松谷神社のささら師子舞
東吾妻町の中でも長野原町に近い松谷の松谷神社で行われる獅子舞が変わっているというので、様子を見に行ってきました。
秋祭りののぼりが立っています。松谷神社の師子舞は、寛政二年(1789)の古文書に「昔からこの村の諏訪で師子舞が行われていたが、60年ほど前に一時中止し…」なんて書かれている、とてもとても古い師子舞です。天和2年(1682)より春秋の例祭で奉納されている…という情報もあります。この、師子舞という字も変わっていて、普通、ししまいは獅子舞と書きます。獅子が師子になっている訳です。なんでも、古代中国の辞書には「獅」という文字は収録されておらず、また古い仏典にも師子と載っていて、獅子と書かれた例は無いそうです。松谷神社の氏子がこの文字の使用に誇りを持って固執しているのは古き伝統を重んじているからなのでしょう。
拝殿目貫彫刻は三匹の龍。これも、師子舞と関係あるのかもしれません。
拝殿額も趣があります。立派な奉納記念の掲額は昭和34年のもの。ささら師子舞は民俗芸能としての優秀性・評価が高く、これまで地域の代表としてたびたび大きな催しで奉納されてきました。
- 昭和29年(1954) 吾妻郡代表として護国神社(ごこくじんじゃ)に奉納
- 昭和34年(1959) 群馬県代表として靖国神社・明治神宮等に奉納
- 昭和41年(1966) 第15回青年大会郷土芸能の部において優秀賞
- 昭和47年(1972) 吾妻町指定重要無形文化財となる
- 平成 7年(1995) 伊勢神宮遷宮芸能奉賛記念行事にて奉納
神楽殿をそのまま上演舞台として使用します。地上に下りることがないのは舞の格式を示すものと意識されているそうです。神楽殿の東に隣接してある、もう一つの古い舞台は「奉楽殿」との掲額がありますが、師子舞にも神楽にも無関係だそうです。他の芸能を見せる際やカラオケ大会なんかに使っているのでしょう。
始まりました。演者は全て少年で、師子は一人立ちで三頭(先・中・後師子)いて、年長の三人が師子頭をを着け、三人の幼児が花笠をかぶり、簓を持ってその間に一人ずつ入り、輪になって舞います。観客に見せるためではないので、なかなかこっちを見てくれません。
あらまあ、可愛い子!
ささら師子舞の「ささら」とは、簓(ささら)という楽器を用いるからなのですが、簓を用いるのは特に珍しい例ではありません。簓は佐々良とも書くようです。
花笠の子供は左手に簓子(ささらこ)をもち、右手に簓を持ちます。
簓は太い竹を二つに割ったものに波形の刻み目をつけた簓子と、細い竹の一端を細く割った簓とがセットになっており、これをこすり合わせて音を出します。
師子は「色紙を御幣のように切ったものを付けて背に垂らす」そうですが、見たところ、紙というより布切れに見えますが…
師子頭は竜頭型でキャップ式。勢多郡花輪村(今のみどり市)の名工・星野万之助(天明〜寛政ごろの人)の制作で、この人の遺作は郡内の社寺であちこちに見られ、岩下の応永寺山門や本堂の彫刻など、非常に高く評価をされている人です。
師子は桶胴型の太鼓を腹に着け、これを桐材で作ったこけし型のバチで打ちます。おや、たまには全員が観客の方を向くこともあるのですね。
道中の舞というものはなく、すべて舞台の上で白足袋を履いて演じられます。このために、御殿師子という呼び名もあるそうです。
囃子方はすべて神楽の囃子を勤める成人が分担していて、数人の笛方と、数人の歌方とに分かれています。舞の中に歌の入るところが三カ所あります。
通例師子は牡師子(おじし)牝師子(めじし)と呼ぶことが多いのですが、松谷神社では「親師子」という呼び方をしています。これは花笠をかぶり、簓を摺る子を将来成長して師子になる子師子に見立てているのかも知れない…そうです。
さて、約30分間ほどの舞が終わりました。師子頭を外すと、おお、そういえば子供が入っていたんでしたね、ご苦労様でした。ということは、餅投げも子供がやるんですね。
うまく取ってよ〜そうれ!
いつの間にか観客はいっぱいに。さすがは餅投げタイム。神饌の大根までポイッ!
空飛ぶニンジン。この後は地面に激突し真っ二つになりましたー。
師子舞が終わった後は舞台の上で着替えてしまうあたりは、ローカルでいいですね〜。ご奉仕の豚汁をいただいて、
静かになったところで、神楽殿を覗いていると、板張りの舞台でした。あれ?写真で見たものは畳の上で舞っていたはずですが…?
松谷神社はそんなに広くはない境内なのですが、風格ある拝殿、そしてつづく弊殿も本殿もとても立派なように見えました。
1889年(明治22年)の町村制施行により、吾妻地方の村々によって合併問題が話し合われました。川原畑村、川原湯村は松谷村と合併して温泉湯村の結成を主張し、原町は厚田村、郷原村を合併しての原町結成を主張しました。だが、岩下村、松谷村、三島村、矢倉村、郷原村、厚田村の利害関係が一致し、6村の合併により吾妻郡岩島村が成立し、1955年(昭和30年)には原町、太田村、坂上村と合併し原町を新設したそうです。
初め下組・諏訪神社及び荒魂神社、上組・諏訪神社、高日向・榛名神社、中組・神明宮、大平組・愛宕神社及び沼神明宮が鎮座していましたが、1906年(明治39年)の神社合祀令の官布により、翌年9月各社を下組・荒魂神社に合祀し、社殿を改築、社域を整備し、社名を松谷神社と改称しました。大正4年8月、村社に列格し神饌幣帛料供進神社となったそうです。
まだ私には神社の階級や仕組みが解ってはいないのですが、ここいら一体の郷社が原町の大宮巖鼓神社ですから、村社はその下、ということになるのでしょうか。
おや、神楽の奉納演奏でしょうか?いや、練習しているだけのようですね。松谷神社の神楽の奉納は古く嘉永5年(1852)という記録があるそうですが、現在演じられている神楽は明治15年(1882)武蔵の国御獄神社の神楽が伝えられたものだそうです。
神社の奥は吾妻渓谷の断崖がまだ若干残るような場所で、大きなイチョウの樹がありました。
松谷神社のことは、まだ資料不足のためにたくさんのことは書けません。今回はささら師子舞についてレポートしました。