霊山『たけやま』登山と『和利の里』散策エコツアー 〜 芝桜・ツツジ登山道・100匹の鯉のぼり 〜



【新シリーズ】戦国真田の吾妻侵攻と、あがつまの山・里・花を訪ねるエコツアー
http://ecotourism.or.jp/sengokusanada.html


の4回目、


霊山『たけやま』登山と『和利の里』散策エコツアー

〜 芝桜・ツツジ登山道・100匹の鯉のぼり 〜
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を実施しました。当日の様子をレポートいたします。



  


案内人はなかのじょう里山テーマパークの桃源郷ピクニックでも案内人を務める、滝沢隆雄さんです。9名のお客様と共に表登山道から登ります。ここは「一の木戸」と呼ばれ、嵩山城の一番外側の門(大手門)があったところです。



    


ここは坂東33番観音の起点になっていて、1番観音が安置されています。大石には「泰造立坂東三十三所始 上州吾妻郡之内五反田村 元禄十五壬午年三月十八日 敬白」と刻字されています。11面観音は平成の大修復(2004〜2006年)が完了したことを記念して設置されたものです。



      


嵩山登山開始。この登山道は、中世、嵩山城だった時と同じ道なのではないかとのことです。嵩山城は、室町時代の中期に、関東管領山内上杉家の家臣、長尾景仲が白井城に拠って北関東一帯を押さえていた頃、この白井をとりまく友城のひとつとして開かれたそうです。その後、岩櫃城主・斉藤氏が吾妻の王となって近隣を手中にしていく経過で獲得し、岩櫃城をとりまく出城として重要視されました。嵩山には大きな空沢がいくつもあり、これまでの学習から竪堀の可能性が頭をよぎりますが、地質が岩山なので、自然地形を利用した造りになっているのだと思います。



  


見晴台にて。嵩山合戦の話でよく出てくる、斉藤方200名、真田方150名の戦死者を出した五反田の台での戦いとは、ここからよく見える町営花の駅(旧薬王園)あたりであったのだそうです。



        


休石を経由してさらに上へ。9番観音は落石で破壊されてしまっていました。


永禄八(1565)年11月に嵩山城が落ち、斉藤方は城主城虎丸以下一族郎党女子供まで、おびただしい人数が山頂の岩より飛び降りて最期を遂げました。その後、嵩山城は廃城となり、戦死者は供養されないまま骨は「骨穴」というところに集められていたそうです。

1681年、真田のお殿様が両国橋の用材請負いが納期に間に合わなかった事の他、殺生禁断の霊地、迦葉山で農民を駆り立て大狩遊をした事、参勤の途中、館林で幼女を切捨御免にした事など計10ヶ条の罪を糾明され改易を命じられます。その後、1684年に空閑という僧が来て、1702年に坂東33番観音を設置し、ようやく140年後に嵩山合戦の戦士者たちは供養されることになりました。



  


天狗の広場に到着。嵩山は天狗の棲む山と言われており、現在でも東峰を大天狗、中峰を中天狗、西峰を小天狗と呼んでいます。廃城となってから、元禄期(1688年-1704年)には修験道の信仰の山として栄えたそうです。


修験道とどこまで関係しているのかわかりませんが、こんな話を聞かせてくれました。

南北朝時代に成立した『神道集』の中に「上野国子持山之事」という一節があり、子持山大明神を中心に吾妻の神々の縁起が記されています。

伊勢国阿野津の長者阿野保明は、伊勢神宮子守明神に参詣して得た娘に、子持御前と名付けました。成人して加若次郎和利(かわかのじろうかずさと)と結婚し、二人で伊勢神宮にお礼参りに行きました。これを見た伊勢国司は横恋慕し、夫の加若和利を謀反人として下野国へ流刑にしました。子持御前は夫を救うため東国に下り、熱田・諏訪大明神の助力を得て救出、和利の伯父(おじ):藤原成次のいる上野国山代荘(吾妻郡)で再会しました。

このあと、諏訪大明神から神道の法を授けられて、関係者は神としてまつられ子持山(子持御前)・嵩山(夫の和利)・鳥頭宮(若君)・山代明神(伯父:藤原成次)・中山の半手本明神(供の女房)・青山の駒形明神(若君を乗せてきた馬)・市城の白専馬明神(馬を引く供の人)となりました。これらの神々は、『吾妻七社明神』と呼ばれています。


凄いですね!子持山(妻)と嵩山(夫)が結婚して、それを伊勢国司が妻を横取りしようとして夫を流刑にしたら、妻が熱田大神諏訪大明神の助力を得て夫を救出し、その後は諏訪大明神の力により一族は神となった、っていう話です!...(゚Д゚ノ)ノ



      


今日は春霞のため、榛名山塊より向こうの山は見えません。明日の「嵩山まつり」のために、スタンプラリーが設置してありました。この設置も大変でしょうね。中之条町をあげてのイベントなのですね。



    


西峰の小天狗に来ました。今日は山頂からの景色をあまり撮っていませんが、北側にはみなかみ町新治村との境界にある名も無き山が邪魔をして、三国山谷川岳などが見えません。白砂山はよく見えました。



    


      


天狗の広場を通り、ツツジのトンネルを抜けて次のスポットへ。



  



ここは、「胎内くぐり」。岩の幅は最小で22cm、通り抜けるには腰幅が85cm以下であることが必要です。回り込んで逆側からのルートをとりました。



        


胎内くぐりの中には、11番〜13番の観音様がいますが、くぐらなくてもこの鎖場を登ることができれば、拝むことができます。「胎内くぐり」=「再生、生まれ変わり」を表しているとも取られ、修験道と関係しているような気もします。



    


途中にあった三社神社は、「浅間」「秋葉」「八幡」の山神を祀ってあるのだそうです。



        


中天狗手前には、「弘法の筆跡」という岩があり、「空」の字が刻んであるそうですが見つけられませんでした。中天狗にある「石尊社」は、一の木戸の雨降社の奥社です。雨降社そのものを持ってくる予定でしたが、重くて持ち上げられなかったそうです…



  



この先の登山道のツツジ、素晴らしかったです。



        


途中にあったコシアブラによく似た樹木はタカノツメでした。葉の数が5枚ではなく3枚です。



  



ここが本丸跡で、実城の平(御城の平)と呼ばれています。西国秩父観音群71体(観音70阿弥陀如来1)がコの字に並んでいます。



      


平成の大修復(2004〜2006年)で修復されたという観音像群。アップしてみると、首のあたりにセメントの切れ目が見えます。白くなったような地衣類もセメントで表現したとか、本当ですか?!



    


中には、とても愛嬌のある観音様がいらっしゃいました。



  


空閑が設置した経塚には「怨親平等」とあります。敵も味方も平等に、という意味だそうです。塚の中に経石が埋まっているそうなのですが、上に乗っていた経石には、お経は書いていませんでした。恐らく雨風で消えてしまったのでしょう。



      


大天狗へ登ります。この、ゴツゴツとした尾根岩を「龍の背渡り」と言います。





鎖場があるとは思わなかった? 大丈夫、行けます。ガンバカンバ!



      


小さな子供たちも、お父さんの応援の下、頑張って登っています。尾根岩を登ると、突きあたりに「女岩」と呼ばれる大岩があり、そこが嵩山の山頂です。石祠は「親都神社奥社」です。兄の斉藤憲宗はこの女岩の上で腹十文字に掻き切って切腹したそうです。



  


女岩を近くで見てみると、気泡がかなりあるように見えます。さらに、石英か長石とみられる白い鉱物が見えます。やはり、この岩は火山岩です。嵩山は榛名火山、子持火山、どちらの火山により形成された山なのでしょう。

「中之条盆地」と名付けられている中之条町中心部の大地には、榛名火山の成長に伴って形成されたと考えられる古中之条湖がありました。湖が最大になった頃は、長径18km・深さ210mあったと推測されています。中之条湖成層の形成年代から、古期榛名火山の成長の開始は50万年前頃と推測されるそうで、山麓に分布する本層と同時代と考えられる古期榛名山扇状地堆積物の形成年代から、中之条湖成層の形成は24万年前頃までに終了したと考えられるそうです。

    


嵩山合戦で斉藤城虎丸と一族郎党女子供は次々と山頂の岩より飛び降りた…そうですが、女岩に登るために並んだというのも変ですし、女岩は崖下に真っ逆さまの位置ではありません。帰り道、飛び降りたとされる断崖を教えてもらいました。「骨穴」の真上あたりだそうです。140年後、空閑により供養されるまで散らばっていた死者の骨は集められ「骨穴」に入れられていたそうです。



        


イヌブナ、タカノツメを確認。東登山道に向かって降りていきます。



    


その「骨穴」への道は現在、閉鎖されています。その下にあるのが「愛宕岩」或いは「仰ぎ岩」と呼ばれるオーバーハングの巨岩です。ここも、危険のため閉鎖せれてしまっています。



      


その愛宕岩には、「一升水」と呼ばれる、常に清水が一升位溜まっている岩陰があります。この付近で猫の鳴き声のような声がしきりに聞こえてきましたが、上空を見るとハヤブサがしきりにこちらを威嚇していました。この愛宕岩の下部先端のところに、「弥勒穴」と「みろくさん20番観音」があるのです。行かないわけにはいきません。



    


弥勒穴に行くには鎖場を登らなくてはいけません。この地域では、お参りすることを「オガンショ」と言い、お礼参りすることを「オガンショバタシ」というそうで、「みろくさん」は「穴の神」であり、人体にある耳、目、口、鼻、さらには女性のシモノ病、お産、また女性へのご利益、夫婦円満にもあらたかな観音様なのだそうです。



    


下から見上げる「弥勒穴」。そのさらに上部にはもう一つの風穴が見えます。金の茶釜があるとかないとか。今はどうも先ほどのハヤブサの巣がありそうな感じですが…



    


東登山道入口まで降りて、午前中の部は終了しました。ジュウニヒトエも綺麗でした。ここで、気になった看板があったので読むと、

寺屋敷(法蔵寺)跡

 もとの地形や様子は残されていないが、このあたりが寺屋敷と呼ばれていた「金光山法蔵寺」のあった所である。清見寺詩によると、「寺を持たない『鉦打(かねうち)』という坊さんたちが、嵩山合戦でなくなった人の慰霊をするために形ばかりの草庵(家)をつくられたのが法蔵寺のはじまりと思われる。」と述べている。その後に、法蔵寺は親都から西中之条に移り「鉦打」の集って供養をする「念仏堂」になったという。またその場所(今市)に市場を開くことになり清見寺の西北の地に二度目の移転をした。その後、清見寺に合併したのである。

 法蔵寺の鍾楼(しょうそう、かねつき堂)は中之条町の時の鐘として親しまれてきたが、昭和17年(1942)に軍用に徴集された。清見寺の今の鍾楼は宝蔵寺のものを移転したものである。

 なお、この寺屋敷の東の林にある大きい石の所が、宝蔵寺の稲荷社で、中之条町にあるトウケエシ稲荷神社の奥宮といわれている。


おや、空閑が坂東三十三観音を設置するまで供養されていない…と聞いていましたが、そうでもなかったようですね。そして清見寺にはこんないわれもあるのですね。



  


昼食休憩の後、午後の部スタート。「たけやま館」の目の前に、「天王石」なるものがありました。

天王石

 天王石は、むかし市の開かれたことをしめす大切な証拠である。ここ親都は嵩山城の武士が、ふだん生活をしていた所(根古屋)で親都千軒といわれた大きな集落(城下町)であった。元禄六年の五反田村の絵図には嵩山を中心に七社大明神(現親都神社)伊勢宮、石薬師などが書かれ、トウケエシ稲荷奥宮、宝蔵寺跡、天王屋敷などがある。天王屋敷には天王石があって、毎年しめかざりや時には供物などをして大切に守られてきたのである。

 天王宮には須佐之男命、牛頭天王を祭る、市の神様で、また疫病退散の神でもある。天王石は天王宮をうつす所で市を開く日にはこの天王石の上に「おかりや」と云う建物をつくり、ここに御神体を移してその前一帯に多くの店が出て市が開かれ必要物資の売買が行われたのである。

 この市は吾妻郡でいちばん古いと思われることと、この城下町が吾妻の中心的役割を持っていた時期があったと思われる。

 中之条町


うーむ、イメージし難いですが、ここはそんなに繁栄していたところだったんですね。



  


親都神社の大ケヤキ群馬県ケヤキでは二番目に大きなケヤキです。幹にある乳房のような突起に触るとお乳が出るようになるそうです。





親都神社に来ました。親都の名前は嵩山の神に近い所、近づく願いを込めた名前だそうです。元々は霊峰嵩山を御神体としていた神社ですが、現在は須佐之男命ほか17神を祀っていま す。古くは「吾妻七社明神」の「和利の宮」が祭られていましたが、和利宮はその昔、親都神社の場所から伊勢町東端の御手洗山山頂に移され、さらに弘治2年(1556)、中之条町一帯を支配していた塩谷氏が自分を守ってくれる神として御手洗山から現在の横尾の地に遷座したそうです。氏神が無くなってしまった五反田村の人たちは、須佐之男命を迎えて氏神とし、その後、地域の神様が合祀されて今の親都神社になりました。



      


献書展が行われていました。「吾妻八景」はもうそろそろ止めた方がいいと思います。誰もきちんと八景全部言えないでしょ?境内には明日の神楽の鳴物の練習の音が鳴り響いていました。



      


五反田を散策します。「石薬師」は「目」「できもん」等を治してくれるそうで、10月10日に火祭りという珍しい祭りがあります。火祭りの一週間前には「とあけ」を行い、一週間後には「とたて」をするそうです。


ところで、「和利の宮」は昔、この道路向かいあたりにあったそうです。ちょっと混乱してきました。



    


「吾妻七ツ石」の一つ「産石」は、投げた石が上手に岩の上に乗ると、何かいいことがあるそうです。しかし、滝沢さんも「吾妻七ツ石」が「囀石」以外の他に何があるのか知りませんでした。五反田だけでも「七ツ石」があるそうで、一の木戸にあった大岩も「五反田七ツ石」の一つだそうです。



    


この道は石仏や史跡がたくさんある道ですが、大きな街道だったわけではなく、五反田村の道だったそうです。聖観音の横にある、頬に手を置いた観音様は如意輪観音。この辺は花卉の栽培が行われています。中にはネコヤナギもありました。



        

町指定重要文化財 旧五反田小学校

 (指定)昭和63年3月26日
 (所在地)中之条町大字五反田1648

旧五反田小学校は、明治42(1909)年に当時の最高技術をもって建築されたもので、用材は伊勢山(五反田伊勢宮の森)の木を伐採して木挽きが製材し、敷地は村中の人足により造成するなど、五反田の村中の力を結集して建てたものだといわれています。建築費用は4,999円余りで、地元民の寄付や勤労奉仕で賄われました。大工は中之条町の樋田栄太郎です。木造平屋建て・板葺き(現在、亜鉛鉄板葺き)・合掌入母屋造りで、間口は28間(50.9m)、奥行5間(9.0m)です。

 昭和13(1938)年に伊参尋常高等小学校第二分教場となり、その後町立第四小学校の分校として昭和44年まで使われました。この間、青年団など地域の人たちと先生との交流の場としても活用されるなど、社会教育の面でも大きな役割を果たし、五反田地区の人たちの心の拠り所となっていました。

 明治時代の小学校建築で、ほとんど改造されず、差し込み式の窓の鍵などは当時のまま残されています。また、当時の壁はうす青色で、校舎内の柱などには児童の指導のため書き込みも見られます。

 平成17年3月 中之条町教育委員会


天井には24mの一本材が使われているそうです。私は風で倒れたという「親都神社の松」が気になりましたが…



    


旧五反田小学校裏にあるお墓は、斉藤弥三郎一族のお墓なのではないか、とのことです。和利堂と空閑の墓を見学して、



        


井戸や道祖神、幹周2.5m、樹高10mもある県指定天然記念物の「大久保のナツグミ」、映画「月とキャベツ」ロケ地などを訪問しました。



    

真田忍者「田村次右衛清隆の墓」

大阪陣略記によると大阪夏の陣にて忍者の名手として名を挙げた。中之条町五反田の出身、初め弟の真田幸村へ仕えたが、のち兄の信幸に仕え、夏の陣に出陣した故か元和4年6月10にち自決した。


墓碑には二人の法名が刻まれていますが、田村左次右衛清隆の名前は見えませんでした。関ヶ原の戦いでも活躍した忍者だったそうです。



    


この後は道なりに道の駅まで戻って、エコツアーイベントは終了しました。質問も多かったので、予定時刻を30分程超過してしまいました。来年は15時終了にしたいと思います。


これで、全4回の【シリーズ】戦国真田の吾妻侵攻と、あがつまの山・里・花を訪ねるエコツアーは終了したします。ガイドの滝沢さん、参加者の皆様、本当にありがとうございました。


また来年、パワーアップして実施いたします。それまでどうぞお楽しみに…






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