東吾妻町 古墳ものがたり〜古墳時代の東吾妻町へタイムスリップ〜



吾妻東部町村連携講座「ふるさと探訪」の3回目。今回は東吾妻町 古墳ものがたり〜古墳時代東吾妻町へタイムスリップ〜』。私が最も楽しみにしていた講座です。



  


まずは中央公民館で、教育委員会教育課・吉田智哉さんによるパワーポイントでの解説。吉田さんは広報ひがしあがつま(http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/genre/0000000000000/1202933091461/index.html)でシリーズ『東吾妻町の歴史・文化探訪』を執筆担当している人で、とても深い知見を有している方です。解説もわかりやすく、まとめ方も上手。確か30歳代のはずなので、今後、どこまで行ってしまうのか、末恐ろしいお方です。


古墳の墳丘の中にある、死者を安置する部屋は、石室(せきしつ)と呼ばれます。初めは竪穴式だったものが次第に横穴式へと進化していったそうです。



  


以前、『原町誌』を読んだときにもその多さに驚きましたが、東吾妻町には190基の古墳が確認されています。『吾妻郡上毛古墳総覧』には吾妻郡で274基確認されており、その内190基(約70%)が東吾妻町。合併前の内訳としては原町80基、太田43基、岩島46基、坂上12基、東9基となります。


古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間で、3世紀後半には各地の豪族はこぞって大きな墓を作るようになりました。やがて4世紀前半には倭国、主に西日本を統一したヤマト王権が、巨大な前方後円墳を作り始め、各地の豪族にもその建造を許可する形式で前方後円墳は伝播されていったようです。5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになりましたが、6世紀後半には日本各地で前方後円墳はつくられなくなり、こじんまりした円墳が多くなるそうです。


長野を従えた倭人は大きな水田を作ることができる平地を求めて長野→群馬(高崎方面)に進出した、そのルート古墳文化も伝播しているので、吾妻地方は高崎よりも前に古墳文化を経験しているはずなのだそうです。その後、6世紀頃には山を切り開く技術を持つようになり、山に戻って行ったそうです。


東国文化として注目を浴びる高崎や藤岡には前方後円墳は多数あるのに、なぜか吾妻郡にはありません。東吾妻町には円墳と帆立貝形古墳が確認されています。前方後円墳が見つからないのは大きな謎だそうです。ちなみに最古の古墳は5世紀のものと見られています。



  


次に町内古墳出土遺物の見学です。これらを持ってきて陳列展示するのはさぞ大変だったことでしょう。埴輪も結構、出土しているのですね。真ん中に穴が開いた円筒埴輪。これは、持ち運ぶ時に棒を通すためとか、穴があると火がよく通るので焼きやすかったのではないか、とのことです。



  


埴輪の欠片から全体を復元しますが、解らない部分はそのままにしてあるようです。×の印は作者(職人)によるもので、煉瓦の刻印と同じようなものではないかとのこと。


埴輪を焼いた窯は、東吾妻町では見つかっていません。これも前方後円墳がないのと同様に謎だそうです。



  


これは、人物の形象埴輪、手の部分だと考えられています。なるほど。



  


金環(耳環)、ガラス製小玉、翡翠の勾玉…現代の女性と同じように、装飾品で身を飾っていました。



  


臼玉は色の種類が多く鮮やかなこと!鉄鏃(鉄製の鏃(やじり))も多数出土しています。



  


東上野遺跡には、なんと作成中の石製未製品が出土しています。日本武尊と上妻姫の伝説が伝わる大宮岩鼓神社があり、吾妻の殿・吾妻太郎の稲荷城があった上野地区。ここには、今の宝石職人のような、飾り職人がいたということになります。これは、そのニーズがあった、仕事として成り立ったことを示すことになり、当時の上野地区の人口の多さ、或いは繁栄ぶりを物語っていると思います。驚きました。



  


昼食後、岩島四戸の古墳群へ。この付近は国道145号・353号線のバイパス道・上信自動車道(http://www.pref.gunma.jp/contents/000252441.pdf)が通ることになっていて、現在、盛んに発掘調査がなされています。



  


付近の畑ではこんにゃくの栽培が目立ちます。こんにゃく芋は秋に収穫した芋を次の春に再植え付けし、3年目になってようやく本収穫となるそうです。あれは結構大きく見えます。本収穫ですかね?



  


四戸〜唐堀に抜ける町道脇に積んであった大岩。これが、なんと古墳の石室だったとは!見落としていました。これは4号墳。



    


吉田さんの解説が始まりました。岩島の四戸地区は吾妻川と温川の合流地点付近にある台地で、ここからの岩櫃山の眺めはとても安定感があり、より長大に見えます。榛名山までは見えませんが、この集落を一望できる立地にあり、この地の王が死後も当地を見守り続ける場所としては最適と言えます。



  


左の写真の岩の凹みは、加工していると考えられています。四戸の古墳群は現在、4基の石室と土盛りが残っています。川から運んだと思われる大きな石は、エジプトのピラミッドのように転がして運んだと考えられています。石を置く高さまで土盛りをし、開口部からではなく裏側から運んで置いていったそうです。



  


側面は四角柱〜直方体形状の石を積み上げ、その間を小石で埋めたようになっています。古代人の技術って、本当にすごいですね。



  


造成時は10m〜15mの大きさだったと考えられています。近い将来、建設開通される上信自動車道は古墳と岩櫃山の間。古墳風景的には最悪、墓の主もたいへんお怒りになられていることでしょう。



  


次に3号墳石室へ。横穴式の袖無し形で石室全長7m、古墳自体は15m位だったろうと考えられています。かつて岩島四戸地区には20基以上の古墳があったそうです。



  


ここでは高橋次長が説明してくださいました。後世の人は、古墳があったことも知らされず、古墳文化も途絶えてしまっているために石室が何なのか解らずに、石を動かしてしまうそうです。今後は、このまま残されていくといいですね。



  


こちらは2号墳。天井石が一、二枚なくなってはいるものの、非常に良い形状で残っています。入口に『袖石』も見られます。が、完全に民家の敷地内にありますので一般人がふと見学に来ることはできません。残念ですね。





移動中、バスの中から見えたのは原町62号墳。径37.9m、高さ6.1mの円墳だそうです。大きな古墳ですね!原町にも結構、古墳は残っているようです。



  


東吾妻町太田植栗のとある民家から次の古墳へ…っていうか、お庭の石も石室ですか?



  


大泉寺川から奥の丘が諏訪塚古墳だそうで、直径33m、高さ14〜15mは吾妻郡最大です。川が凸型に湾曲した上部が古墳となっており、古墳造成の際の盛土によって川が湾曲した可能性があります。



  


今日見た古墳の中では、総合的には最も形状が残っている古墳でした。墳頂の祠の台座は羨道(せんどう)の天井石かもしれません。



  


石室も広いです。玄室奥の二枚の大岩もいい感じ。無袖式のようです。おや、オーブが…



  

−吉田さんの最後のお話から−

高木や建築物を除けば、諏訪塚古墳は太田植栗地区のどこからでも見えます。昔は建築物はなく、平地はみな田畑だったでしょうから、明らかに諏訪塚古墳は周囲にその存在をアピールしています。また、吾妻郡の中でも最も大きな平場であることから、この地は豊かであり、吾妻の大王、或いはそれ相当の有力者がいたのでしょう。

ヤマト王権では前方後円墳はステータス、権力の象徴でした。ところが東国文化の中心地よりも先に古墳文化接触があった可能性がある吾妻は、前方後円墳にはステータスを見出してはいませんでした。

吾妻郡の古墳のことが解かれば、群馬県の古墳の理解、解明がぐっと進むでありましょう。


私も最近、ガイドの傍ら発掘の仕事をするようになり、その関連で東国文化や古墳について造詣を深めなくてはならない状況にあります。しかし、高崎市藤岡市太田市など、自分の範疇以外のエリアのことで盛り上がられてもいまいちピンと来ないのが実感でした。この講座で自分の故郷である吾妻にもこんなにたくさんの古墳があることを知り、古墳文化がとても身近に感じられるようになりました。古墳鑑賞ツアーを設定するのはまだ早いですが、山里のハイキングや桜の鑑賞に付け加える形でも、地域の案内として進めていきたいと思っています。


一生勉強することがある、ありがたいことです。






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