浅間園自然遊歩道 スノーシューガイド下見。外国人向けのシナリオを考えてみる。



1月11日(土)には、東南アジアの方々24名様を浅間園自然遊歩道でスノーシュー体験をご案内させていただきます。群馬県内で浅間山に関するガイド内容ができる、2時間位のスノーシュ―コース…ということで、小浅間山と浅間牧場が候補にあがりましたが、浅間園長野原町のご協力も得られ、浅間園自然歩道に決まりました。今日はざっと下見して来ました。



  


午前8時を少しまわったところで、長野原町の方が見えて通行止めのバリケードを外してくれました。冬期はまず浅間園自体は閉鎖していますが、メンテナンス工事があったり、残務の処理等で出勤されているようです。しかし、土日はバリケードは外さないそうです。なぜかというと、開けておいてしまうと観光バスが入ってきたりマイカーの観光客がガンガン入ってきてしまうので、閉鎖中なのに困るからです。スノーシューも、実はあまりやられてしまうと自然遊歩道の雪が4月のOPEN時に解けなくて困るのだそうです。


そうなると、あたりまえの話ですが、スノーシューはあまり歓迎していない訳ですね。大声では仰ってはいませんでしたが…。今回は、群馬県の宣伝趣旨に賛同して協力してくれたみたいです。


私は、これを機に浅間園自然遊歩道でのスノーシューツアーを常設コースにするつもりなのですが、地域がそれを敬遠したがっているとなると困りました。夏であればお土産を買う、浅間火山博物館に入場する、レストランで昼食してもらうなど、施設での消費を推進することでいい関係を築くようにしているのですが、冬は営業していないので斡旋することもできない訳です。うーん、どうしよう、おススメでは無いコースで設定するっていうのもおかしいし…


とにかく、当日はここでスノーシュー合わせと準備体操をして出発です。今、嬬恋村役場総合政策課が嬬恋村ジオパークを進めているので、せっかくですから「浅間鬼押出し溶岩流ジオツアー」的に行ってみましょうか。



  


まずは浅間山に向かって歩こうかな。ここで、まず10万年間の浅間火山形成史をお話ししてもいいですね。黒斑火山〜塚原土石なだれ〜仏岩火山〜平原火砕流〜前掛山〜天明の大噴火〜鬼押出し溶岩流〜釜山のストーリーを…。

釈迦が寝ているような姿に見えませんか?「寝釈迦」と呼ばれています。


そして、この広い場所、かつてのスキーゲレンデで噴火実験をします。通常はコーラ噴火をやる所ですが、真っ白な雪原がコーラ色に汚れてしまってはいけません。みんなの広場ですしね。今回は三ツ矢サイダーに弾けてもらおうかな、と。



  


林縁では、おなじみの動物達の足跡が。左は恐らくテン。右側はノウサギが止まっているところ。この形の足跡はあまりありません。



  


  


ああ、アカマツがありますね。お正月ですし、海外のお客さまですし、日本人と松の関係の話でもしましょうか。


■松と日本の文化

松(マツ)の呼び名の由来にはさまざまな説がありますが、今回は民俗学的に紹介するために「神様が降りてくるのを待つ(マツ)木」の説を全面に出します。能舞台の背景では松は必ず描かれ、歌舞伎においてもたびたび松の背景が使われています(松羽目物:まつばめもの)。「白砂青松」は日本の美しい海辺の風景を表す言葉で、静岡市の三保半島にある三保の松原(みほのまつばら)は、その美しさから日本新三景、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されています。また、ユネスコ世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されました。真っ直ぐな杉とは違った幹と枝ぶりからなる思慮深い樹形は、宇宙自然の揺らぎそのものを体現しており、日本人のわびさびの美意識にも通じるものです。

このように、松は日本の文化を象徴する樹木ともなっています。


■門松と神様

「門松(かどまつ)」とは、正月に家の門の前などに立てられる一対になった松と竹を使った正月飾りのことで、場合により簡易的な「松飾り」で済まされる場合もあります。松は神様(年神)が降臨する木であり、年末に門松を立てて家や店に神様を招き、正月期間ゆっくり過ごしていただいて、その家や家族、商売に福をもらたしていただこうとしています。門松を立てて置く期間を「松の内」とも言います。松は「祭る/祀る(まつる)」に繋がる樹木であり、冬も緑の葉を茂らせる常緑樹であることから、若さ・不老長寿の象徴とされ、竹、梅と合わせて「松竹梅」としておめでたい樹とされます。竹も常緑で神宿る木とされていて、中でも同類の笹は神の依り代として一番神がのりうつりやすく、悪魔を追い払う力を持っているとして、古代から巫女も使ってきました。地鎮祭、盆棚、土俵、七夕など、さまざなま神事で使われています。


■年神様が天に帰る「どんどん焼き

  

1月15日付近を小正月といい、農山村では豊作祈願などに関する年中行事が盛んに行われます。刈り跡の残る田などに長い竹を数本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物や昨年のお札などを持ち寄って焼く行事を「どんどん焼き」と言います(地域によっては左義長、道陸神祭りともいう)。

新年に訪れた年神様は、その煙に乗って天上に帰っていくとされ、その時の炎で焼いた餅や繭玉を食べると無病息災、書き初めを燃やすと字が上手になるなど、様々な言い伝えがあります。

また、秋田の「なまはげ」や「かまくら」など、地方色豊かな行事も行われています。



  


この付近は、火口から流れてきた鬼押出し溶岩流のギリギリ外側にあたるところで、陰樹(少ない陽光でも育つことができる樹種)であるモミの木が見られます。鬼押出し溶岩流の中に入ると、先ほどの切り開かれたスキー場ゲレンデにあったアカマツのような陽樹(撹乱後の強い陽光が当たる場所で先立って育つ樹種)で占められます。モミの葉の匂いは精神をリラックス・安定させ、登山やハイキングの疲れを癒してくれます。北海道モミの精油エッセンシャルオイル)は現在大変人気で流通・取引されています。

フィンランドの門松?

(出典)全国森林インストラクター会 ◆お正月から松と日本人の関係を考える (2008年1月)
http://www.shinrin-instructor.org/news/0801.htm

ところで、門松のような習慣はフィンランドのクリスマスに見られるそうです。 フィンランドでは人々はクリスマスにモミの枝を飾り、松の内と同様、クリスマスが正式に終わる1月6日の公現祭まで飾ったままにしておきます。また、クリスマスまでに家の掃除を済ませ(=年末の大掃除)、クリスマスカードを出し(=年賀状)、伝統的料理を食べ、家族と一緒に楽しむ、といった具合です。 日本の正月と似ていますね。 人間と木との係わり方の国を超えた共通点が見られる一例として面白いと思います。

  


浅間園自然遊歩道入口に来ました。近くに、ヤドリギがたくさん付いた樹木があります。ヤドリギは半寄生の木本で、他の樹木の枝の上に生育します。果実の内部は強い粘りがあり、種子はそれに包まれているため、鳥の腸をたやすく通り抜け、長く粘液質の糸を引いて樹上に落ちます。その状態でぶら下がっているものを見ることもあります。樹皮上に落ちたものは雨風でも剥がれ落ちにくく、そこで発芽して樹皮に向けて根を下ろし、寄生がはじまります。キレンジャクヒレンジャクなどの野鳥がよく集まり食していることで知られますが、私はキジが食べているのを見たことがあります。


西洋ではクリスマスの時期になると、市場でヤドリギが売られます。クリスマスリースの材料に使われたり、クリスマスツリーの代わりにも使われるそうです。ヤドリギは落葉樹に半寄生しますが、宿主の木が冬に葉を落とし枯れたようになっても、ヤドリギの葉は青々としている様子から生命力の象徴とされています。また、クリスマスでの風習の1つとして、ヤドリギの木、もしくはヤドリギの飾りの下で出会った男女はキスしなければいけないことになっています。(*´∀`*)



  


浅間園自然遊歩道の入口には、亀甲割れ目を表面にもつ溶岩があります。火山学者の早川由紀夫氏は、これを顕著な水冷構造であると説きます。確かに、塊状溶岩に見られる通常のクリンカーとは見た目が違っています。この園内にある溶岩は、よく観察すると一説では包括できない形状のものがいくつもあり、科学者たちはそれぞれ異なった見解をしています。そういう、さまざまな見解を聞けるのも火山学習ツアーの面白みです。





ここから見る浅間山は綺麗ですね。この後、溶岩流の中を歩くと見にくくなりますから、ここで少し鑑賞しましょう。浅間山は、噴煙が上がっている左の方のことだけをいうのではありません。右の方には古い浅間火山である黒斑山の一部が残っています。この黒斑山は大きな成層火山で、最も高かったときは2,800mを越えたと考えられています。約2万4千年前に山体が大きく崩壊し、大量の岩屑なだれとなって山麓に押し寄せ、その堆積物の高さは前橋市あたりでも十数メートルもあります。その後、活動が激しい時代が続きます。1万3千年前位には浅間火山史上最大の噴火が起こり、約8km3のマグマが噴出しました。この時の火砕流嬬恋村麓の吾妻川付近で100m近い高さに積もっています。この、激しい噴火活動をしていた時期の火山を仏岩火山と呼んでいますが、その時代の山体はほとんど残っていません。

…1991年、20世紀最大の噴火がフィリピンのピナツボ山でありましたが、この時の噴火の噴出物(火砕物・火砕流の堆積物)の総量は約10km3であり、噴火前に1,745mあった標高は、噴火後に1,486mまで低くなりました。激しく噴出物を出し続けるプリニー式噴火では、山は造られ高くなっていくのではなく自らの山体を壊しながら噴火をします。

アメリカ合衆国イエローストーン国立公園には、約9,000km3の超巨大なマグマ溜まりが存在しており、これが激しく噴火したとなると人類存続の危機になることが予測されています。


話を戻して、仏岩火山の後、8,500年前くらいから、今現在の浅間山らしい形を造っている前掛山が成長してきます。ここしばらくは600年位ごとに大規模噴火をしていて、山体を成長させています。つまり前掛山のマグマだまりは、600年位で満杯になり、耐え切れなくなって噴火すると考えられます。西暦1783年には最後の大規模噴火があり(マグマ噴出量は0.51km3)、火口付近からこのような鬼押出し溶岩を北側に流出させました。その際、前掛山火口の中に新たな火砕丘と火口ができ、それを釜山と呼んでいます。浅間山には、黒斑山、前掛山、釜山の3つの火口壁があります。


釜山火口の真ん中には、「寝釈迦」のデベソに見える大きな岩があります。あれは「千トン岩」といって1950年9月23日噴火の時に火口から飛んできた火山弾です。大型バスよりも大きくて、本当は三千トン位はあります。釜山の右肩には2004年9月23日の爆発で乗っかった「百トン岩」があります。となると、今年の9月23日には、どんな岩が飛び出すのでしょうか!楽しみですね。





低い方、北側を眺めると、なだらかな嬬恋平野が広がっており、その向こうには人気の四阿山草津白根山が座しています。嬬恋村の地形を見ると、こういった2,000m級の山々がどっかりと肩を並べ、スクラムを組むようにして村を禍いから護っているかのようです。このなだらかな地形は浅間火山が今の山容になるまでの間、大規模な火砕流を程良いタイミングで流出させたからともいえます。大規模なキャベツ畑を作るのにはちょうど良い高原地形となりました。また、右側の方には20万年前までの5万年〜10万年間、湖があったとされています。ただし、広義の浅間山・黒斑火山が噴火を始めたのは10万年前のことですから、この旧嬬恋湖に浅間山が湖映していたことはなかっただろうと言われています。



  


オオカメノキの冬芽が可愛いですね。冬芽には鱗(芽鱗)があるタイプと、無いタイプ(裸芽)があります。裸芽のタイプも、やはり浅間山麓のような寒冷地では、よく見ると細かい毛で覆われていますね。生き物ですから動物と同じような方法で寒さと乾燥から防御しているのですね。


数億年も昔、地球は裸子植物(針葉樹)の天下でした。空気中の二酸化炭素濃度は現在の10倍もあったらしく、樹木は今よりも早く大きく育ち、陸地は針葉樹の巨木で覆われていました。その巨大な植物体を食らいつくすために恐竜は大きくなったと言えます。しかし、2億年位前のある時、赤道付近で花をつける植物、被子植物(広葉樹)が生まれました。美しい花の中に栄養のある花粉や蜜をつくり、昆虫や鳥を呼び寄せ受粉してもらい、実は動物たちの空腹を満たし、あちこちに撒き散らしてくれます。様々な生き物たちに協力してもらいながら広葉樹は爆発的に進化し勢力を広げ、針葉樹を僻地へと追いやって行きました。ガレ地のマツ、高地のモミなどのように。赤道付近、熱帯雨林気候で生まれた被子植物は初め、冬芽を持っていませんでした。しかし、高緯度へと進出するにしたがって乾燥した気候、まずはサバンナ気候と出会いました。ここでは雨季と乾季があり、乾季に葉をつけていると植物は蒸散作用をし続けるために枯れてしまいます。ここで、葉を落とし芽を頑丈な状態にして休眠させる「休眠芽」をつくり、乾季をやり過ごす方法を身につけました。この休眠芽の仕組みはそのまま維持され、冬の寒さと乾燥が激しい冷温帯〜亜高山帯気候帯では「冬芽」となって、大変役立つことになったのです。



  


さて、この日陰の一帯には、シャクナゲがびっしりと生えていますね。浅間山の北側、日の当たりにくい岩場、養分の少ないようなところには、このようにシャクナゲが群落をなしています。広葉樹に僻地に追いやられて、僻地での耐性を高めた針葉樹でしたが、その僻地に対応できるようにさらに進化した広葉樹もありました。シャクナゲはその一つです。このような、貧栄養で日光もあまり射さないような厳しい場所で優先となるためには、春が来て葉の凍みが解けたらいち早く光合成が行えるように、葉を落とさない仕組みが必要だったのでしょう。シャクナゲは古い葉を縮ませ丸めて耐凍性を高め、冬を越します。それでいて新らしい花芽・花芽はしっかりと芽鱗に包まれた冬芽でガード。日光が少ない所なので葉の寿命も長いということも考えられます。いずれにせよ「譲り葉」型の落葉で、新しい葉が開いてから、古い葉が落ちる仕組みです。



  


鬼押出し溶岩流の岩の隙間には、天然記念物のヒカリゴケが生育しています。ヒカリゴケといっても自力で光っているのではなく、光を反射する仕組みを持っているからです。しかし、この時期は光っていません。光るのは若い個体で、原糸体(胞子から発芽した後の糸状の状態)に透明なレンズ状細胞があり、その奥にある葉緑体に反射するからです。ということは、春に原糸体になった個体はもうある程度の大きさになったためにレンズ状細胞は必要なくなったのか、或いは冬期は乾燥するためにレンズ状細胞は干からびてしまっているのか…?
レンズ状細胞にある葉緑体は多量で、暗所に入ってくる僅かな光を捉えることができます。そしてその反射光は金緑色(エメラルド色)になります。





1783年浅間山大噴火で発生した鬼押出し溶岩流は非常に謎が多く、科学者によってさまざまな見解をなされています。まず、発生そのものも、

  1. 釜山火砕丘の北側に堆積した大量の火砕物が溶結し再流動を始め、溶岩流となって流化した。火砕性溶岩である。
  2. 釜山火砕丘はスコリア丘であり、そのスコリア丘を破って鬼押出し溶岩は北側に溢れだした。

などが代表的な説です。そして、1783年浅間山大噴火では他の火山では類を見ない事件が発生しました。なんと、流れ下っている溶岩流が突然大爆発を起こし、無数の大小の溶岩塊は地面を掘り起こしながら麓の村に巨大な土石なだれとなって押し寄せ、鎌原村を壊滅させた後、吾妻川になだれ込み利根川を下り、下流の村々に被害を与えました。噴火の規模としてはそう大きくなかったにもかかわらず、合計1,500人以上の死者を出す大災害となってしまったのです。


この、鎌原土石なだれがどうして起こったのか、これもいくつかの説があります。

  1. 火口の火道の壁に付着していた半固結状態の溶岩が、大噴火の際に引きちぎられて大岩塊となって火口から噴き上げられ、浅間山北斜面に落下し、付近の土石を巻き込み、高速で流れ下った。
  2. 鬼押出し溶岩が流下後、山頂付近で爆発的な斜め噴火が発生し、巨大な溶結火砕岩が放物線を描いて放出、着地した場所で二次爆発を起こし土石なだれが発生した。
  3. 昔の浅間山の絵図には柳井沼という大きな沼が書かれている。この沼は1108年の火砕流でおおよそ埋め立てられたものの、実際には地底湖のような形で残っていた。その上に1783年に1,000度に近い溶岩が蓋をしたものだから大変。激しい水蒸気爆発が起こり、鎌原土石流れは発生した。


どれもこれも興味深いストーリーです。火山学者さんたちはロマンチストですね。



  


いろんな色や形の溶岩がありますが、鬼押出し溶岩そのものは場所によっては100m近い厚さがあり、あんこのように密になっています。溶岩の熱い液体部分が表面の冷えて固まった部分を破壊しながら流れるために溶岩の表面は破砕しガサガサになります。これをクリンカーといいますが、鬼押出し溶岩流は、それでは説明できないような複雑な形状の岩塊で覆われています。巨大なスコリア(気泡を含む軽い火山岩、普通は暗〜黒色のものをいう)の塊を運んできたり、軽石などの火砕物が再溶結中のまま流下したものもあることでしょう。赤い色は激しく酸化したことを表していますが、火口近くにいた滞在時間が長かった、気泡がたくさん入ってよく酸化した、表面だった、あるいは深部でゆっくり酸化したために赤みが増した…など、いろんなことがあった訳です。火山噴火の際には、いろんなことが起こっています。一つの理論で一括で賄うことはできないのです。





今日の折り返し地点、見晴台です。浅間山がよく見えますね。縄文時代(1万6500年前〜3000年前)、浅間山はたびたび噴火する火山であり、縄文人は、熱い、温かい、赤いなど「火」の意味を持つ「ア」の言葉を用い、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」の意味がある「アサマ」という名前を山につけました。富士山も当時は活発に噴火しており、同様に「アサマ」と呼ばれていました。名前に「ア」がつく山はこの頃、曙の日本の頃に噴火していた山が多いのです。(※姶良(アイラ:桜島)、阿蘇山など。)





おや、下に見えるのはテンの足跡ですね。鬼押出し溶岩流のみならず、このような溶岩地帯は体の細長いイタチ科の動物には絶好の住処になります。岩の隙間に逃げ込んだネズミだって彼らなら、捕まえることができるかもしれません。この足あとは、道を間違えて先に進めず、戻ったのでしょうか、それとも、雄大な景色を眺めるためにここに立ってみたのでしょうか?


※自然遊歩道を折り返す



  


おや、岩の間の雪が解けて、穴が開いています。手を近づけてみると、わずかに温かい風が出ていることを感じました。風穴(ふうけつ)です。近くの大岩が日光で温められて温風が流れているのか、地下の浅間山マグマに通じているのか?! また、鬼押出し溶岩流の風穴には万年氷があるところがあり(赤木は見たことがある)、冷蔵庫の無い時代に皇室がお見えになった時には、その風穴で飲み物を冷やしてお出ししたそうです。





そういえば、こんなお話もありました。1783年噴火の際、鬼押出し溶岩流が止まった場所のすぐ下から、温泉がわき出したのです。確かに1,000℃の溶岩が山の斜面を大きく塞いでいるのですから、地下水はなかなか地上に出られず、出た時には温まって温泉になっています。当時は鎌原村が壊滅状態になった上に、他の集落も噴火に起因する火山灰の降灰や冷害による作物の不作(天明の大飢餓)が発生し、多くの人々が食うに困っておりました。大笹の庄屋であり名士であった黒岩長左衛門は村人の飢え人救済のためにこの温泉を湧出地点から6km下にある大笹宿に引き、温泉施設を建てる大工事に取り組みました。「大笹の湯」が誕生したのです。


開業された「大笹の湯」は、その後、湯の温度が次第に低下し、開業から21年後の1806年頃廃止されたそうです。100m近い厚さの溶岩が冷えるのにはその位の時間がかかるということが解ります。


その後、普通の湧き水になった「大笹の湯」は、大笹村に所有権があるものの、より近い村である鎌原村に貸したそうです。ただし、再び温泉に戻るようなことがあれば、大笹村に返すという条件で。そしてもう一つ面白いことは、この水は現在「鎌原用水」と呼ばれていますが、「鎌原用水」にはフッ素が含まれていて、この水を日常で飲み料理にも使い食している鎌原村の子どもたちは明らかに虫歯が少ないのだそうです。そして、鬼押出し園の園内の水も「鎌原用水」の近くの湧き水を使っていますが、これにもフッ素が含まれています。(※ただし、フッ素は大量に摂取すると中毒を起こします。)





天明の大飢饉[1782年(天明2年)〜1788年(天明8年)の]話が出たところで、一つ寄り道を。その昔は、1783年浅間山大噴火の影響によるものだけだと考えられていましたが、実は地球全体に影響を与えていた別の火山の噴火がありました。同年にあったアイスランドラキ火山の大噴火です。1783年6月8日、地下水がマグマに触れて水蒸気爆発が発生し、長さ26kmにわたり130もの火口が誕生しました。線状噴火→プリニー式噴火→ストロンボリ式噴火ハワイ式噴火へと変容しましたが、約15 km3の玄武岩溶岩と0.91km3のテフラ(火山灰など)を発生させ、溶岩噴泉は高さ800〜1,400mに達したと推定されています。溶岩の噴出は5か月で終わりましたが、噴火自体は断続的に1784年2月7日まで続きました。噴煙は噴火対流によって高度15kmにまで達し、この粒子の影響で北半球全体の気温が下がりました。この噴火は火山爆発指数 (VEI) で8段階(8が最大規模)中の6と評価されています。(1783年浅間山噴火はVEI=4)

ラキ火山近郊のグリムスヴォトン火山でもまた1783年から1785年の間に噴火が起きています。双方の噴火により、800万トンのフッ化水素ガスと1億2000万トンの二酸化硫黄ガスが噴出し、アイスランドでは羊の80%、50%以上の牛と馬が死に、住民の21%の命を奪った飢饉が発生しました。


ラキ火山の影響は、その後数年にわたってヨーロッパに異常気象をもたらしました。フランスではこの影響により1785年から数年連続で、(死亡による)労働者数の減少、旱魃、冬と夏の悪天候が続き、大規模な食糧不足が発生しました。さらに1788年には猛烈な嵐が起こり、農作物が大被害を受け、貧困と飢饉がますます深刻化します。1789年のフランス革命の大きな原因のひとつはラキ火山の噴火だったのです。


…というところかな?たったの2時間ですので、半分もお話できやしないでしょう。しかし、このように浅間山の火砕物を題材にして世界の火山を語ることができれば、ジオパークガイドのような感じになりますね。そう言う意味では、世界の火山を見ておかないと薄っぺらいのだろうと思います。私の植物学だってそう、民俗学、宗教学なんて尚更です。


しかし、所詮ヒトは自分の身の回りのものことにしか神経を行き届かせることはできないもの。それで十分だと思いますね。






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