戦国真田の岩櫃城跡探検隊



「広報ひがしあがつま」に、『戦国真田の岩櫃城探検隊』イベントの募集記事が掲載されました。ちょうど今、来春、真田幸隆氏が吾妻を侵攻した経路を訪ねながら、歴史探索と自然観察を行う…というシリーズ企画を考えているところです。これは願ってもないチャンス。ありがたく参加させていただきました。主催は「あざみの会」といって、東吾妻町の潜龍院跡の保存整備、岩櫃城の紹介などしている地域おこしのグループです。


東吾妻町・あざみの会
http://www.agatuma-azami.net/




  


コニファーいわびつの前で受付をして、体育館に集合。開会式が行われました。




  


山崎公一会長のあいさつ。あれ?根津光儀さんっていう方が会長だと聞いていたけど、変わったみたいですね。そのあと、中澤恒喜東吾妻町長からの祝辞があって、




  


東吾妻町観光協会長、コニファーいわびつ支配人からのご挨拶がありました。






そして、さっそく第一部歴史講演。東吾妻町教育委員会教育次長の高橋政充先生。学芸員でもあります。「私の専門は考古学で、気質も真面目なもので、出たもの、発掘されたものに対してありのままを論説するしかできませんから、私の話は面白くありませんよ…」なんて仰っていましたが、なんと今回のテーマは「吾妻太郎のこと」です。吾妻太郎は歴史というよりは伝説の人物で、文献もそう残ってはいなく、考古学者が解説するのは避けたいところだったでしょう。それでも今日までに講演できるだけの資料を集め研究し、まとめてくださいました。とても貴重な講演でした。


ただし、体育館内でスピーカーの音が割れて聞こえにくい。よく聞こえないので瞼がどんどん重くなる…(=_ヾ)




  


すると、あまりに寝る人が多いから?か、講義会場が外に変更になりました。これなら、何を仰っているかバッチリ聞きとれます(私は夜勤明けだったため、瞼は相変わらず重かったですが…)。


それにしても驚いたのは、高橋様のようなお堅い方が、将軍源頼朝の三原野の大巻き狩りを史実であろうと支持されていることです。じゃないと、これほどまでに当地に「巻き狩り」に関する地名や伝説は残っているはずはないと。「巻き狩り」は軍事演習でもあり、各地にどれだけ軍事力があるのか、交通は地形はどうであるか等、情報を得る役目もあったそうで、よく言われている、浅間野で巻き狩りをした3日後に幕府に戻ることはできなかったはず…という説も、高橋先生から言わせると当時は全国どこからでも鎌倉に直ちに馳せ参じれるような交通網があったそうで、浅間野に来られなかった理由にはならないそうです(ちなみに、他の研究家は「浅間野の後、幕府には行っていない、そのまま那須野に巻き狩りに行ったはず」と仰っていました)。


嬬恋村郷土資料館の松島榮治名誉館長は以前、そういうことは「当地住民の僻地史観、こんな田舎だから世に誇れるようなものことは何もなかったんじゃないか という考えが生み出した妄想にすぎない」と仰っていましたが、そういう歪な精神からではなく、東吾妻町の(研究家)の方々はもっと素直に言い伝えを受け入れ、歴史も伝説も丸ごと受け入れ、自らの糧としているように感じました。それで誰も困りませんし、そのまま納得してしまった方が郷土愛も誇りも醸成されて良いに決まっています。素晴らしい。高橋先生は、来年のエコツアーガイド養成講座の講師にお願いする可能性大です。




   


午前の歴史講演が終わり、午後の第二部・歴史ハイキングの案内人紹介がありました。三つのコースに分かれて歴史探索訪問を行います。そこで登場したのが、富澤朗さん!ご自身のホームページでは 富澤豊前守と名乗っていて、近いうちに富澤さんにもきちんと案内してもらおうと思っていたのです。まだ、私の方で岩櫃山岩櫃城に関する予備知識が十分でないので、ある程度理解できてからにしようと思いますが…


岩櫃城興亡史 ― 強者どもが夢の跡 ―
http://www.denno2488.com/


富澤さんにご挨拶をし、私の目的をお伝えすると、では三つ目の「稲荷城他周辺諸城―マイクロバスで吾妻太郎ゆかりの地を訪ねる」コースが良いと勧めてくださいました。




  


このランチと岩櫃城解説と入浴までついてお一人様2,000円とは、なんて良心的な。12:50、マイクロバスで稲荷城関連史跡へ向けて出発です。




  


まずは稲荷神社へ。吾妻郡内で唯一、氏子を持つ稲荷神社なのだそうです。




  


稲荷神社境内には“吾妻太郎の足跡”といわれる岩があります。神社から稲荷城跡へ、大きな桜の樹の横を通って行きます。




  


高く盛られた土塁、その中に本丸跡はありました。中世の頃の城跡がこんなにも当時の地形のまま残されているところは、他にあまり無いのではないでしょうか。


稲荷城について配布資料を引用し説明すると、永享(1429年〜)の頃から吾妻郡は稲荷城の大野氏、和利の宮城の塩谷氏、内出城の秋間氏の吾妻三家といわれる時代になりました。斉藤氏は岩下城へ追いやられていたそうです。文明(1469年〜)の頃、大野は、秋間を滅ぼし次は塩谷を討とうとしていました。

塩谷氏当主、掃部介は配下の仙蔵城には甥の源二郎元清をおき、一人娘を嫁がせていました。ところが源二郎はある時、野生の少女を気に入り、城へ連れ帰ってきました。それからというもの、姫(掃部介の娘)には恐ろしいことばかり起こるようになり、居たたまれなくなって実家に帰ってこようとしました。しかし姫は身ごもっており、掃部介は姫のわがままを許さず仙蔵城へ返しました。この困り果てていた姫を稲荷城大野の家臣・斎藤孫三郎がさらい(斎藤を頼った?)、稲荷城内に御殿をこしらえ「まろうど殿」(珍客の意味)として大切にします。姫さまご懐妊と大書をしたり、男子誕生の際には城下で大祭を催し、一場二郎と名づけ我が子のように育てました。いよいよ大野氏は隆盛となり、岩櫃城の大改修を行い、引き移ることになりました。

そのお祝いに来ていた殖栗城城主・河内守は、まろうど殿と知り合い二人は惹かれあいます。怒った大野は岩下城の斎藤孫三郎に殖栗を攻めさせるが、斎藤と殖栗は気脈通じる中であったので、殖栗城の城門で談合し、二つの軍はその夜のうちに岩櫃に攻めよせ、大野を討ち取った…そうです。




  


土塁を一周まわり、感慨にふけっている方もいます。堀切は200年で1m位埋まる場合があるそうです。そうすると当時は今より2mは深く、また土塁も低くなっているでしょうから、3m位は高さが変わっているかもしれません。


ところで、このコースの案内人・根津さんはとても博学でリーダーシップのある方でした。後でよく考えると、この方こそがあざみの会前会長の根津光儀様なんじゃないでしょうか?今年から町議員になられたそうで、忙しくなるから代表を山崎さんに代わられたとか?
違っていたらすみません…


東吾妻町岩島 根津農園のホームページ
http://www.aganet.or.jp/~nezu/





次に訪問したのは川戸神社です。ここには巨大な桜の木があるのですが、駐車場が無いので花見しに来るのは難しそう…と思っていた神社です。




  

川戸神社由来略記
古老曰く 貞治年間の勧請と 旧号首宮大明神と称す 而も明治二年四月川戸神社と改称す
首宮と号するは吾妻太郎行盛の首級を祭ることに因りてなり 行盛は吾妻郡の領主にして代々岩櫃城に居城し 貞和年間碓井郡の里見氏と戦い破れて原町立石河原にて戦歿す と吾妻略記に云う 最後の時 敵近付候節立石に飛び上がり自らの首切って投げ給えば不思議なる哉その首二丁許り先なる川向うの大木の中枝に留まり霊光甚だしく 即ち行盛大明神として顕れ給いしなれば川戸村氏子集り社を造り首宮大明神と祝い奉りし鎮守これなり享保年間の頃疫病頻りに流行の節 別当潜龍院社内にて疫病退散の護摩祈願の折一匹のヲサキ爐の周囲を徘徊するを幣串にて打殺し従者に命じて神木なる欅の大木の根元に埋めしに疫病直ちに止む然るに翌年境内掃除に際し堀り返したるに少しも損せずミイラとなりてありたり これ神徳のなすところと宝物として社内に納め置き 毎年一月の一二三の三日間旭の出前の参拝者極めて多しこれにてその歳の疫病をまぬがれると云い伝う 
これ本社初詣りの起因なり
当社の宝物として吾妻太郎行盛の用いしという甲冑に太刀等及び幕府旗本朝比奈氏の寄進なる神鏡一面 長船長光の短刀「ヲサキ」狐の「ミイラ」の箱入り一個なりしが 慶応二年三月十九日の火災により悉く焼失せり


 

  


(探検隊配布資料より)正応年中(1288〜1292年)に生まれた吾妻太郎行盛は、南北朝時代北朝の尊氏に属し、隣接する碓氷郡里見氏は後醍醐天皇南朝に属していました(南朝方の将、新田義貞の母の実家は里見氏)。
貞和5年(1349年)、岩櫃城吾妻太郎行盛は突如として碓氷の豪族里見氏の攻撃を受けます。里見軍は善導寺住職に水道を案内させ遂にこれを断ち、さしもの岩櫃城も飲み水に窮し落城しました。包囲の敵を切りまくり霧沢づたいに難所を抜けて吾妻川の立石と呼ばれる大岩の上で休息しました。秋間、荒尾ほか十数旗しかお供の無い状態でした。「もはやこれまで!」腹を切ろうとすると家老秋間他も殉死しようとしました。吾妻太郎行盛は「お前たちまで死んで何とする。我が子・千王丸は榛名山中で修行中じゃ。皆で千王丸をもり立てて里見を滅ぼし仇を取ってくれ。」とさとし、足を踏ん張り腹一文字にかっ切り自らの首を刀で落とすと対岸の里見の本陣に投げつけました。首は川戸の枯れ木に食らいつき夜な夜な青白く光り続けました。農民達は恐れおののき、傍らに小さな祠を建ててその霊を慰めました。これが川戸神社首の宮(かみのみや)の始まりなのだそうです。


神社の中を覗くと、一番最初に迩迩藝命(ににぎのみこと)、その次に吾妻太郎行盛の名前があり、その後に大物主神大山祇命天照大御神などのおきまりの神々の名前が並んでいました。


吾妻太郎行盛の首が光っていたのはここではないか とのことです。慶応二年(1866年)の火事で大木はみんな焼けてしまったそうですから、首が食らいついていた枯れ木も、当然焼けてしまったことでしょう。ちなみに、伝説の立石は、1783年浅間焼けの土石なだれで流されてしまったそうです。




  


次に訪問したのは、吾妻太郎氏の菩提寺、長福寺です。檀家の剣持様が由来等をお聞かせ下さいました。




  

吾妻町指定天然記念物 長福寺とコウヤマキ
当寺は北朝光厳天皇の御世、正慶年間(1332〜1333年)に、字岩井大字西地内に開山したが、元禄六年(1693年)字山根の現在地へ寺屋敷を移転。再興した折ゆかりの高野山へ詣り且つコウヤマキの苗木を持ち帰り伽藍落慶記念として植樹したものと推定される。昭和58年9月吾妻町文化財、天然記念物として指定を受けた。
しかし近年、落雷の災禍により樹の上部から枯死が進んだため、平成12年町当局の補助事業以って修復事業を実施した。
なお、元禄年間における寺屋敷移転については、岩井の分限者・田中八兵衛、田中十兵衛の強い思い入れゆえの喜捨と併せて剣持与兵衛、剣持次郎左衛門など檀家一同の協力によって偉業が達成された。
ちなみに当寺は岩光山釈蔵院長福寺と称し、本山は奈良県櫻井市にある長谷寺である。開基は岩櫃城主・吾妻太郎藤原行盛。開山は真言宗豊山派の僧、慶誘法印祐弁と記録されている。 合掌
平成12年9月吉日


  


本堂の雰囲気も、何か品格があります。屋根が大きいからそう見えるのでしょうか。







そして、ここ長福寺にはなんと、吾妻太郎藤原行盛のお墓があるのです。真中が行盛、右が家老、左が夫人なのだそうです。




  

長福寺の五輪塔
県道渋川・吾妻線の南側丘陵地の長福寺境内にこの五輪塔はある。
境内にある観音堂の西側に岩櫃城主吾妻太郎行盛の墓碑と伝えられる五輪塔である。
年号には、貞和5年(1349)が刻まれ、南北朝の争乱が伝えられる時代に、南朝方の里見氏と北朝方の吾妻氏と戦った年といわれている。


年号の文字を探します。梵字もいくつかの種類が掘られていて、一つ一つの意味を知りたくなってしまいます。




  

吾妻太郎行盛の由来
 吾妻地方の領主を吾妻太郎と呼んでいる。吾妻氏について、「吾妻鏡」に吾妻八郎、同太郎、同四郎、助光などが鎌倉幕府御家人として活躍しているが鎌倉中期以降は記事もなく明らかでない。
 南北朝時代に活躍する吾妻太郎行盛は飽間(安中市秋間)を本拠とする飽間斎藤氏の一族と推定される。斎藤氏一族は新田義貞の鎌倉攻めに参加しており吾妻太郎行盛もこれに従った。
 建武新政後、南北朝に分裂した折、斎藤氏一族は上杉家に属して北朝方となり貞和五(1349)年五月二五日、南朝新田方の里見兵庫頭頼氏に攻められ原町立石の地で自刃して果てた。遺子千王丸(のちの太郎憲行)は母方の伯父斎藤梢基の庇護と上野国守護上杉憲顕の助勢を得て延文三(1358)年吾妻を奪回し、斎藤越前守太郎憲行を名乗った。のち二代行禅(ゆきすけ)、三代行弘、四代行基、五代行連と続き、六代基国の時、即ち永禄八(1565)年武田の家臣、真田幸隆に攻められ滅亡した。
 この五輪塔は中央が吾妻太郎行盛、法名は長福院殿前吾妻太郎大守行盛大居士、右が家老、左が行盛夫人と伝えられる。五輪塔の銘文は後世の追刻であるが、塔は南北朝時代の様式を残す立派なものである。なお、境内の北向観音堂は元禄六(1693)年長福院移転中興の折、当時開基吾妻太郎行盛とその従者一統の霊を永く安んじる為造営された。

吾妻三十三番観音第六番札所となっており、御詠歌は

「松かげの岩井の水は深緑 有為のなみ風たつは寺沢」
  平成十三年四月吉日 長福寺


なるほど、吾妻太郎という名の殿様が一人いたのではなく、吾妻を治めた斉藤氏の殿様は代々、吾妻太郎を名乗ったという事なのですね。嬬恋大笹の黒岩長左衛門や大戸の加部安左衛門の名乗り方と同じです。


そして驚いたことは、源頼朝の浅間の三原野での巻狩りに吾妻太郎助亮(すけふさ)が岩櫃山を含む吾妻地域を案内し、その子・助光の鎌倉将軍家出仕が叶い、その娘・藤原秀郷の末孫・藤原行家の嫡男行重と結婚し、その息子が吾妻太郎行盛で、その後、斎藤越前守太郎憲行(千王丸)、行禅、行弘、行基、行連と続き、最後の基国(孫三郎?)の時に真田幸隆に滅ぼされたという、源頼朝の巻狩りから戦国時代の斎藤氏滅亡まで、全て物語が繋がっているという事です。これは、当然、浅間の三原野での巻狩りがあったとしなくては当地の歴史は成立しなくなってしまいます。目から鱗とはこのことです。




  


最後の訪問地は前出の「まろうど殿」と恋仲になり、斎藤孫三郎と談合し稲荷城大野を討ち取った河内守の殖栗城跡を見学しました。殖栗安芸碑は墓ではなく、石碑だそうです。




  


殖栗城跡は、近年土地改良などが入ったために、面影も薄れてしまっていました。


この岩櫃城探検隊イベントに参加して、私の郷土嬬恋の歴史認識もずいぶん変わることになりました。そして、この東吾妻町こそが、私のこれからの人生のもう一つの郷土になります。そうそうに頭の中の歴史観を破壊してくださり感謝致します。この岩櫃城探検隊は年に2回、6月と11月に実施しているそうなので、このイベントだけは必ず参加したいと思います。その都度レポートしますのでお楽しみに!






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