大宮巌鼓神社(おおみやいわつづみじんじゃ) 東吾妻町原町



先日、氏子となった神社にお参りに行ったところ、目を見張るようなケヤキの巨木がありました。今日は再度スケールを持って測りに行って参りました。


ただし、これから私のことをことごとくお守りいただくわけですから、なんだかよく解らない神様であってはいけません。いろいろと調べても見ました。



  


ひょんなことから当地の上原政則さんという方と知り合うことができ、上原さんのお母様・安子さま所有の『原町誌』をお借りすることができました。原町誌にはこのように書いてあります。

大宮巖皷神社(原町誌より)


大字原町字大宮に鎮座する。字の名はその社名から起こった。氏子区域は大字原町一円である。祭神は日本武尊・弟橘姫命、素戔嗚命(すさのおのみこと)、保食命(うけもちのかみ)を主神とし、大山祇命、大物主命(おおものぬしのみこと)を配祀し、菊理姫命(くくりひめのみこと) 菅原道真公、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、大雷命(おほいかづちのみこと)、大国主神、鹿野姫命(かやのひめのみこと)、伊弉册命、奇稻田姫命(くしなだひめのみこと)、建御名方神(たけみなかたのかみ)を合祀し、境内社には八幡宮、宇婆神社、琴平神社、稲荷神社、東照宮金山神社厳島神社、斎神社、久那斗神社、埴山姫社、青麻社、素戔嗚社合祀猿田彦武尊両社合祀吾妻社、淡島社合祀多賀社、秋葉社合祀愛宕社、熊野社合祀浅間社、住吉社合祀熱田社、御年社合祀がある。勧請年月は詳でない。伝説に、吾妻太郎行盛武蔵国大宮なる氷川明神を崇敬して配祀した、故に大宮というとある。天正十八年(1590)真田家の朱印状 寛永十六年(1639)と明暦三年(1657)との同家の墨印状がある。



また、東吾妻町観光協会HP(http://www.tohgoku.or.jp/~aysk/omiya.htm)の古い記事に、以下のような記述がありました。

日本武尊(やまとたけるのみこと)と上妻姫(かみづまひめ)


 東吾妻町の原町に上野(うえの)という地名が残っている。ここにその昔、上毛野国(かみつけのくに。現群馬県)で一の富力を持った上野長者高豊の娘に上野姫という美しい姫がいた。上妻姫ともいわれ、その美しさは東国一帯に知れわたっていた。

 このころ、景行天皇の第二皇子の日本武尊は東国を平定して、都へ帰る途中、この噂を聞いて上妻姫に会ったそうだ。噂以上に美しい姫に心打たれた尊は、時のたつのも忘れ、姫との日々を過ごしました。

 しかし、尊は都へ帰らなければならない。そしてその日が来たとき、尊は姫が尊の子を宿していると知る。尊は「お前は私の永遠の妻である。今日からは吾妻姫というように」といって「吾妻や妹背(いもせ)と契る言の葉も これぞわかれの形見なるらん」の一首を残して都へ帰っていった。途中信州との境の峠(今の鳥居峠)まで来て姫を偲び「あずまはや」(ああ、わが妻よ)と嘆いたそうだ。(これが「吾妻」の語源といわれている)

 その後、上妻姫に皇子が生まれ、大若宮彦(おおわかみやひこ)と名づけられて大切に育てられた。土地では大宮とか巌鼓明神(いわつつみみょうじん)とも呼ばれ、この尊をまつったのが、大宮巌鼓神社である。


これまで嬬恋村で聞いてきた、日本武尊が弟橘姫を偲んで『あずまはや』と三嘆した…の話とはえらい違いです。しかし、ここまでの説明では御祭神に弟橘姫はあるが巌鼓明神が出てきません。どうなっているのでしょう?





境内入ってすぐ右にある、由緒の看板には、原町誌同様のことが記載してあります。


中盤以降、明治四十年(1907)本町各所の無格社数祀を併せ維持方法を確立し、大正四年(1915)神饌幣帛料供進神社に指定され(村社になったということ)、昭和十六年五月五日郷社に指定せられ…とあります。


※神饌幣帛料供進神社とは郷社、村社を対象に明治から終戦に至るまで勅令に基づき県令をもって県知事から、祈年祭新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社。





『原町誌』には、こんな記載もありました。

〔参考〕高山真滝は、大宮いはつつみ明神を、郡内五反田村の田村治郎兵衛方の古記録に「いなつつみ明神」と記してあるのを見て、之を正しいと信じ、上信国境に在る稲包山(又稲裏山と書く)即ち三代実録陽成天皇の元慶四年(880)の条に「五月二十五日上野国正六位上稲裏地神に従五位勲十二等を授く」とある。その「いなつつみ地神こそ本社の祭神で稲つつみ山は即ち本社の奥の院である」とし、享和三年(1803)初めて登山し、翌文化元年四月再び登山して山頂に石祠を建て、其の後二年、文化三年(1806)四万温泉譲葉(ゆづりは)に、其のよしを記した石碑を建てた。しかし大宮明神を岩つつみと称したのは、戦国時代のことを書いた前期加沢記などにも見えて居て、いなつつみが、いはつつみと訛伝したのではあるまいかと思われる、記して後の研究をまつ。


さらに、

なお明治四一年夏小学校新築敷地地均しのため現在神社境内と道路を隔てた東方地続き四、五十米を離れた丘陵地帯を一、二米掘下げたところ地下一米内外の辺から土師部(はじべ)土器に属する高坏(たかつき)皿及びそれらの破片が多数出土した。これらは当社の祭器を処理するに当ってこの地点に埋めたものと推定される。是に由って之を観ても当社の此処に鎮座することの古く久しいことが窺い知られる。(昭和三十四年境内玉垣を、翌三十五年拝殿をそれぞれ大いに修理した)


※土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代〜奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、埴輪も一種の土師器で、9世紀中頃までは坏や皿、高坏・椀などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては甑がある。このような日常食器のほか、祭祀具・副葬品としても多く使われ、祭祀遺跡・古墳からも出土する。


とあります。昭和10年(1935)に吾妻郡内(14ヶ町村)で認められた274の古墳の内、原町は80を占めていて、郡内でも早く開けたところだったと考えられています。どうやら、大宮巌鼓神社の縁起は原史時代まで遡ることになりそうです。





拝殿額には大宮巌鼓神社の前に正一位がついています。こういった位階は人にも神にも区別なく授けられたもので、そのうち神に授けられたものが神階(しんかい)または神位(しんい)神階と呼ばれているそうです。



  


ようやく本題に。本殿の向かって左側に、境内で最も大きなケヤキがあります。見てください、この見事な根回り。こう見えても、樹高は40m位あるんです。樹勢旺盛なこと。





連れの身長は170㎝位あります。どういうサイズの樹か、お解りいただけましたでしょうか?






出ました!胸高直径707cmの巨木! ヾ(驚゚∀゚*)ノ゙




…解りました。今年の縁は、「健康的で大きい」、これだったのですね。






向かって右側に境内社と石碑があります。



  


手前は伊勢神明宮。昭和50年(1975)に伊勢神宮の古殿材を用いて創建されたそうです。奥は八幡宮





こちらは神楽殿。5月5日と9月9日には神楽が舞われるのです。楽しみ!





これは宇婆神社です。由緒書には宇婆神社は保姆の神として信仰近隣に及び…と書いてありましたが、ネットで検索してみると、大阪府東大阪市にも宇婆神社たるものがあり、宇は宇宙の宇であり空を指し(空は物理的にも真理学的にもはかり知れない大自然の神秘)、婆は娑婆(シャバ)の婆であり世の中または社会を指している…とあります。本当に由緒書の通り、保姆の神=保母の神、お手伝いさん、女中の神様だということでしょうか?そうは思えませんが…





この宇婆神社の手前に、蕨手刀(わらびてとう)に関する看板があります。


群馬県生涯学習センターHP(http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/d643110.htm)の記述と画像を以下に引用します。



  

蕨手刀(わらびてとう)


(指)県指定重要文化財(昭和55年4月30日指定)
(在)吾妻郡東吾妻町原町
(有)大宮巌鼓神社


 全長53.3㌢(太刀長41㌢、柄長12.3㌢)、重さ約600㌘の鉄製太刀で、製作年代は奈良時代末期から平安時代初期と推定される。蕨手(わらびて)とは刀剣 の柄の一形式で、刀身と柄が共に鍛造されているものを言う。馬上の片手使いに用いられることが多いので、柄頭(つかがしら)の郡分に「そり」をもたせている。その形が蕨に似ているところからこの名がある。大宮巌鼓(おおみやいわつつみ)神社の蕨手刀は全国でも類例の少ない伝世刀の1つで、その資料的価値はすこぶる大きい。



高山昇翁頌徳碑 神宮祭主 北白川房子題額


一筋に神のみいつをひろむへく はけみしまこととはに輝く   房子


高山昇翁の功績を顕彰した句碑のようです。同様の句碑は神奈川県藤沢市鵠沼稲荷神社境内にあるそうです。北白川房子さまは高山昇翁のためにこの句を詠んだのでしょう。


高山昇翁頌徳碑(鵠沼伏見稲荷境内左手)
http://kugenuma.sakura.ne.jp/monument.html#16



  


社務所の隣には、『原町こどもクラブ』の看板がありました。平成24年5月に開設した、学童保育機能を備えたアフタースクールで、その中で子ども達に知恵や経験などを積み重ねてもらい社会につながる人間力を育てています。子どもが集いくつろげる場所。お父さん、お母さんが安心して子どもを預けられる場所。毎日来たくなる場所…を目指しているそうです。


その向かいには、注連縄が掛けられたケヤキの老木があって、鄙びた看板が立てかけてあります。古すぎてもう字が読めません。





スギとケヤキが結合しています。もしかしたら夫婦の樹だったのかもしれません。お義母さんが「御神木が小学校に倒れてきたことがある」と言っていたのは、このケヤキのことでした。





この樹も測ってみました。ところが、ケヤキだけで計測することができません。…というか、分けて測ろうとしたら嫌な予感がしました…仕方なしにスギも一緒に測ることにしました。


668cm。これも大きなケヤキです。


今回、宮司さんを訪ねてもいらっしゃらなかったり、調べようとしてもなかなかうまくいかなかったりで、まだ大宮巖皷神社の神様としっくりきていないのかな〜と思いました。時間はたっぷりあります。私は氏子であるので、長い時間をかけて大宮巖皷神社とシンクロしていきたいと思います。


『原町誌』に、


…当社の祀宮高山家は数百年関連綿奉仕の家で、加沢記永禄六年(1563)岩櫃城の危機に瀕した条にも「…其外一ノ宮首宮鳥頭岩つゝみ和利宮神主、川野片山高山小板橋神主に至るまで此度の御大事に御供申さんとて一類を集め百余人…」と見えている。


とあります。首宮・鳥頭・岩つゝみ・和利宮 が当地の一ノ宮。一つ一つ、ご挨拶して参ります。






人気ブログランキングへ にほんブログ村 環境ブログ エコツーリズムへ にほんブログ村 アウトドアブログ 野遊び・森遊びへ にほんブログ村 アウトドアブログ 自然体験へ