旧碓氷峠遊歩道=旧軽井沢から碓氷峠見晴台を歩いてみる。(+熊野皇大神社+碓氷川源流)



最近は軽井沢の大手ホテル様より、修学旅行/教育旅行の対応を求められることが多くなってきました。軽井沢町付近のトレッキングコースの中で、魅力的なコースである旧軽井沢碓氷峠見晴台、旧碓氷峠遊歩道(碓氷峠遊覧歩道)を今日は検証したいと思います。




  

旧軽井沢メインストリート旧軽井沢銀座)を進むと一番奥にあるのが軽井沢の老舗旅館・和風ホテル「つるや旅館」。江戸時代初期に中山道街道筋の休泊茶屋、旅籠鶴屋として開業。明治19年に旅館業に転じる。以降、大正から昭和中頃にかけて多くの作家が宿泊したそうです。
そのちょいと先には「芭蕉の句碑」が。


芭蕉句碑 芭蕉
馬をさへ ながむる 雪の あした哉 

松尾芭蕉(1644〜1694)「野ざらし紀行」(甲子吟行)中の一句。前書に「旅人をみる」とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりでない、駄馬などまでふだんとちがって面白い格好で通っていくよの意。 (藤野哲二編 「芭蕉辞典」による)
碑は、天保14年(1843年)当地の俳人、小林玉蓬によって、芭蕉翁百五十回忌に建てられたものである。
 軽井沢町


  


そしてショー記念礼拝堂。カナダ生まれの英国国教会聖公会)宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーによって創設された軽井沢最古の教会。現在の建物の原形が造られたのは1895年(明治28)で、1922年(大正11)までにほぼ現在の形に増改築された。礼拝堂の前にはショーの胸像と1903年(明治36)に村民によって寄贈された記念碑が建っている。隣接してショーハウス記念館が1986年(昭和61)に復元されている。(Wikipediaより)


その先には、






二手橋 があります。かつて軽井沢宿(かるいさわしゅく)で、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所です。


軽井沢宿(Wikipediaより)
軽井沢宿とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。

現在の長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢駅北側一帯。一般に軽井沢と呼ばれる場所とは2〜3キロ離れており、旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。

明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。


  


無料の公衆トイレがあり、道は先に続きます。







このまま車道を通って行きたくなるような、大きな樹木の並木道を進みます。




  


この車道の電柱は、何かプラスチック素材のようなもので巻かれています。そして青緑色の横線はいったい何の意味があるのでしょう?自転車は乗入禁止区域だそうです。歩道もなく交通量の多い道ですからやむを得ないのでしょう。




  


しかし、その狭い車道を歩くのもわずか5分ほど。すぐに右手に遊歩道の入り口が現れます。入口付近は自然歩道っぽいのですが、







少し歩くと高級別荘地の中を歩いているのだということが解ります。別荘地文化は軽井沢の大切な歴史です。教育旅行にも良いと思います。




  


林道だった道は、いつしか舗装になります。軽井沢別荘地らしい風景が続きます。







そして吊り橋が。このあたりから、急激に自然度が高くなります。人の生活圏と獣と神の生活圏の境界なのです。




  


まさかあの別荘地の中を歩いてきて、こんなに自然度の高いところに出るなんて思ってもみませんでした。







名もない沢。矢ヶ崎川の支流です。




  


え!フクロウ? と思ったら残念、ホオノキの葉でした。




  


さらに奥に進みます。すると、沢に水路を作ったような跡があります。歴史があるところなので、きっと人が水を利用したのでしょう。







谷あいに作られた遊歩道です。かつての中仙道なのか、新しい道なのか…




  


ジグザクに上って行きます。




  


びっしりと苔むした樹木。まだ生きています。そっと手を当てます。







落ち葉のグラディーションがきれい。




  


道路と交差するところは陸橋になっています。モミの木の大木が見事なこと!





すぐ足元に車道が見えます。







上部は根周りの土が浸食されています。痛々しいような美しいような。




  


林床が笹に覆われだすと、碓氷峠は近いです。老木にムキタケがびっしり。




  


そして石畳が現れ、その先には公園らしきものが見えます。ここが旧碓氷峠見晴台。




  


大きめのあずまやと、広い草原があります。のびのびできそうな場所ですね。






見晴台案内看板
この見晴台に立つと関東平野・上毛の三山(妙義・赤城・榛名)や、信州の山々の起伏彼方に遠く南アルプス北アルプスの風景を見ることができます。さらに妙義を背景にした碓氷と浅間山に抱かれた軽井沢高原の美しさを心ゆくまで楽しむことができます。渓谷美と高原美対比を鮮やかに描き出した自然美に感嘆せずにはいられません。朝焼けの山肌と渓谷の色調の移り変る美しさは、他には見られません。ここを訪れた外国人も皆その美しさに驚嘆し、ここ見晴台をサンセットポイントと名づけました。
見晴台は昔、城山といい戦国時代しばしばのろし陣営を設けた古跡でした。
大正7年に名古屋市の近藤友右衛門氏が、独力でこの山頂を開き、山麓に向かって遊覧歩道と各種観光施設を多額の費用を負担して完備し、この山頂と施設を軽井沢町に寄付しました。
その後、町が施設の維持、管理、整備を行っています。


もう一つの看板によると日光の連山、南アルプス連峰、遠くには関東平野もかすんで見えるそうです。






万葉集歌碑
わが国最古の歌集である万葉集に、碓氷峠の歌が二首のっています。その歌二首の歌碑は碓氷の自然石を使って昭和42年に建立され、表面には読みやすいように現代語で刻まれています。

日の暮れに うすひの山を こゆる日は せなのが袖も さやにふらしつ (巻14) よみ人知らず


ひなくもり うすひの坂を こえしだに いもが恋しく わすらえぬかも (巻20) 他田部子磐前




詩聖タゴールについて
アジアで初めてノーベル文学賞を受けた、インドの詩人ラビンドラート・タゴールが、軽井沢を訪れたのは、1916年(大正5年)の夏であった。
この詩人は、1861年文久1年)にカルカッタの地主の家に生まれ、ラビ(太陽)と名づけられた。父は大聖者と呼ばれた求道の人であり、ときどきラビをヒマラヤの峰に連れて行き、宇宙の霊に呼びかけることを教えた。
のちにラビは、古代の教育法を求めて、今日のタゴール大学の前身となった森の学校を始めた。1912年(大正2年)には、タゴールがみずから英訳した「神への献け歌」がノーベル文学賞の授賞となった。
その翌年の夏、第一次世界大戦が起こって、ヨーロッパは、互いに憎み殺し合っていた。当時インド綿花の輸入によって、日本は繊維工業の隆盛を得ていたこともあって、国賓としてタゴールを招待した。詩人は、日本人の美と調和を愛する心に感動したが他方、日本軍国主義の台頭にはつよい心配をもち、講演の中で再三警告した。
8月には、日本女子大成瀬仁蔵学長の招きで、軽井沢の三井邸に滞在し、毎朝真珠のような詩を女子大生たちに読んで聞かせ大樅の樹下に座って、祈りの講和をした。
軽井沢は噴火山のないインド亜大陸の詩人に、つきることのない詩の泉となった。
「神は名もない野の草に、何億年もかけて、一つの花を咲かせ給う」
「大地一面の微笑みを咲かせるのは、天地の涙あればこそだ」

タゴールはその後二回日本を訪れたが、最後の講演では「自己中心の文明は隣りの国民を焼きつくす武器を発明するようになる。くれくれも『人類は戦わず』を守るべきだ」と述べ、原爆を予言するような言葉も残した。
1941年(昭和16年)8月7日、広島・長崎の原爆投下やインドの独立を知ることなく、たくさんの作品を残して、その80歳の地上の生涯を閉じた。 (日本タゴール会稿)
 軽井沢町


  


昭和35年に復元された碓氷関所の東門をくぐり、熊野皇大神社の参道を横切ります。




  


ここには公衆トイレもあります。そしてその先に良いところがあるというので進んでみると、右側に看板が立っています。




  


下に見えるのが、碓氷川の水源なのだそうです。おや、こんなところに…。100m位。すぐ近くです。







これが碓氷川水源。明治11年明治天皇の北陸・東海御巡幸の際に御膳水となった名水だそうです。
そして昭和23年に泉喜太郎(軽井沢の製氷会社)が依頼・作成した尾崎行雄安政5年〜昭和29年)書の水神の碑もあります。




  


左の歌碑は相馬御風(本名昌治)氏のもの。(明治18年〜昭和25年)新潟県糸魚川市生まれだそうで、明治34年信越線で上京するときに、碓氷川水源地を訪れた時の作品だそうです。昭和23年建立。 
    
    なりなりて おのれきよかる 高山の 氷にうつる 空の色かも


そしてこの水源から水が引いてあって、




  


このわさび畑に注いでいるんです!これは普通のわさびではないでしょうね。さて、最後に熊野神社を参拝して帰ります。




  


熊野皇大神社の参道を登ります。ここの狛犬はいつみても愛嬌のある、不思議な顔をしています。







熊野皇大神社の正門はいつみても迫力があります。ここからが神域という感じがします。




  


前にブログでも書きましたが、この神社は県境に位置しているためにいつしか二つに分けられてしまい、真ん中から熊野皇大神社(長野県)と熊野神社群馬県)になっています。とても変わった神社。でもいっぺんに二つの神社にお参りできるので、それはそれでありがたいかも。お賽銭は二ヶ所分必要ですけどね。




  


熊野皇大神社の方で、新しいお守りを購入しました。名物のシナノキ巨木にあやかった「しなの木守」。今年こそは、大木の様に力強くどっしりと、ものごとを構えて余裕を持って進めていけますように。






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