遊歩道アプトの道を歩く − 碓氷峠鉄道施設群を訪問 − 熊ノ平〜めがね橋〜旧丸山変電所〜横川駅





旧軽井沢碓氷峠の旧碓氷峠遊覧歩道を下見した後、もう少し頑張れそうなので隈上さんに遊歩道アプトの道を下見しないかと持ちかけたところ、ぜひ という話になりました。車二台で動ける日もそうありません。この機会に、碓氷峠鉄道施設群、遊歩道「アプトの道」を、主に教育旅行で対応できないか調べてみました。









通称「めがね橋」として親しまれている煉瓦アーチ橋で径間(アーチ)数4、長さ91m、高さ31mでわが国最大規模の煉瓦づくりアーチ橋です。200万個以上の煉瓦を使い、わずか7ヶ月間で作られました。明治25年1893年)に完成し、アプト式鉄道を支えてきましたが、昭和38年(1963年)新線開通に伴い廃線となりました。明治27年の補強工事で支柱も太くなり、アーチ部分も以前より厚くなりました。平成5年に国の重要文化財に指定され、平成13年廃線敷を利用した遊歩道「アプトの道」として整備され、現在は橋上を歩くことができます。




  


まずは峠の釜めし「おぎのや」横川店へ。腹ごしらえに来ました。中のレストランホールが綺麗でびっくり。




  


カウンターで注文するのはもちろん、定番の「峠の釜めし」1,000円です。







その後、横川駅をぐるっと回って見るとあらま、昔からの本店を発見しました。どうせならここで食べたかったです。




  


横川駅付近に一台車を止め、もう一台で熊ノ平駐車場まで上ってきました。ここから軌道敷跡まで階段を上ります。







熊ノ平駅付近です。ここからウオーキングはスタートします。




  

熊ノ平駅
熊ノ平駅は、碓氷線が単線であったため、上り列車と下り列車のすれ違いと、蒸気機関車への給水・給炭の目的で設置されました。碓氷線は幹線鉄道でありながら、その急勾配ゆえアプト式という特殊運転方式をとらざるを得ず、動脈にできた血栓の様に隘路(あいろ)となってしまう宿命を負っていました。このため碓氷線には、常に輸送力の増大が求められ、新技術の投入によって解決が図られ、熊ノ平駅も待避線の設置や突っ込み隧道の設置などの改良を加えられました。
碓氷線は急勾配のため、隧道が煙突の役割を果たし、煤煙によって乗客や乗務員が大変な苦労を強いられました。この煤煙問題の解決と輸送力増大のため、明治45年、我が国の幹線鉄道として初めて電気機関車が導入されました。
その後、昭和38年アプト式の旧碓氷線の廃止と、同41年の碓氷新線の複線化により、熊ノ平駅は信号場に降格となり、平成9年の碓氷線の廃線とともにその使命を終えました。
熊ノ平駅周辺は、紅葉の名所としても知られ、文部省唱歌「紅葉」は作者の高野辰之がこの周辺の紅葉を詠ったと云われています。


白い建物は熊ノ平変電所跡です。







4つ並んだ隧道(トンネル)。今は全て使われていない、不思議な光景です。




  


熊ノ平神社の隣りには、殉難碑があります。かつてここでは大きな山崩れが起きてたくさんの人が亡くなっているのです。

熊ノ平駅大規模崩落事故[Wikipediaより]
1950年(昭和25年)6月は碓氷峠周辺で降雨が続き、上旬だけで軽井沢測候所で150ミリメートルもの雨量が観測された。そのような中、6月8日の午後8時半頃に熊ノ平駅構内の第10号トンネルで約3,000立方メートルの土砂が崩壊して本線・突込線が埋没した。この時点で人的被害はなかったが、含水量が多いことなどから作業が難航した上、翌6月9日午前6時6分頃にその上方で7,000立方メートルほどの崩落が発生し、作業中の人員や宿舎4棟・8戸が埋まった。

その後、手作業での救出作業が行なわれたが、6月11日午後11時半頃に3回目、6月12日午前7時24分に4回目の崩落がそれぞれ起きた。最終的にこの事故による死者は50名、重軽傷者は21名に上り、線路は延長70メートルにわたって幅60メートル、深さ2メートルの土砂が堆積した。遺体は6月22日までにすべてが回収され、信越本線は6月20日に開通、6月23日に完全復旧した。


10号トンネルを進みます。







ここは一番奥の橋梁、碓氷第6橋梁です。めがね橋は第3橋梁です。碓氷線の橋梁は、めがね橋だけじゃなかったんです。




  


トンネルを抜けるとまたトンネル。岩盤を掘削し、その岩盤を覆い被るように石垣がつくられています。全てトンネルにしたわけではなく、このように「切り通し」という技術も使っています。




  


碓氷第5橋梁です。横川方面に近づくにつれて、手すりなどの後付け設備が整ってきます。そして碓氷第6トンネルに入ります。







第6トンネルは碓氷線最長のトンネルで、約550mあります。熊ノ平からめがね橋まで約1.3kmなので、その大半がこの第6トンネルだということになります。トンネル中間には2ヶ所、複数の横坑が空いています。建設当時、工期の短縮を図るため、トンネルの出入口からだけでなく、中央からも掘り進められました。




  


長いトンネルなので、天井には排煙用の穴が空けられています。




  


歩きがいのある第6トンネルを抜けると、右側にベンチがいくつか。ここで一息入れたいところです。




  


しかし、ここがもう碓氷第3橋梁、めがね橋です。全貌を見たいなら左から下に降りる道があります。 







18年前、初めてこの橋を下から見上げた時、まさかこの上を歩いて通れるようになるとは思ってもいませんでした。建設省(現在国土交通省)が平成8年度から開始した「ウォーキング・トレイル事業」(緑豊かな景観や自然、歴史的事物、文化的な施設などが結ばれることにより、人々が快適に散策などを楽しめる地域づくりが目的)により、遊歩道「アプトの道」は整備されたのです。




  


感慨深くめがね橋の上を歩いて行きます。ここあたりからは案内看板・表示が要所に掲示されてきます。例えば、

煉瓦と山型目地
碓氷線の工事に使われた煉瓦は1600万個といわれています。めがね橋には約202万8千個(補強工事を含めると300万個弱)の煉瓦が使われました。煉瓦は横川方は、深谷、川口から、軽井沢方は主に長野方面から運ばれました。製造会社の刻印を打ってある煉瓦や(4号トンネル)、目地にも山型目地といって加工したもの(6号トンネル等 見栄えが良い)があります。
工事は何社かにより区間を仕切って工事をしたため、各工区により工夫が見られます。山型目地は車窓からは見えませんでしたが、職人の技術の高さが伺えます。


  


めがね橋ともお別れです。なるほど、注意をして観察しながら歩くと、トンネルもそれぞれ雰囲気が違っています。




  


こちらはかなり補修をされているトンネルです。




  


このあたりには碓氷線の説明看板があります。

碓氷線とは信越本線の横川−軽井沢間、11.2kmをいいます。26のトンネルと18の橋梁があり、明治25年(1950年)に約1年6ヶ月という非常に短い期間で完成しました。この区間は66.7‰(パーミル)という日本一急勾配な路線であり(1,000mで66.7m上がる)、アプト式や日本で最初の電化区間(幹線)など、また電化以前のトンネルには幕引きの隧道番と呼ばれる人がいた…などと、他の路線には見られない特徴があります。


  


振り返ってトンネルを撮ってみました。トンネル内の照明は午後6時に消灯するそうです。
中尾小屋と呼ばれる休憩所がありました。なかなかベンチがないこのコース、大切に使いたい休憩所です。




  


右手には碓氷湖が見えてきました。このあたりで、「森の雑貨屋コロポックリ」というお店の看板を見つけました。




  


土手の上にはこじんまりながらも素敵なお店です…が、中の作品を撮らせてもらえませんでした。作家さんは気が難しいというか、真似されれば困りますものね。失礼しました。




  


トンネル内にサワガニを一匹見つけました。ジイーっとしていました。このあたりで中仙道との分岐点があります。今思えば、ここから碓氷湖に出て終了するのがベストコースだったと思います。




  


まだトンネルは二つほど残っていました。足元から明かりが見えます。排水溝なのかな?結構広く見えます。




  

白秋の歌「碓氷の春」について


白秋
うすいねの 南おもてと なりにけり くだりつゝ思ふ 春のふかきを


この歌は近代日本詩人の巨匠である北原白秋が詠んだものです。
大正12年春、当時39歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して読んだと言われています。


この碑は、元松井田町長の武田弘氏が白秋自筆の色紙をもとに昭和42年に横川駅近くの国道18号沿いに建てたものです。平成13年に鉄道文化むらの開設に伴い、現在の場所に移設されました。


 松井田町


どうやら、トロッコ電車の駅に着いたようです。ここは「とうげのゆ駅」。




  


立派な公衆トイレもあります。歩き進むためには、少し戻る形で線路の下をくぐって行きます。




  


車用ではありません。人間用のトンネルです。このあたりからまた歩く風景は変わるのですが、趣きを感じられる場所が延々と無い、殺風景が続くので、かなりつまらなく感じてしまいました。





ようやく、国指定重要文化財・旧丸山変電所に到着しました。国鉄が全国で初めて造った変電所で、明治45年に建設されました。純煉瓦造りでは最古のものです。碓氷峠を通過する電気機関車の心臓部の役割を果たしていました。堂々とした姿が、鉄道の歴史を伝えています。




  


通常は内部公開はされていないはずなのですが、今日は昔の写真展を催していました。




  


おかげさまで、当時使っていた「アプト式」のラックレール(歯軌条)とピニオンギヤー(歯軌軸)を生で拝見することができ、どういうものなのかようやく理解ができました。これを噛み合わせて急勾配を走行したのです。これはスピードがでません。隘路になったのもうなずけます。


明治維新により近代国家建設の目標が掲げられ、鉄道建設は殖産興業・富国強兵の政策から不可欠の要件となりました。その中で我が国の東西を結ぶ幹線鉄道は、明治16年(1883)、中山道ルートに決定されました。東海道を走る沿岸ルートは外国艦隊からの砲艦射撃を受ける恐れがあったことや、すでにある程度交通手段が確立されていた東海道ルートよりも中山道ルートの方が経済効果も大きいことなどが考慮され(ここに、富岡製糸場碓氷峠鉄道施設が関係してくる理由がある)、あえて難工事が予想される中山道ルートが選ばれたそうです。この主要幹線にアプト式を用いたことも、世界でも稀な事であり注目に値するのです。




  


さて、旧丸山変電所を過ぎると、もう延々と見どころがない状態が続きます。途中にある案内看板は救いでした。アプト式蒸気機関車についてや、国産初の電気機関車についての記事が書いてあります。また、看板に面白い記事を発見しました。

パイプライン
碓氷峠、軽井沢、横川間の標高差552mを利用して、パイプによる自然落下により石油を送る施設です。軽井沢、横川に貯油タンクが作られ、貨車(タンク車)で長野方面から運ばれてきた石油は一時タンクに移された後、自然落下で流され、横川からタンク車に積まれ、東京方面に運ばれました。明治時代、峠を越える貨車には台数に限界があり、貨物の滞留も発生していましたが、パイプラインにより貨車が減った分、幾分解消されたようです。明治39年から大正3年まで使われました。


  


さて、鉄道文化村付近までやってきました。足元を見るとラックレールのリサイクルがこんなところに!鉄は重要な資源だったはずでは?!




  


最後に合った施設が「麻苧茶屋(あさおちゃや)」何かな?と思ったら、農産物直売所・観光案内所(売店)・御食事処の3区画で構成された物産館だそうです。


麻苧茶屋
http://www.sunfield.ne.jp/~nak-m/index.htm


近くのトイレもきれいです。




  


この中にある広々としたスペースに、夏は農産物が並ぶのですね。麻苧茶屋が営業している頃に、また来ますね!
MTBで新緑の「アプトの道」を走るなんていいかも!






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