四戸の獅子舞と三島鳥頭神社のこと



11月は地域の神社で秋季例祭が多く、多々神楽や獅子舞の奉納が多いです。今日、11月3日はいろんなお祭りが重なっている日で、どれを見に行こうか迷っていたのですが、Facebookで友達の武井さんが明日の獅子舞の準備を…とアップしていらっしゃったので、これを縁とし、四戸(しど)の獅子舞を見学に行くことにしました。



  


武井さんのお家をいきなり訪問しました。思わず郷愁の想いに駆られてしまう、鄙びた木造建築の家です。典型的なせがい造りで、大きな庇(ひさし)は軒下が広くとれるので、養蚕には都合が良かったそうです。聞いてみるとやっぱり昔は養蚕をしていたそうです。



  


三菱ディラー…などの看板は、昔農機具を購入した際にメーカーが宣伝のために取り付けたものでしょう。なんか味があっていいですね〜
年末には三島鳥頭神社(みしまとっとう神社)からお札(神札)が地区の各家庭に配られるそうです。三島一帯の氏神様なんですね。



  


しかし、こちらの御幣(ごへい:2本の紙垂を竹または木の幣串に挟んだもの)は、同じく年末に熊野講社からもらってくるそうです。この七福神も年代物でいいですね〜


Wikipedia で「御幣」で検索したところ、気になる記述があったので転載しておきます。

なお、長い棒や竹の先端に幣束(御幣)を何本か取付けたもののことを、特に梵天(ぼんてん)という。 紙が普及する以前は、ヤナギ、ニワトコ、ヌルデ、クルミ、マツなどの木の肌の一部を薄く削ぎ、渦状にちぢらせて残し垂らしておく飾り棒削り掛けも、御幣、幣の古い形の祭具として用いられた。削り花(削花、ハナとも)、穂垂(ほたれ)、掻垂(かいたれ)とも。アイヌにも同様のイナウがある。

  


12時過ぎあたりから、四戸の公民館前に地区の方々が集まり、13時前には獅子舞が始まりました。ここでは、ダイジェスト版が舞われるのだそうです。



  


黒獅子2、赤獅子1、狐1、鬼1の5人と、玉串を持つ者が一人、計6人が並びます。曲は大人が横笛で奏し、獅子が羯鼓(かっこ)と呼ばれる太鼓を腹側につけ、バチの中程を中三本の指で持ち、曲に合わせて打ちます。舞の合図は拍子木で行います。




一番右、紫の紙垂をつけた獅子が最も格上だそうで、一人で舞うパートもあり、大人が入っています。ここで、この紫の飾り物を「紙垂」というべきか、今さっきWikipediaで知った「梵天」というべきかわかりません。しかし、吾妻地域に残っている「削り花」の文化を考えるに、Wikipediaの「梵天」の意味で使われていることは間違いないでしょう。



  


獅子舞は子供がやることになっていますが、子供がいないなど、場合によっては大人が入ります。昔は一家で一人、しかも男子しかやってはいけなかったそうです。今は3人兄弟の家があり、大活躍中だそうですが…。
前半は比較的おとなしい舞いが続きましたが、後半は少し動きが出てきました。



  


しかしダイジェスト版ですので直ぐにおしまい。拍子木の合図で一行は移動します。





これが、道中獅子と呼ばれる、神社への行道(ぎょうどう)で、東吾妻町三島地区の風物詩です。拍子木を持った世話人が先頭で、玉串、狐、鬼、紫獅子、赤獅子、黒獅子の順番で歩きます。紫獅子が一番後ろになれば、年、背の順番でスロープができますね。その後ろには横笛の奏者の大人たち、さらに同行者が続きます。



  


東吾妻町三島小字四戸から、神社のある三島小字唐堀に移動します。「道中ばやし」は、移動中ずっと行われるのではなく、途中、何度も休みます。この「まんぎざわばし」では舞われました。写真のポイントでもあるのでしょう、カメラマンが何人も狙っていました。




岩櫃山と道中獅子。 電線が写らなかったら最高の写真でしたね。


ここで吾妻町の民俗芸能」に記載された由来伝承等の一部を転載します。

 地区の古記録によれば、四戸の獅子舞は江戸時代末期の嘉永五年(1852)9月19日、三島の鳥頭神社例祭に、四戸・生原(おいばら)両組が共同して獅子舞を奉納したのが始まりといわれています。

 その年は、農作物が極めて豊作、その上天下も安泰とあって両組の氏子は神様にお礼をしようという気持ちから、両組で協議書を取り決めて、今後毎年鳥頭神社例祭に獅子舞を奉納することにしました。

 以降、両組は順番に宿を受け持って奉納してきたが、明治18年(1885)に大火災があり、四戸組に保管してあった獅子頭や付属品まで全て消失してしまいました。それで当時の四戸組の高橋楽治郎・高橋熊蔵両氏が中心になって自分たちの手で丹精込めて彫刻や塗装したりして一式を仕上げ、その後も獅子舞を継続することができました。

 四戸・生原両組で始めた奉納も、いつしか四戸組だけとなり現在に至っています。奉納を奉仕する主体は四戸実業会から組全体の保存会となりました。舞子は子供が主体ですが、以前に比べて人数も少なくなり、平成二年は大人も加わるなどして苦労しました。

 祭典が近づくと子供たちは「よび太鼓」といって太鼓をたたきながら練習開始を告げます。公民館で何日も練習し、祭典前日の午後より「ぶっ揃い」といってはじめて頭などをつけて舞の仕上げをします。そのあと組内総出で、紙垂を切る人、わらじの手入れ、獅子頭クルミの実で磨くなどを準備をします。(画像協力:武井禎子さま)

  


狐と鬼は、お面を完全にかぶるのではなく、おでこの上に乗せるような感じで、「ササラ」と呼ばれる竹を割って作った楽器を鳴らします。さて、三島鳥頭神社に近づいてきました。



  


鳥居をくぐって、行灯(あんどん)で飾られた境内を進み、拝殿へ向かいます。おや、神楽殿で何かやっていますね!これは?





そうです、この神社では秋の例祭時に、獅子舞の奉納と多々神楽が同時に行われているんです。多々神楽を行っている真っ最中に、獅子舞が境内に侵入してきます。しかも両方共、楽器を鳴らして。信じられます?



  


獅子舞が社殿の周りを何周かします。その間も、神楽殿素戔嗚尊(?たぶん)は餅投げを行っている…





回り終わったら、拝殿前で一列に並び、舞います。





男性の頭も一緒に写っていますが、この写真、何か綺麗で好きです。



  


それにしても、なんて華やかな境内なのでしょう。獅子舞が舞い、多々神楽が舞っています。これは日本を代表する奇祭なのではないでしょうか?!多々神楽の方は三島鳥頭神社が村社に昇格したのを記念して、大正元年(1912)仮説の舞台を作り、熊野講社多々神楽の神楽師に依頼し奉納したのが始まりとされています。ということは獅子舞の方が60年も早くから(1852年より)行われていることになります。



  


その後、拝殿の横、すべり台のある東方広場に移動し、小休止します。そこには四方に若竹、シメが張られた神域があり、その下の地面に大人が丸く輪を描きます。おお、これは土俵だったのですか。なるほど、本来、獅子舞の奉納は土俵で舞われるのですね?





一休みする獅子舞メンバー、紫獅子はどんな大人が入っているかと思ったら、なんと素敵な好青年じゃないですか!若手による伝統文化の継承、素晴らしいです!



  


楽殿の方では男が岩を持ち上げる動作を繰り返しています。おお、これは岩戸の舞。大宮巖皷神社の神楽と同じなら最後に餅投げがあるはず…



  


土俵の上で舞うのが、獅子舞の奉納だそうです。先ほどの拝殿前での舞いは、ただ単なる礼拝…だったのかな?





まるで止まってもらって撮ったかのようないいシーンです。あれ、止まっていたかな?



  


ますます舞いは激しくなってきます。一列に並んで行った舞いとまるで違います。見ているこちらも熱くなってきます。





そして、神楽殿天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が餅投げを開始、


ヤッター、餅投げと獅子舞を一緒に撮れた!。゚*ヾ(感'∀'激)ノ゙*★☆



  


獅子舞の奉納が終わり、興奮冷めやみませんが、せっかくなので三島鳥頭神社を少し見て回ります。東方広場には夫婦のような杉があります。数百〜千年後、つながったら見事でしょうね。



  


嬬恋村の神社は小ぢんまりしていますので、みんな社殿は一つですが、東吾妻町の神社は規模がもう一回り大きいらしく、社殿は拝殿と本殿(本殿覆い屋)に分かれていて、それが通路(幣殿)で繋がっています。あの中に神様が居られるのですね。



  


神武天皇遥拝所」というものがあったり、「大国主命」や「岐神」という石碑があったりしました。





三島鳥頭神社には案内板がなく、由来や縁起がわかりません。しかし、インターネットで「1660年以後、下山潜龍院が別当となる。」という記載を見つけました。潜龍院については以下のブログがわかりやすいです。


『潜竜院跡』〜 武田勝頼を迎えようとした御殿跡 〜
http://blogs.yahoo.co.jp/miyamiya777/45860383.html


もっと専門的に知りたいならば、富澤豊前守さんのHPより「潜龍院・郷原城跡」を
http://www.denno2488.com/index.php?%E9%83%B7%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%A8%E6%BD%9C%E7%AB%9C%E9%99%A2



  


その後、すぐ近くにある熊野講社にも連れて行ってもらいました。武井さんは毎年、ここでしめ縄や御幣を作ってもらっているそうなのですが、かなり参道が荒れています。



  


社殿には「宗教法人 神道修成派群馬熊野教会」との看板があります。奥に神職の方が住んでいらっしゃるようなのですが、留守のようです。



  


社殿の隣には神楽殿があるのですが、何年も使われていない様子です。後で聞いた話では、神楽はもう、やっていないのだそうです。大正元年(1912)、三島鳥頭神社はこの熊野講社の神楽師に頼み、初めて神楽を奉納したのですが…神社の栄枯盛衰を垣間見たような気がしました。



  


また、鳥頭神社は東吾妻町に二か所あり、武井さんにもその由来を聞いていたのですが、あれこれ見ているうちに、三島鳥頭神社は天神さん(菅原神社)の系統、或いは分家らしいという情報を仕入れてくださいました。何かわかるかもしれないと、菅原神社に向かいます。正面が解らず、横の入口から入りました。


東吾妻町岩下の菅原神社
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/gunma/agatsumagun/sugawara_iwashita/sugawara_iwashita.html





菅原神社(天神さん、天満宮)は政治的不遇を被った菅原道真(すがわらのみちざね、845年8月1日〜903年3月26日)の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった御霊信仰の代表的事例です。忠臣として名高かった道真は“平安朝きっての秀才”であり、学問の神様として祭られている。また、延長8年(930年)朝議中の清涼殿(会議室)が落雷を受け、昌泰の変(901年1月、左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)により醍醐天皇が右大臣菅原道真大宰権帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件)に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出たことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになりました。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来…だそうです。


この菅原神社が三島鳥頭神社と関係がある…?



  


この神社にも、由緒書などの看板がなく、本当のところは解りませんでした。それにしても、拝殿の向拝下にある彫刻は『鳳凰』だそうです。ここの彫刻を初めて観察しました。神秘的で美しいです。神楽殿もありますね。しかし何だろう、感覚的にこの菅原神社が三島鳥頭神社と繋がっているようには感じません。





結局、矢倉の鳥頭神社にも行ってみることにしました。国道145号線沿いで、樹齢1400年の親子杉が目立つ神社です。



  

鳥頭神社(矢倉)

 由緒:創建年月不詳、伝承によると吾妻七社の一社で建久年中(1190)の建立と伝えられている。古末武将、郷民の信仰が厚く、元享年間(1321)岩櫃城主吾妻太郎行盛が社殿を改修したという。

 延文3年(1351)京都安居院で編集された「神道集」によると、父が加若和利 母・子持御前の御子 とっき東宮を祭った神と記されている。叔父藤原成次は元上野国目代で、この地に住居し中世は吾妻荘西条岩下村と称した。

 戦国末期は岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け、永禄6年(1578)10月斉藤氏滅亡後、同9年海野幸光同輝幸は信玄の吾妻領の郡代となり、天正6年(1578)海野長門の守幸光は武田勝頼に忠誠を顕すため、鰐口を奉納したが、その後盗難により現存しない。天正10年(1582)真田昌幸より八貫七百文の寄進を受け社殿を修復、同18年8月真田信幸沼田入部に際し三貫五百文の寄進を受けた。沼田真氏改易の後、貞享4年(1683)検地には境内一反五畝余、森一反とあり、元禄7年(1694)11月京都卜部兼連より正一位鳥頭大明神の宣旨を賜った。宝暦週11年(1761)本社建替着工、明和元年(1764)9月完成した。なお宝暦13年(1763)まで正一位正一位鳥頭大明神と称した。

 明治10年7月相殿二座を合祀、同40年8月境内末社等を合祀した。


由緒書の看板によると鳥頭神社は吾妻で生まれた神様で、菅原神社由来の神様では無いようです。この縁起が矢倉の鳥頭神社だけの話なのか、三島の同じルーツで良いのかは、解りません…。また、加若和利(和利宮)とは現在の吾妻神社であり、嵩山が御神体です。そこをぐぐって見ると、もう少し詳しい伝説の記述がありました。

 和利宮は、和利嶽(わりのたけ)と呼ばれた嵩山(たけやま)と関連深い社です。南北朝時代に成立した『神道集』の中に「上野国子持山之事」という一節があり、子持山大明神を中心に吾妻の神々の縁起が記されています。

 伊勢国阿野津の長者阿野保明は、伊勢神宮子守明神に参詣して得た娘に、子持御前と名付けました。成人して加若次郎和利(かわかのじろうかずさと)と結婚し、二人で伊勢神宮にお礼参りに行きました。これをかいま見た伊勢国司は横恋慕し、夫の加若和利を謀反人として下野国へ流刑にしました。子持御前は夫を救うため東国に下り、熱田・諏訪大明神の助力を得て救出、和利の伯父(おじ):藤原成次のいる上野国山代荘(吾妻郡)で再会しました。

 このあと、諏訪大明神から神道の法を授けられて、関係者は神としてまつられ、子持山(子持御前)・嵩山(夫の和利)・鳥頭宮(若君)・山代明神(伯父:藤原成次)・中山の半手本明神(供の女房)・青山の駒形明神(若君を乗せてきた馬)・市城の白専馬明神(馬を引く供の人)となりました。これらの神々は、『吾妻七社明神』と呼ばれています。

  

神代杉の由来
そもそも神代杉(一名親子杉とも言う)は、その昔 日本武尊御東征のみぎりお手植されたと言い伝えられ、以来幾千歳うっ蒼たる神域を近隣に誇りしが、寛保2年(1742年)草津への旅人一夜をこの大杉の虚にて暖を焚き、その失火により神代杉は半枯の状態になりしとか。その後天明3年(1783年)浅間山噴火による熱泥流は、再びこの神代杉を厄火に包みたり。

ときに龍徳寺住職円心和尚は、その焼失の危機を憂慮し神代杉を後世に残さんと余燼のくすぶる中 己れが危険を侵し十米の高所より切倒してその祈念を果たし、今の世に往時の面影を残存したると言う。

この神代杉は現在周囲九.七五米余あるが、当村の氏子たち代々に亘り修復を重ねて、今にその姿を伝えるものなり。

また、虚内にある杉は約200年前何度か植栽に挑みたるが いずれも枯死したため、氏子たち笹原台地の黒土を馬にて運び混土し、杉苗も長尺ものを切株より大空に突出して植えるなど、幾多先人の辛苦により漸くその目的を達し 活着したものと言われしが、それより一名親子杉とも呼ばれ この神代杉の名声を天下に広め、今尚、誇りを保ち尊ばれるものである。


1783年浅間山大噴火の鎌原土石なだれで、長野原町大桑小宿にあった常林寺の梵鐘が、約20km下流東吾妻町吾妻川の河原(もしくは15㎞下流長野原町河原畑付近の川床とも)から約120年後に発見されたという話がありますが、東吾妻町原町付近では被害が無かったと義母から聞いていました。しかし吾妻川から同じ位の距離と高さにある矢倉では被害はあったのですね。また、円心和尚といえば私費を投じて吾妻渓谷を通る国道の原型をつくった人物です。その円心和尚が燃えている神代杉を高さ10mの位置で切断し、今の古い幹部分を残したんですか。いやいや、みんな繋がっていますね。





矢倉鳥頭神社の拝殿と本殿覆い屋です。本殿が丸見えの造りですが…。この神社の建築様式は、三島鳥頭神社の様式と確かに似ています。幣殿脇に飾られた鬼瓦がアクセントになっていますね。



  


後で知ったのですが、拝殿の向拝下にある彫刻は『鳳凰』で、菅原神社と同じです。三島鳥頭神社の方は確認していません。神楽殿は、こちらの方が雰囲気があります。



  


矢倉鳥頭神社は、神代杉にばかり気を取られていましたが、境内に入ってみると社殿は程良く鄙びていて造りも良く、また思ったよりも境内が広かったのでリラックスできるような気がします。また時間をつくってゆっくり見学したいと思います。

あ、ここにも神武天皇遥拝所があるのですね。三島と同じです。そうそう、矢倉鳥頭神社と三島鳥頭神社の関係は、やはり解らないままとなっています。どなたか、お解りになる方がいらっしゃいましたら、ぜひご教授くださいませ!






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