岩下城址と行沢観世音(木造馬頭観音立像)



東吾妻町郷原在住の「忍者の末裔」のお方の家へお邪魔いたしました。





げ、してやられたり。変わり身の術とは!



  


と思ったら、普通に富澤豊前守さんのWEBサイトから岩下城址縄張図をダウンロードしていらっしゃいました。どうやら、忍びの末裔一族は現代人のライフスタイルに完全に馴染んで生活しているようです。



    


そんな訳で、根津さんの案内で早速、岩下城址へ。コニファーいわびつの上の道をそのまま上って行きます。なんと、岩櫃山の北側を通るとは思ってもいませんでした。しかも、このあたりは密岩通り付近らしいです。



    


岩下城址に到着。ガタガタ道の林道ですが、時間的にはすぐです。緩やかなところから登り尾根っぽいところを歩きましたが、最初のうちは林床の笹が凄いです。



  


最初の堀切はやや大きめです。知らないと林道跡と思ってしまうかもしれませんが、尾根に出てみると、反対側に突っ切っているので林道ではないことがわかります。



  


引き続いて小堀切が出現。腰曲輪が現れてきました。





二の郭です。まるで、ここが本丸であるかのような高台にあります。こういった、「一城二郭式」の城は吾妻地方には多く見られるそうです。地形を利用するとこうなった、とも言えますが、広い山頂を使い切れない、かえって手薄になる、というデメリットが生じます。人口密度、兵の数が少ない山村地方では広すぎる山頂はこういう手の加え方をするのかも知れません。



  


周囲には腰曲輪が。ところで岩下城址には花がないですね。その後も植林地として使われてきたために自然植生が十分に回復していません。





本丸と二の廓の間にある大堀切。かなり埋まっていますから、相当に大きな堀切だったことでしょう。



    


ここで一考。実は岩櫃城は真田氏が築城した城であって、永禄六年(1563)斉藤氏が吾妻のお殿様として居城していたのは岩下城であった、という説があります。しかし、いくら人口密度が低かったからといっても、岩櫃城と比べてあまりにも小さく、また稲荷城跡と比べても同規模で、かえって稲荷城の方が使い勝手が良かったのではないか、とも言われています。吾妻太郎斉藤氏の最大の敵は、真田うんぬんの前は坂上から、或いは榛名山を越えて攻めてくる里見氏だったそうです。ならば、ここよりも古谷あたり(潜龍院あたり)の方がよく見えます。また、最終的に岩櫃城が落ちた際、武田(真田)軍は三島の類長が峰に本陣を構えたそうで、その位置からだと吾妻川の対岸正面はまさしく岩下城です。平沢の岩櫃城に対峙するなら別の位置に本陣を構えただろう…という考え方がある訳です。


いや〜面白いですね。どっちが正解だとしても、これはかなり面白いです。



  


大堀切を登ります。これはきついわ。母ちゃん連れてこなくてよかった…



  


登りきったところに盛土(土居)があって、その土居は大堀切に沿って下へ伸びていました。



  


本丸の一段低くなったところには、二つの社がありました。



  


こちらは三峯神社。「水」を配した鬼瓦のコピーが貼ってありました。岩下の集落が火事にならないように守っているのでしょうか。



    


お隣の社は秋葉神社。こちらも、火難除けの神だそうです。岩下の集落で大火事の故事でもあったのでしょうか。



  


さて、そろそろ帰りましょう。大堀切を渡るのは大変なので、先ほどの土居を下って、楽そうなところを探してみます。



  


半分位の高さになったところで、大堀切を横断。





大堀切の底から見上げる。



    


二の郭側に来ました。こちらは土居にはなっていません。隠れられてしまいますから当然ですかね。ここを利用して渡るといいですね。帰りは尾根をそのままでなく、小堀切を下ってみました。



    


しかし、林道により最後は崖になってしまっていました。結局、竪堀から入ったほうがよさそうです。


キミの花が咲いていました。シキミは護摩焚きの時に一緒に入れるそうです。シキミは毒、特に実を使った料理で死亡事故も発生している、というのは自然観察・自然体験活動をする者の定義なのですが、シキミの毒気がある香気は悪しきを浄める力があるのだそうです。



  

  


西にもう一回りしたところにあるのが、大沢川。ヤマメの姿を確認しました。原町から近いしいいですね。どなたかこの沢で魚釣り体験をさせてくれる人はいませんでしょうか…



  


このあたりはその昔、そこそこの戸数があった集落だったそうです。石垣は真田侵攻の後のものか、それとも…



  


一旦、国道に出て、行沢観音堂も訪問しました。行沢観音堂は、吾妻太郎と岩櫃城の伝説には度々出てきます。1200年代の妖怪(ようげつ)退治だとか…。しかし、このお堂前には一般の会社が普通に営業していて、車を止めることはできません。とりあえず、道路向かいのJA岩島さんが今日お休みなので駐車させていただきました。



    


行沢観音堂に行くには、JR吾妻線を横断しなくてはなりません。「線路に入ってはいけません」の看板は無視し、階段を上ります。かなり古い木造建築の様子です。このひなびた感じは国道から遠目に眺めるだけでは解りません。





行沢観音堂の前に来ました。大変恐縮ですが、以下の群馬県教育委員会の記述を引用させていただきます。


木造馬頭観音立像(もくぞうばとうかんのんりゅうぞう)
http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/c643094.htm

木造馬頭観音立像(もくぞうばとうかんのんりゅうぞう)

 (指)県指定重要文化財(昭和50年[1975]9月5日指定)
 (在)吾妻郡東吾妻町矢倉
 (有)行沢観世音保存会

三面六臂の寄木造の立像で総高162㌢。二枚からなる円形(元は蓮華座となっていたらしいが 蓮弁は皆無)の回転式台座上に立つ。元は全身に漆が塗られていたが、今は一部に残るのみで、ほとんど剥落して素木像のように見える。腰にまとう裳には彩色が残り、衣文線は複雑な様式であるが力強い。三面はともに当初のもので、馬頭観音本来の忿怒の相を示し、怒髪の頂部に首長の馬頭を置く。六臂(ぴ)はともに後補のもののようであり、持物は失なわれている。全体的に 重厚な彫りを示し、鎌倉時代造顕をうなずかせる。馬頭観音は、六観音の中では唯一の忿怒相 を示す観音であり、頭上に馬頭を戴き、明王馬口印を結ぶと義軌にある。無量寿仏(阿弥陀)の教令輪身と経典に説かれる。後世馬持衆の信仰を集め路傍の石仏として多数造立された。この馬頭尊は俗に行沢(なめざわ)の馬頭観音と呼ばれ、行沢の渡氏一族により祀られてきた。戦国時代に中之条の海蔵寺からこの地に移したとも伝えられる。

    



仏像には厳重に鍵がかけられていました。上記の文章だけではわかりにくいので、現地の看板も両方読むとわかってきます。正面と左右の両面に顔と手があり、顔は初めから作られたもののようですが、六臂(ぴ、三人の腕)は後で付け足したものだそうです。



  


再び、岩櫃山の北側の林道を通って帰り、土地勘を蓄えていきます。道路の真ん中に獣の溜め糞が…やはり、猿の仕業でしょうね。



  


恐らく、この尾根からなら密岩通りに安易に出られるはず。岩櫃山塊を理解するために、いつかは調査登山してみる必要がありそうですね。






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