万騎峠、長野原諏訪神社、国道406号線(草津街道)、丸岩と吾妻渓谷地形成因を考える



この春からは、週に3日間ほど、八ッ場ダムに沈む地域の発掘の仕事をしています。現在は天明浅間山大噴火(1783年)で発生した吾妻川の泥流に埋まった畑を出す作業をしています。砂礫の混じった泥流層を除去し、畑に積もった軽石層、畑の黒土層を出していきます。


浅間山噴火のことや歴史に詳しい先輩方がたくさんいて学べるし、発掘現場のことを知れるしで、やっていて楽しいです。ここで得た経験や知識は本業のエコツーリズムにも生かせるしで、実は天職だなーって思っています。


今朝は、ちょっと早起きして万騎峠から行ってみました。





その前に、大戸の信号から坂上方面に行く途中の右側にある、岩山が気になります。岩櫃山の幕岩を一回り小さくしたようなこの山、なかなかいい山だと思いませんか。聞けば山頂付近に洞窟もあるとか。大運寺の奥から登れるそうなので、今度登ってみようと思います。

※後日判明「岩殿(いわどの)」だそうです。坂上の人が教えてくれました。



  



これが、噂に聞く 「万騎峠のブナ古木」 ですか。確かに大きいですね。



設置看板にはこう書いてあります。

万騎峠長野原町吾妻町

 吾妻郡吾妻町長野原町の町境にある峠、菅峰南方1.2kmほどの尾根にあり、標高1,281m。かっては信州街道の須賀尾宿(吾妻町)と狩宿宿(長野原町)の中間に位置し、草津への湯治客、善光寺参りなどの旅人のほか、北信州の飯山・須坂・松代藩の江戸出し城米をはじめ、信州の特産物であるソバ・大豆・小豆の輸送、白根山万座山から幕府の火薬製造原料となった硫黄の輸出などで人馬の往来も多かったが、明治二六年信越本線の開通によりさびれ今は訪れる人もほとんどいない。頂上にはブナの古木があり、旅人の目印になったと言う。
 (歴史の道調査報告書/信州街道)

 ここからの展望は素晴らしく、東は榛名山、西は白根山・四阿(あずまや)山から鳥居峠まで一望出来る。この万騎峠の名は、「曽我物語」にも記録のある建久四年(1193)の源頼朝の三原・那須の狩りの際、狩宿の地に宿泊ののち、頼朝が万騎の兵を従えて峠を越えたことに由来する。

 また別名を万字峠とも言われ、前記狩りの峠越えのときに、山中の狐や狸が勢子に化けて行列にはいって邪魔をするので、陣笠に卍の印をつけて越したことから、卍(まんじ)峠といったのが、いつのまにか万字・万騎峠となってしまったという伝説がある。

  



メジャーを持ってきていませんので目測ですが、胸高直径4mオーバー、根回りは6m位あります。かなりの古木ですね。樹皮の状態からも樹勢が旺盛とは言えません。この位の古木になるともう、1年間で0.5mm位しか年輪は増えないでしょう。となると100年で5cm、それが中心から見て両側にできるのですから直径では100年で10cm、源頼朝が来た800年前は直径が今より80cm少なかったことになる…今現在直径150cmだとしたら、当時は直径70cmで巨木とは言えませんね。



  



ブナ古木の後ろには、すくすく育っているブナ中径木があります。直径50-60cmくらいかな? 200年後、翁ブナが枯れてしまう頃には、成長旺盛なこのブナなら直径100cmくらいになっていることでしょう。立派な巨木となり、万騎峠の守り神として世代交代するのでしょうね。


同じことが、太古の昔においてもあったのでしょう。万騎峠はブナの大木が鎮座し護ることに決まっているのでしょう。因果の流れとして。宇宙のちりが集まって光り輝き星となり、やがて超新星爆発をして宇宙のちりとなる。そしてまた集まって星に…人知を超えた神の示し合わせ。


そういえば、源頼朝伝説は嬬恋村ではとある歴史学者の方により「僻地史観」として完全否定され、その説が別荘族・移住者を中心に広がっています。「この山奥の村には世に誇れるものなど何もなかったんじゃないか」という「僻地史観」により、ありもしないようなことをでっち上げ、有名にしようとする風土である…と仰っていましたが、それは間違いです。誰も、そんな卑屈な考え方をもって伝説を語るなんてことはしていません。それこそ、世の中を儚んでいるような、いじけたような考え方です。地元の方にとっては、木曽義仲源頼朝の戦いの舞台の地だという伝説があることはちょっと誇らしくて嬉しいだけのことで、それ以上のなんでもないことなのです。そして、その伝説が残っているということは、地元に目を引く要素が残っているということであり、地域の人を育てるためにはとても重要なことなのです。



  


ブナ古木には樹洞があります。寂れているとはいえ、そこそこ通行車があるこの場所では、動物が営巣するには厳しいでしょうね。とにかく、私より先に枯れてしまうことがないように、長生きしてくださいね。



  


昼休みには、長野原諏訪神社へ。たまたま、明日から(4/26-4/27)は春祭りがあるらしく、綺麗に飾られていました。



  


ここは、西吾妻最大の合戦だったといわれる「長野原合戦」があった場所とされていて、境内の石碑にはこう書いてあります。

永禄六年九月下旬幸隆公の舎弟長野原城の大将常田新六郎隆永の城兵は農繁期のため小勢だった琴橋須川の橋を落し寄手を防ぐ城兵を岩櫃城主斎藤越前守は白井長尾の援兵を請羽尾入道海野能登守を大将に王城山から5百余騎鉄砲を
打掛材木を伐り須川を埋めて押し渡り斎藤弥三郎は三百余騎で湯窪口から攻め寄せて諏訪明神の社前で西吾妻最大の凄絶な合戦が展開したが多勢に無勢闇に紛れて敗退した、しかし斎藤越前守没落の端緒となった長野原合戦の地である
 昭和六三年十月吉日 撰文鈴木広義 揮毫依田忠雄


短い参道に三つも鳥居が並んでいて、最後の鳥居の裏には「2013年9月8日 2020年オリンピック開催都市が東京に決定」と書いてあります。ビックリしました。



    


この神社は鳥居が並んであり、どうして社頭が二つあるのかな?と思っていたら、こちらは大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)でした。同じ境内を使うケースはよく見ますが、社頭を別に造成してあるのはあまり見たことがありません。忠魂碑もありました。



  


曲がった屋根の造りは唐破風(からはふ)というそうです。格式高く見えますね。



      


拝殿横にあるシダレザクラには、こんな由来があるそうです。

明治四十三年(1910年)の大火の時 桜は神殿火災から守るため自分の身を焦がしながら必死になって火をくい止め火災を免れた。
その甲斐あって内宮三体は無事であり桜は火傷負ったが諏訪明神の御加護により長い年月を見事な花を咲かせる様になり以来百五十有余年に至り現在の此の桜は火伏せの御神木と言い伝えられている。
 平成二十五年二月吉日 氏子中


うーん、104年前の大火から数えて150余年生き続けているとは…?

古い掲額には、木霊のようなものが描かれています。仲良し道祖神もありました。



  


夕方には、国道406号線を走ってみました。ここは昔の草津街道(長野原町横壁小倉〜東吾妻町須賀尾〜坂上〜大戸〜高崎)なので、ところどころに道しるべの石標があります。大きな石碑は、文字が読めませんでした。



  


道しるべには「左かわら湯 右江戸」と彫られています。



  



王城山が夕日にあたっています。かつて王城山と高間山はひとつの成層火山であり、写真から右奥の方に火口があったそうで、ここからだと溶岩の流れが見えるはずなのですが、この時間では無理なようです。





国道406号線を丸岩を左に見つつ上っていくと、丸岩の後ろにも小さい丸岩のような山がありました。丸岩は菅峰火山の一部であり、断崖の露頭は断層面であるそうです。だから、丸岩のまわりにこのような断崖絶壁のある山が連なるのは当たり前のことです。

そう考えると、自然とこの吾妻渓谷地形の成因が見えてきます。どのくらい前からかは知りませんが、碓氷火山列は東西から圧力を受けることになります。そのため褶曲作用により盛り上がってくる過程の中で、地中にできた複数の断層にマグマが貫入、現在あるいくつもの川原湯岩脈が形成されました。また場合によっては断層とマグマの動きが火山噴火をもたらし、菅峰火山や高間山・王城山火山を形成しました。その後も続いた褶曲隆起作用によって吾妻渓谷内各地で断層が発生。丸岩や堂巌山、久森、立馬、屏風岩、大蓬莱・小蓬莱などの切り立った断崖地形が次々と生まれます。その合間を吾妻川が侵食しつつ東へ流れ、流水と雨風の侵食が進み現在の吾妻渓谷の姿に整えられていった…


私は火山学者ではありませんが、吾妻渓谷を自然観察してきた経験から、そんなプロセスをたどったのだと思います。



      


小丸岩(仮称)の横は、岩が崩落して凄いです。王城山の焙烙岩のような状態です。100万年くらい前に地上に溶岩が噴出してきて固まった岩山ですから、もうボロボロなのは当然であります。須賀尾峠にあるのは、丸山ではなくて小丸山だったんですね。丸岩城がどこにあったのか知りませんが、ちょっと覗いてみると、水の流れていない谷があり、思わず「竪堀では?」と思いましたが、どうも方向がおかしいですね。カモシカも「そうじゃねーよ」って言っていますし…


須賀尾峠には子育地蔵さんがありました。今後のために、私もお参りしておきました。






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