親都神社と吾妻神社(群馬県吾妻郡中之条町)



これからは、お隣町の中之条町様でも、活動をさせていただくことが増えてきます。すでに、旧六合村で事業は行っていることですし。


新しい地域で活動を始めるためには、まず、その地と民を守っている神様に挨拶するのが基本です。かといって中之条町の神社仏閣を片っ端から拝んで参る必要はまだ無いとは思いますが、存在を知っている親都神社と吾妻神社くらいはご挨拶しておきます。年始ですしね。



  


親都神社は、「道の駅たけやま」に行く途中にあります。「道の駅たけやま」は嵩山登山、嵩山三十三観音巡りなどの起点で、道の駅側が栄えて境内に入れるものですから、手前に鳥居と正式な表参道があるのを忘れてしまいそうです。



  


参道は杉並木。二の鳥居をくぐります。






親都神社の拝殿。これから宜しくお願いいたします。世界人類が平和でありますように




  


参拝が終わったところで、神社を見て回ります。拝殿学には「正一位親都大明神」とあります。神階は下げられることなく進階する一方であり、いつか寿命が来る人と違い神には寿命がないので、年を経るごとに多くの神社が「正一位」となります。

霊山たけやまと親都神社(境内看板の張り紙より)

 古代の人は、高い山そのものが神であり神霊の宿る山であり、また先祖の霊が眠る所であると崇敬されて来ました。嵩山はまさに神の宿る山であり、親都神社の所が拝む所であったろうと推測されております。この山は加若(かじゃく)次郎和利と子持姫のことを書いた神道集にある「和利大明神の事」の中に出てくる、加若次郎は見付山の峠に現れ「和利大明神」というとあり、「見付山」も「和利の岳」とも云ふとあります。

 渋川方面から来ると目の前に見える正に見付の山です。元禄六年(1693)の五反田村の絵図面を見ると嵩山に「わりのたけ」と書かれ親都神社の所に「七社大明神」とあります。これは神道集に出てくる七社大明神の神社の中心である事だと思います。また、「親都千軒」という事が云われており、親都には中世の屋敷あとがあり、その中心と思はれる所に「天王石」が残されてあり市が開かれた事を物語る遺物があり、又「宝蔵寺」跡もあって大集落があったと思はれます。

 また戦国時代には、嵩山城が築かれ斎藤氏と真田軍との壮絶な合戦で落城した慈話もあり元禄の時代になってから五反田村の人達が中心となって敵味方の別なく戦没者の供養をした事が残されています。尚、右記録に依りますと永禄の頃までは神社は大森であったが度重なる戦過や大風により社城も荒れ果てましたが社殿の鬼門に当る所の大欅は残っており現在御神木として崇められております。

 現代の御本殿は、元禄十二年(1699)八月十五日の大嵐にて大破したので村中で奉賀をして修復をしたものです。又、享保十一年(1726)九月七日には村中で拝殿を修復し、享保十三年には鳥居を建立しました。享保十四年二月十七日には明神様の御神位を頂戴する為に村から代表者二人が村中から一人につき十三文づつ出し合って貰いに出かけて「正一位親都大明神」の称号を頂き七社大明神が改称されました。明治初年(1868)になって「親都神社」と改称され明治十年(1877)には五反田村中すべての神社を合祀して現在の親都神社となりました。


おや、天王石というものがあったのですね。今度探してみましょう。


楽殿は新築されたようで新しいです。



  


拝殿横にあるのはかつての社務所でしょうか。拝殿と繋がっているものもあるんですね。本殿は当然ながら拝殿の正面奥にあります。本殿を覆い屋で覆っているのは昔、大風で破損した故事を踏まえてのことなのでしょう。



  


境内には立派な建物があり、何かな?と思ったら社務所でした。




親都神社の大ケヤキ(境内看板より)

一、名称及び員数
  群馬県指定天然記念物 親都神社の大ケヤキ 一本

二、指定年月日
  昭和三十二年(1957)四月二十三日

三、所在地
  中之条町大字五反田220番地

四、所有者
  宗教法人 親都神社

五、文化財の説明
  樹齢約700年 目通り9.7m 根回り15.1m 樹高約15m


右は、県下第二位の巨木であり昔より御神木として尊信せられ乳の出ない婦人が乳房の形を作り祈願したところ、たちまち乳が出るようになったと伝えられ今なお厚く信仰されている。


昭和六十二年十一月二十六日 群馬県教育委員会 中之条町教育委員会

  


かつては親都神社のには立派な鎮守の森があったそうですが、度重なる戦過や大風により森も社も荒れ果てたがこの大ケヤキは残ったそうです。しかしこの樹形、動物的というか、夜な夜な動いていそうな気がします。



  


また、こんな看板もありました。

町指定天然記念物 親都神社の境内木

(指 定)平成十二年三月二十七日
(所在地)中之条町大字五反田220

 町のシンボルと言われる嵩山の南麓にある親都神社の境内には、県の天然記念物である大ケヤキのほかにスギの目通り1.5〜2.0mが二十八本、3.0m以上が十本あるほか、ケヤキの木の1.5〜3.0mが三本と全部で五十六本あり、これらの木々が神社の森を形成している。
 元禄六(1693)年の「五反田村絵図」には、嵩山を「わりのたけ」、神社を「七社大明神」と記してある。嵩山の神「和利大明神」は吾妻七社明神の中心的な神であり、南北朝時代に編纂されたといわれる「神道集」にもその名が見られる。また、親都神社付近はその昔「ちかと千軒」といわれ、たくさんの家が立ち並び、賑わいを見せていたと伝えられれている。
 大きなスギやケヤキの木は、このようないわれのある神社の境内木として、長い間大切に守られてきた。

平成十六年三月 中之条町教育委員会


親都神社の境内木は、大ケヤキ以外は一般的な神社にある大木と比較すると、はっきり言ってそう大きくはないので、樹木だけを見ると価値は低いのですが、このように歴史的な背景要因をもって指定するとそれらしくなりますね。前述した張り紙では解りづらかった和利大明神のことがようやくすっきりしました。つまり、


親都神社は昔、七社大明神と記されていた。


のですね。そして嵩山=和利大明神は、吾妻七社明神の中心的な神であったと。ようやく理解できました。




  


次に吾妻神社へ。国道145号線、中之条町の伊勢町下信号を左折し高山村方面に走るとすぐ右側にあります。看板を見つけたら行き過ぎ。手前の駐車場に車を入れます。






吾妻神社の社頭と鳥居。通称は和利宮(わりのみや)で、明治維新後、百五十一社を合祀し吾妻神社と改称して郷社に列したそうです。私の東吾妻町原町にも大宮岩鼓神社という郷社がありますが、このような中山間地域で郷社が車で15分程の近距離にあることは珍しいのではないでしょうか。いずれにせよ、中之条町の郷社・吾妻神社にきちんと参拝したく参りました。



  


あれ?注連縄ならぬ注連ビニール?


吾妻神社を正式に参拝する時は、親都神社と一緒にすると決めていました。その理由は、吾妻神社は和利大明神=嵩山を奉った神社だと聞いたからです。和利宮はその昔、親都神社の場所から伊勢町の東端の御手洗山山頂に移され、さらに弘治2年(1556)、中之条町一帯を支配していた塩谷氏が自分を守ってくれる神として御手洗山から現在の横尾の地に遷座したそうです。
※南西に三丁(約330m)行った先には現在山はなく、宅地になっています。


ということは、本来の縁起としては、親都神社と一緒ということになります。しかし、文化年間の火災によって社殿、古記録が焼失し創祀年代も不明となってしまいました。一説には和銅年間(708年〜715年)の創祀とも伝えられる古社です。



  


参道沿いの社務所納札所には「自動車御祓所」の看板が。吾妻郡内で神門がある神社も初めて見ました。



  


神門の中も広いです。神楽殿もあります。



  


こちらは参集殿というそうです。





吾妻神社の拝殿です。郷社であった吾妻神社は地域の崇敬を集めていました。拝殿をはじめ境内の献額には、天保9年(1838)の絵馬、文政6年(1823)の句額、明治11年(1878)の算額などがあるそうです。


これから宜しくお願いいたします。世界人類が平和でありますように



  


しかしここの彫刻は年季が入っている上に、見事です。木鼻は獅子と、花?



  


拝殿入口にもびっしり。鶴は今にも羽ばたきそうです。



  


龍もいい感じ。…あれは親子ザル?



  


本殿がある、裏手に回ってみますと、こちらは色は塗られてはいないものの、拝殿を凌駕する程の見事な彫刻が刻まれていました。





うわっ、龍の梁ですか! (ノ゚ρ゚)ノ オオォォォ-



「龍体丸彫り虹梁」っていうやつですかね。凄い技術です。





本殿全体が、見事な彫刻で覆われ尽くしていました。いやー感激。


どういう経緯なのかまだ理解できませんが、現在の吾妻神社の主祭神大穴牟遅命(おおなむちのみこと)=大国主命=大黒様だそうです。


とにかく、気になっていた中之条町の神社二社にきちんとご挨拶することができました。直ちに中之条町で活動をする訳ではありませんが、これで、その時には安心して事業に取り組めます。参拝させていただきましてありがとうございました。






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