原町祗園祭(東吾妻町)



東吾妻町原町の住民になったということは、原町祗園祭の祭典係りになる、ということであります。北海道育ちで万座温泉嬬恋村西窪と住んできた私は、山車が出る祭典を実施する側になった経験はないのであります。祗園祭、というものもちょっとわかりません。サクッとググッてみました。

祗園祭(ぎおんまつり)は、日本を代表する祭り(日本三大祭りの一つ)で、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼。明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。祭のハイライトは17日と24日に行われる33基の山鉾(やまぼこ)巡行。「京都衹園祭の山鉾行事」はユネスコ無形文化遺産にされている。


疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。
869年(貞観11年)、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来の化身とされた牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年の御霊会が祇園祭の起源とされている。


牛頭天王(ごずてんのう)は、日本の神仏習合における神で、祇園精舎の守護神。薬師如来垂迹であるとともに、スサノオの本地とされた。現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。


本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

    


東吾妻町原町の八坂神社です。昔は「天王の宮」として、今とは別の場所にありました。享保3年(1718年)に岩櫃御林より注連縄用の杭木、竹などを伐採を許可する覚書が確認されており、最低でも300年前には原町祗園祭は催されていました。

山車の運行は明治30年代後期になって行われ、それまでは担ぎ屋台で行われていました。お囃子は沼田から伝わったと言われています。

上之町、下之町、紺屋町、新井町の4町が協力して執り行う形になっていますが、八坂神社は上之町にあり、さらにその境内に上之町の山車車庫があります。


7月第4週の土曜日が祗園祭本祭りの日。朝8時に若連は集合し、山車の点検等、準備に入ります。本来は前日に宵祭りがありますが所用で来られなく、私は今日だけ務めさせていただきました。



    


9時を回ると、大宮岩鼓神社の高山宮司と中澤町長、議員の皆様が八坂神社に到着、祭典神事が始まりました。
ここで、上之町の山車は厄介なことに大トラブル。からくり人形が上がりません。最終的には渡重機の方が修理にし駆けつけてくれました。



    


動いた、動きました。山車の運行まであと5分のところで動くなんて、やっぱり神様はいるんですね。身長1.7mの日本武尊、地上から人形の頭までの高さは5.6mあります。日本武尊にしたのは、大宮岩鼓神社の御祭神だからでしょうか。



    


まずは軽ーく役場〜群馬銀行をひと回り。子ども達はお囃子の演奏をします。



    


八坂神社の定位置につけます。各町の山車が集まりました。紺屋町の人形は牛若丸のようですね。牛若丸と東吾妻町の因果関係は、よくわかりません。



    


八坂神社に小池家具店名の玉垣(たまがき:神社・神域の周囲にめぐらされる垣のこと)があります。お祖父ちゃんの時代に移転されたのでしょうか。出発式をして、まずは神社のお神輿が出ます。



  


そして我らが上之町の山車が続きます。山車の先頭には綺麗にお化粧をした「金棒引き」がいます。



  


笛を吹く中学生。私の役目は飲食の世話人。冷えた飲み物プールを押して山車の後ろについてゆきます。



  


人形の日本武尊は女性的な表情です。…美輪明宏? 高くて電線に引っかかるので、電線を持ち上げる係りの人もいます。



  


前を歩く金棒引き。大人が交代で傘をさして日陰を作ってあげながら歩きます。八坂神社のお神輿の先頭は「天狗」と呼ばれ、ピンク色の装束に兜をかぶります。続く白い装束の子ども達は「白鳥」と呼ばれます。

八坂神社には御神体はなく、大宮岩鼓神社から持ってくる、と聞かされましたが、その御神体が天王様なのか大宮神社のものなのかわかりません。東吾妻町教育委員会発行の「吾妻町の民俗芸能」には、極めて精巧優秀な天王社社殿がある、と書いてありますが…



    


真夏日の中、飛ぶように飲み物が売れます。吾妻産業前では社長さんが放水のサービス。粋ですねえ。





樹齢1000年、群馬県で最も幹が太いとされるケヤキ・槻木(つきのき)へ、日本の文化としては1000年以上前から続く祗園祭の山車が向かっていきます。



    


紺屋町の「韋駄天」は、どういう因果関係があるのか…不思議です。夕方になると、飲み物の他につまみも出します。が、アルコールはあまり売れません。お酒飲みと山車押せなくなっちゃいますからね。





あっちこっちで止まってはお囃子の競演。どちらの方が元気なのか張り合っています。



      


駅前で記念写真をして、ほずみ精肉店で氷や揚げ物を積んで、区会館でカレーを食べて充電。区民一体となって祭りを盛り上げ、運営しています。





提灯、ぼんぼりに灯りが入ります。お囃子の打ち手は小学生から中学生にバトンタッチ。



      


真夏日の中、汗だくで山車を一日中押し続けて、照明が灯されると、日常の現実とハレの祭日の区別がつかなくなってくるような感覚に襲われます。





19:00過ぎ頃、駅前通りに4つの山車が集合。大勢の見物人が見守ります。



  


区ごとに順番でお囃子を演奏。上品でまとまった上之町の演奏に対し、紺屋町の派手な演出と力強い演奏は対照的でした。



    


八坂神社に一同集まり、手締めが行われます。いやーいい祭りだった…と思ったら、また山車が運行。そしてもう一度、駅前の大通りに集結。そして向かい合っての大競演。大人も打ち手に加わり、演奏の大音が入り乱れて、凄いことになりました!





何百年も昔から、東吾妻町原町では、夏に一年で最大のお祭り・祗園祭があって、一ヶ月前から住民総出で祭りの準備をして、助け合って力を競い合って住民たちの絆が深まって、今の東吾妻町があるのだなあ…


こういう、ガッチリと地域住民でスクラムを組んで運営している伝統的年中行事があって、それに参加させてもらえる立場になれたこと、この町を自分のふるさとしてくれたこと、いろんなことに感動して胸がいっぱいになりました。



    


お囃子競演の後も、山車を車庫にしまうまで、演奏は続けられます。本当に長いことご苦労様でした。
八坂神社境内で上之町も手締め。お手を拝借、いよ〜


皆さん、お疲れ様でした。えーこの後、懇親会? いや、あの、ちょっと…






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