浦野インタープリターと歩く吾妻渓谷(その1)



来年、嬬恋村の某ホテル様より吾妻渓谷ハイキングを毎日設定で実施してほしいとのご依頼をいただいております。

吾妻渓谷のうち、ハイキングロードなどが整備されているもっとも風光明媚な部分を「吾妻峡」と言い、1912年(大正元年)に地理学者である志賀重昂(しげたか)から「関東の耶馬渓」と称された景勝地で、1935年(昭和10年)12月には国の名勝に指定されています。

今日は、当協会の中でも地元・長野原町林地区出身でとてもよく学習していらっしゃる浦野インタプリタ―に吾妻渓谷ガイドのポイントをお話しいただきました。
※以下の記述は全てが浦野さんの解説ではありません。私・赤木道紘の個人的な見解を多く交えて記載していることをご承知ください。




  


まず、出発地点の川原湯温泉駅から上流方面を見ると、第1号橋が工事の真っ最中でした。数年前に建設中でストップを余儀なくされ話題になったのが第2号橋(不動大橋)で、新しい国道に先につくられたのが第3号橋(丸岩大橋)です。第1号橋はまだ別名は決まっていません。


歩きながら『八ッ場』の名前の由来についてお話し下さいました。どうも数説あるようです。

  • 岩場の方言、ヤッバが転化しヤンバになった。
  • 矢で狩猟する場、猟のための落とし穴が8つあった。8つの穴場がヤンバ。
  • 鮎を竹のすのこを用いて獲る「梁漁」の場、「梁場」があった→吾妻川草津の温泉が流れ込んでくる死の川だったので、魚は獲れなかったはず。
  • 谷場が語源だが、ヤバでは短すぎて落ち着きが悪い。そこで『ン』を使って落ち着かせる。トビ→トンビ、アネ→アンネ、樺木場→勘場木場(カンバキバ→長野原にある縄文遺跡)。


浦野さんは、谷場の説を支持していらっしゃいました。谷から八への転訛は、谷の冠の『八』を使ったのではないかとも考えています。




  


滝見橋まで来ました。元々は「新大橋」という名前だったそうで、この橋の道がメインだったそうです。昔はもちろん草津の酸性泉(pH2.0)を集めて流れてくるのでこの付近でもpH4〜5だったので、橋脚のある橋はつくれませんでした。鉄やコンクリートの橋は使えず、皆吊り橋でした。







そして現在のメイン道路はこの「八ッ場大橋」です。ダムの中に沈むのもそんなに遠い先ではありません。




  


滝見橋についてのことが看板になっています。橋の両側には親柱というものがあり、「洗い出し仕上げ」という、当時としては珍しいやり方で表面を仕上げてあるそうです。




  


「白糸の滝」の水量がかなり減っています。晩秋だからでしょうね。そして、流路口もしっかり完成しているようです。




  


滝見橋を渡ったところで拾った落ち葉は表面がつやつやしています。これはエゾエノキの葉。国蝶オオムラサキの食草で、浦野さんはオオムラサキの飼育に取り組んでいるのだそうです。葉が落ちる今時期、オオムラサキの幼虫も緑色から茶色になって、幹を下りてきます。エゾエノキの根元の葉の裏側で越冬するのです。




  


国道145号線に出ます。八ッ場ダムに関する看板があります。このあたりはダムに沈むのです。

八ツ場ダム概要
 堤高  131m
 堤頂長 336m
 ダム天端標高 EL586m
 堤体積 1,600,000㎥

貯水池
 流域面積 707.9k㎡
 湛水面積 3.04k㎥(榛名湖の約2倍)


  


小蓬莱の下、吾妻川がぐっと曲がりこんだカーブのところに、川原湯岩脈と似たようなものが見えます。




  


このあたりはダンコウバイの黄色い葉が多いところ。その他、アブラチャン、キブシも多いところです。




  


落葉が進んだので、八丁暗がり(吾妻渓谷で最も狭い渓谷)がよく見えます。12月になると寒いので、この時期の陽だまりハイキングはいいかも。公衆トイレもしっかりあります。




  


トイレ付近には休憩所があり、平成12年に休憩所を造成中に出てきた石造物が展示されています。この付近の境沢という沢に架かっていた石橋の部材ではないかと考えられているそうですが、境沢がどれかよく解りません。

昔吾妻渓谷は交通上の難所でした。江戸時代の頃から吾妻川沿いに道が開削されるようになりました。この渓谷にも道陸神(どうろくじん)峠道が岩場を切り開いて造られました。旧道は現在の道筋と違い山の中腹を通っております。今でも道かたが残っておりますが危険です。また、旧道沿いの岩場に道路開削時の協力村名が刻まれた磨崖碑があります。碑には、川原畑村・能谷(よきや)村・横壁村(現長野原町)、横谷村・松尾村(現吾妻町)の各休村名と「川…」「三…」が読みとれます。しかし他は風化欠損していて判読できません。
この旧道の開削にあたっては、たくさんの人々の苦労がありました。中でも川原畑村生まれの野口円心(1726〜1806)という僧は苦力を尽くしたそうです。
現在のように機械がなく、人力による開削はたいへん困難をきたしたと想像されます。
 平成12年10月吉日 長野原町教育委員会


他には、吾妻渓谷の見どころについて紹介している看板もあります。チェックしたいところです。


ここから、私達は旧道を下見することにしました。そちらも入れると長くなりすぎるので以下の別ページで分けて紹介します。


吾妻渓谷むかし道 道陸神峠の道
http://d.hatena.ne.jp/akagi39/20121121/1364101459




  


むかし道の下見が終わり、再び国道145号線へ。ヌルデの実が残っているのでちょいと口の中へ。私の知り合いは子供の頃、退屈しのぎによく口の中に入れたそうです。舐めてみると塩っぱさと酸っぱみがあります。ヌルヌルするからヌルデという覚え方もあるそうです。ちょっと今、ヌルデには興味があるのでヌルデ情報を以下に(Wikipediaより)↓

ヌルデ(白膠木、学名:Rhus javanica)はウルシ科ヌルデ属の落葉高木。別名フシノキ、カチノキ(カツノキ)。
ヌルデの名は、かつて幹を傷つけて白い汁を採り塗料として使ったことに由来するとされる。フシノキは後述する生薬の付子がとれる木の意である。カチノキ(勝の木)は聖徳太子蘇我馬子物部守屋の戦いに際し、ヌルデの木で仏像を作り馬子の戦勝を祈願したとの伝承から。ウルシほどではないが、まれにかぶれる人もいる。


特徴
雌雄異株。樹高は5-6mほどの小高木であるが10m以上の大木になる事もある。葉は秋に紅葉し野山を彩る。新芽も赤く染まる。
若い枝は紫褐色で楕円の皮目ができる。年ごと樹皮に縦の割れ目が入りやがて全体が灰白色になる。
葉は9-13枚の小葉からなる奇数羽状複葉で葉軸には翼がある。小葉は5-12cmの長楕円形で周囲は鋸状がある。小葉の裏面全体に毛が密生している。表には主葉脈上に毛がある。ヌルデの葉にはヌルデシロアブラムシが寄生し虫こぶ(虫嬰)を作ることがある。
花は円錐花序で7−8月に開花する。花は数mm程度で5つの花弁がある。雌花には3つに枝分かれした雌しべがある。雄花には5本の雄しべがあり、花弁は反り返っている。花序は枝の先端から上に出るが、何となく垂れ下がることが多い。果実が出来るとさらに垂れ下がる。
秋には直径5-8mmほどの扁平な球形をした果実をつける。果実の表面にあらわれる白い粉のようなものはリンゴ酸カルシウムの結晶であり、熟した果実を口に含むと塩味が感じられる。
ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳に用いられた。この実はイカルなどの鳥が好んで食べる。
木材は色が白く材質が柔らかいことから木彫の材料、木札、木箱などに利用される。

分布と生育環境
東南アジアから東アジア各地に自生する。日本では北海道から琉球列島まで、ほぼ全域で見られる。
いわゆるパイオニア樹木の代表的なもので、日本南部ではクサギアカメガシワなどとともに低木として道路脇の空き地などに真っ先に出現するものである。伐採など森林が攪乱を受けた場合にも出現する。種子は土中で長期間休眠する事が知られている。伐採などにより自身の成育に適した環境になると芽を出すという適応であり、パイオニア植物にはよく見られる性質である。


文学
 万葉集(巻一四) 足柄の 吾を可鶏山の かづの木の 吾をかつさねも かづさかずとも(詠人知らず)


  


枝先にはクスサンという大型の蛾の繭が見えます。紅葉台は、あまり見るべきものがなく少々危険ですので、わざわざ行かなくても良いと思います。

クスサン(楠蚕、Caligula japonica、チョウ目・ヤママユガ科)
成虫は開張100mm以上、褐色の大きな翅をもつ。
幼虫はクリ、クヌギ、コナラ、サクラ、ウメ、イチョウクスノキなど様々な樹木の葉を食べる。年1回の発生。卵で越冬し、幼虫は4-7月に出現する。幼虫は体長80mmにも及ぶ青白色の大型のケムシで、白色の長毛を生やしているためにシラガタロウと呼ばれる。

7月前半頃に楕円形の固い網目の繭を作って蛹になり、9月から10月にかけて羽化する。繭は糸を寄り合わせた楕円形のものだが、壁面は網目状に穴が開いているので、スカシダワラ(透かし俵)と呼ばれる。





龍ノ剣磨岩(りゅうのけんみがきいわ)付近の絶壁。目がくらみます。




  




同じあたりから後ろを振り向いてみます。両岸の隙間がとても狭いところが見えます。







ここが「鹿飛」というところで、吾妻渓谷で最も川幅が狭いところです。幅2〜3mかな?ちなみにこの後で行く「鹿飛橋」は、「鹿飛」とは少し場所が違っているのです。




  


岸壁にへばりついている植物はまるで高山植物のようです。花が咲かないと何なのか見当がつきません。


さて、若山牧水の歌碑というか看板が出てきました。


 うづまける白渦見ゆれ落ち合へる落葉の山の荒岩の蔭に
 若山牧水


この歌は若山牧水が大正7年11月(34才)の時に東京→(電車)伊香保→(電車)渋川→(電車)沼田→(馬車)水上温泉→谷川温泉→沼田→高山村→吾妻渓谷(11月19〜21日?)→六里ヶ原→軽井沢 というルートを通った時に詠んだ歌だそうですが、この時、他にもいくつかの歌を詠んでいるようです。



 岩山のせまりきたりて落ち合へる峡の底ひを水たぎち流る

 青々と渓ほそまりて岩かげにかくれゆく処落葉木は立つ

 見るかぎり岩ばかりなる冬山の峡間に青み渓湛へたり

 せまりあふ岩のほさきの触れむとし相触れがたし青き淵のうへに

 夕さむき日ざしとなりてかげりたる岩かげの渓の藍は深けれ

 寒々と岩のはざまに藍ふかくながるる渓は音もこそせね

 岩蔭ゆ吹きあげられて渓あひの寒き夕日にまふ落葉見ゆ

 岩かどをまはれば渓はかくろいて岩にまひたつ落葉乾反葉

 幾すぢの糸のかかりて音にひびくかそけき滝に立ち向ふかも

 おのが身のさびしきことの思はれて滝あふぎつつ去りがたきかも

 そそり立つ岩山崖の岩松に落葉散りつもり小雀あそべり

 岩のあひに生ふる山の木大けきが立ちならびゐて葉を落としたり

 岩山の岩のなぞへに散りしける落葉真新し昨日かも散れる

 岩山にあらはに立てるとがり岩のとがれるあたり落葉あざやか

 峰に襞に立ちはだかれる岩山の山の老樹はことごとく落葉

 岩山に生ふる山の木おほかたはふとく短くて枝張り渡す

 岩山の岩をこごしみひと伐らず生ふる大木は枝垂らしたり

 何の木か古蔓なし垂りさがり落葉して居るその岩端に

 とある木は大き臼なし八方に枝はりひろげ落葉して居る

 落葉して寒けきひと木なかば朽ち真洞なせるが枝垂らしたり

 ものいふとわれにかも向ふ岩山の落葉せる木木われのめぐりに


さらに、大正9年5月10日(36才)にも吾妻渓谷を訪問していたようです。

上野駅高崎駅渋川駅=(馬車鉄道)中之条駅…同行者と別れ独り旅…徒歩20km…川原湯温泉(10泊)…草津温泉渋峠…渋湯田中温泉木曽路


「10泊の目的は、3年間分の短歌をまとめて、1冊の歌集にするのだ。・・・若葉・ヤマツツジ・山藤・ヤマブキなどが咲いている。吾妻渓谷はさらに美しかった。」 …そうです。



 朝づく日峰をはなれつわが歩む渓間のあを葉透き輝けり

 朝づく日さしこもりたる渓の瀬のうづまく見つつこころ静けき 

 静かなる道をあゆむとうしろ手をくみつつおもふ父が癖なり

 飛沫よりさらに身かろくとびかひて鶺鴒はあそぶ朝の渓間に

 渓あひにさしこもりたる朝の日の蒼みかがやき藤の花咲けり

 荒き瀬のうへに垂りつつ風になびく山藤の花房長からず



せっかくなので、川原湯温泉 やまた旅館様(http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamata/index.html)に載っていた吾妻渓谷を訪問した文人歌人の歌を紹介します。



若山喜志子

 亡き人が臨終のきわの夢にみえし渓の流れはここにかありけん


吉野秀雄

 谿ふかく散りこむもみぢ魚棲まぬ吾妻川に揉まれゆくべし

 茶碗にて汲める温泉の熱ければ懸け樋の清水割て飲みたり

 渓の湯の湧きいづるほとり芭蕉句碑も巡礼塔も露ぞさむけき

 かぎりなき数の蜻蛉のきらめきし谷の没日も薄れゆきけり

 川原湯の宿の灯虫も減りへりて今宵繭蛾二匹がすがる

 吾妻の峡来む汽車を朝霧に濡れつつ待てり川原湯の駅


土屋文明

 燕の峠に見下ろす谷の道雲より遙かなりふるさとの方は


斉藤茂吉

 窓のそとは直ぐ深谿におちいりてあがつま川の間なき音


与謝野晶子

 深山の湯たまれるきりのここちしてくもれるをあび秋風をきく

 吾妻の八ッ場の橋に見るときは水も音ある雲とこそおもえ


与謝野寛

 川原湯の社のすだれふりたれど入て拝めば肩ふれてなる


折口信夫

 やはらかに眠りもよほすこよひかも谷のまがりの音ふけにけり


金子兜太

 三日月がめそめといる米の飯

 はらわたをみな揺すぶって夜の町ゆ




  


吾妻峡の看板がある上あたりが道陸神峠砦です。松谷トンネルから先、東吾妻町方面には私たちは進みませんでした。正面左手に見えるのが屏風岩です。もし何なら日本一短いトンネル「樽沢トンネル」(全長約7.2m)の様子を見に行ってもいいかもしれません。




  


しかし今日はここで折り返すルートをとります。吾妻川に降りていくと、対岸に架かる橋が「鹿飛橋」です。




  


吾妻川上流を見ると、数メートル上の方に倒木が一本引っかかっています。インターネット上で過去の画像を検索しても、2011年11月4日までの投稿写真では倒木がありません。この一年で引っかかったようです。そんなに増水したことあったかな?
http://north-wind-boy.blog.so-net.ne.jp/archive/20111104





こちらは下流方面の写真です。布袋岩というのがあるそうですが、写真の中にある岸壁の一部がそう見えないこともないですし、この上部にある岩山というか岩塊を布袋に見立てている説もあるそうです。

【参考】弥勒寺(みろくじ、兵庫県姫路市)、日本一の布袋さん
http://kobe.travel.coocan.jp/himeji/mirokuji.htm




  


遊歩道は上流にもどるのですが、下流のほうにも案内看板があり、道かたがあります。「姥小平」というところに行けるようですが、国交省関係が発行している散策マップからはルートが外されてしまっているので心配です。…歩道の整備も上流方面に比べて甘いので、春になったら調査してみたいと思います。







このあたりの遊歩道は緩やかで見通しがよく、大木も点在しているので癒し度高いです。




  


チドリノキはカエデ科カエデ屬だったはずですが、1990年代に登場した新しい分類体系(APG植物分類体系:ミクロなゲノム解析から実証的な分類体系)ではムクロジ科に含められています。カバノキ科のサワシバやクマシデの葉に似ています。




  


毒水沢…のはず。その先には吾妻川沿いに広い場所があって、下草もなく、ゴザでも敷いて昼寝したくなるような場所があります。春、暖かくなたら寝に来ようっと。





そして巨木が大好きな私には嬉しい一本。ミズメの巨木です(アサダという意見がある。要確認)。ミズメはごくたまに巨木に会うことがありますが、昔はもっとあったのでしょうか?材としてもスラッとしているし使えたのかもしれませんね。…当たっていました。漆器の中でも最高級品だそうです。


水目桜(ミズメ)ヨグソミネバリ カバノキ科カバノキ属
http://www.seomokuzai.co.jp/category/1312596.html




  


このミズメと同じ皮目の木、また後で出てきます。そして、今までヤママユガ科の「ウスタビガ(薄手火蛾)」の繭として見立てていたものは、「ヤママユ(山繭)」或いは「テンサン(天蚕)」の繭だったのです。確かに形が違います。古いので色ボケし形も崩れたものとばかり思っていました。







膝よりも高く積もった、ふかふかの落ち葉。すごく気持ち良いです。







見晴台から渓谷を眺めます。浦野さんによると、足元に転がっている丸い石は、ここがかつて川底だったことの証だそうです。なるほど、ここに石を運ぶ理由がありません。




  


この見晴台がある岩塊を「小蓬莱」と言い、対岸やや下流側にある岩塊を「大蓬莱」と言います。もしかしたら、元々はここに巨大蓬莱があり、度重なる地殻変動吾妻川の浸食作用で二つに分断されたとも考えられます。そういう風に古代に思いを馳せると、地質を見るのが楽しくなってきます。また、とある方から、以下のような考え方もあると聞きました。

吾妻渓谷の地質的な成因と歴史
1000万年以上前、碓氷火山列〔碓氷峠から北へ連なる山々=(鼻曲・浅間隠・菅峰・王城山・高間山・松岩等の山々)〕の火山活動が活発化し、海底だった群馬(川原畑層、当時の海底に流出した枕状溶岩)が陸地化しました。700万年〜500万年前、安山岩の溶岩や火山噴出物が固まった凝灰角礫岩等からなる『八ッ場層』と碓氷火山列の火山岩層が急激に隆起し、地層中に断層や割れ目が生じました。割れ目に沿って吾妻川が流れ、侵食作用と土地の隆起により地下深く潜んでいた安山岩石英閃緑ひん岩の岩脈や貫入溶岩が露出(吾妻渓谷:竜頭岩、竜尾岩や、久森:臥龍岩、昇龍岩=1000万年前の川原畑層、当時の海成層の川原畑層の中に貫入してできた枕状溶岩など)。
千歳新橋の上から見える川底の石=緑色の石(緑色凝灰岩:グリーンタフ)は、『八ッ場層』が熱変成を受けて、緑色に変化したもの。


流路口もよく見えています。もう、ずいぶん風景は変わっているのです。1783年浅間山大噴火の際には、この小蓬莱でダムができ、仙人窟まで水が来たそうです。




  


すれ違いの観光客にご説明したり、長い階段を下ったり。




  


樹木の根がすごい場所、出島になった先にもう一本ミズメの木があります。







そして、遊歩道沿いでイヌブナの大木に触れるのもこのコースならではのもの。他には、フジキとユクノキが吾妻渓谷を代表する樹木なのだそうです。




  

ヌルデの五倍子(ごばいし)について(Wikipediaより)
葉にヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensis が寄生すると大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっている。この虫癭はタンニンが豊富に含まれており皮なめしに用いられたり黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつふしいろ)とよばれる伝統的な色をつくりだす。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性、および18歳以上の未婚女性の習慣であったお歯黒にも用いられた。

また生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ腫れ物、歯痛などにもちいられた。但し、猛毒のあるトリカブトの根も付子であるので、混同しないよう注意を要する。(トリカブトの方は「ぶし」または「ぶす」と読む。「付子」よりも「附子」の字を当てるのが多い。)


ヤンバタケルっていうキャラクターがいました。そういえば、川原湯温泉の王湯の紋章はササリンドウで、源頼朝と同じです。1193年に源頼朝が狩をしている最中に温泉を見つけた伝説から来ているのだそうです。




  


さて、さんざん自然観察をしてお昼をまわりました。車で移動し、『そば処やんば』で麦とろ定食をいただきます。美味ーい。




  


浦野さんの生家は林地区、このあたりだそうなので、訪ねさせていただきました。なんと立派なオオムラサキの飼育ハウスでしょう。ご家族からは呆れられているそうです(笑)。




  


浦野さんは、写真右の堂巌山の東から登る朝日を拝し、写真左の丸岩方向に沈む夕日を見て育ちました。「丸岩は登る山ではなく、見る山ですよ。山頂からは景色が見えないからね。でも八ッ場周辺を鳥瞰できる金華山からの景色も素晴らしいですよ、是非登って見ると良いと思います。」と仰る話を聞きながら、この渓谷に慈しまれながらのびのびと育った浦野さんに、今日ガイドしてもらえたのは本当に幸せだったなあと思いました。







かつて建設中でストップし日本中のメディアが取り上げて注目された湖面2号橋(不動大橋)から吾妻渓谷を覗きました。なんとも美しい渓谷です。そしてこの谷あいに集落をつくり人の営みを創出した先人にも頭が下がります。




  


数年前はあの「やんば館」に観光バスが押し寄せ、観光客は建設中のこの橋を見上げていました。そのためのツアーなども出現し、地元の人々の複雑な思いも配慮せずに金儲けに走る下品な観光業というか俗世の価値観にガッカリした思い出があります。そういうことも、私が既存の観光業で出世していくのを拒絶した要素でありました。


おや、正面に岩脈が見えます。浦野さんが教えてくれた貫入岩の不動岩かな?






不動大橋から上流方面の景色です。私たちは丸岩の上から降り注ぐ柔らかい午後の日差しを浴びて、今日の下見観察会を終了しました。浦野さん、本当にありがとうございました。






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