよく見えます。





本郭裏の大堀切もまた立派でした。



  


この上にあるという、遠見番所(物見)跡を見に行きます。オオルリのエールをもらいながら、



  


登れど登れど、まだ着きません。



  


落ち葉が堆積して歩きにくいこと。



  


鉄塔が見えてきました。このすぐ上に遠見番所はあるはずです。





遠見番所は今は木が生えていて景色は期待できなさそうですから、ここから周りを見渡してみました。凄い景色良いです。上田市街の向こう、別所温泉の方まで見えています。



  


この上、500m程歩いてやっと遠見番所。標高1,270mだそうです。本郭から233mも上がってきました。いやあ、きつかった…



  


遠見番所は石垣が残っているだけで特に見るべきものはありません。その先は少し下りますがまたすぐに登ります。足場の悪い尾根道を注意して下山しました。



  


麓の安智羅明神(あんちらみょうじん)は薬師如来に仕える十二神将の一人だそうですが、ここの安智羅明神=真田幸隆公ということになっていて、当地の産土神として、鎮守の神として深く愛されているそうです。


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せっかくのいい天気なので、このまま真田本城も寄ってみました。前回は雨でしたので。



  

  


真田本城は一般的には上田城を築く前の真田氏の本拠とされていますが、それ以前の当地の豪族・横尾氏が最初に築城したとも言われています。



  


真田本城からの四阿山根子岳の眺め。



  


二の郭の腰郭、山の郭なども確認しました。


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今日は最後にもう一つ。長野原町の丸岩城址を探検してきました。吾妻渓谷での中でも良く目立っている丸岩は、山として登ったことはあるのですが、城跡として探検したことはありません。というか、まさかあの、逃げ場のない絶壁に囲まれた山頂が本丸だったなんで夢にも思わなかったのです。長野原町かるたにも「戦国の歴史を語る丸岩城」と読まれた丸岩城址、山城探検の目で再訪問してきました。



  

  


丸岩の登山道、烏帽子岩の下をトラバースする道は、これは丸岩城と関係する道ではないようです。特に遺構らしきものはありません。



  


烏帽子岩の岸壁を越えてからの登山道は、明らかにもっこりとした形状になっています。なんと、ここが追手虎口でここから山頂までの170m間、延々と土塁が盛られていたのです。特に追手虎口あたりは3m程、盛られているとのことです。



  


左側のどこかから登ってくる道があったのでしょうね。ミズナラの老木は何も語ってはくれません。





登っていく途中の道、このあたりは確かに怪しいとは思っていました。土塁による段差が残っています。



  


当時は凹凸地形がもっとはっきりしていたでしょうね。うーむ、しかし土塁の上が城への道だとしたら、敵の方が有利になってしまいませんかね?



  


この窪みを、竪堀と見る人もいるようです。





丸岩山頂に着きました。ここが丸岩城の本丸になります。



  


今は樹木に覆われていますが、その昔は見通しが良かったでしょうね。吾妻渓谷を往来する者が丸見えだったことでしょう。



  


本丸の周りも高さ2〜3mの土塁に囲まれているそうです。さて、恐ろしいですが西側の森に入ってみます。



  


なるほど、確かに段差はあります。何段かは郭になっていますね。いきなり絶壁になるのではなく、しばらくの間は、森林があるのですね。それにしてもまだ慣れません。とりあえず本丸に戻ります。



  


本丸から、次は東側を探検。堀切の形状が残っています。



  


東側の尾根はけっこう奥行きがあります。



  


あれ?左下は超絶壁のようなイメージですし、縄張図にも郭は描かれていませんが、どうも平場が見えますね…



  


「大弁才天」の文字が彫られた石の先はあまり平場がなさそうです。



  


なので、思い切って北側の絶壁方面に進んでみました。すると…





うわーここ、丸岩城址で最も段郭らしいじゃないですか。



でも「吾妻郡城塁史」にも、他のインターネット投稿者の縄張図にも載っていません。どうも、不自然な気がします。



  


あらま、ツクバネソウが…。 では、戻るとしましょう。



  


それにしても、南東にある大斜面。ここに郭がない、というのは納得いきません。郭がなくったって何かに使われていたに違いありませんが…



  


少し降りると急崖になっていて、その付近にイノシシのヌタ場がありました。きっと、ここは水の手だったことでしょう。丸岩は、探検すると結構面白い場所ですね。ここの探検コースは「プチ川口浩探検隊シリーズ」でコース設定してみようかな、と思います…






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