宮川さんと草軽電鉄跡を探索

今日は宮川さんに依頼して北軽井沢付近の草軽電鉄跡を案内していただいた。このコースはすでに5月8日に実施していたのだが、私は体調を崩し欠席したので、今日、改めて案内していただいたのだ。

2009年5月8日 草軽電鉄廃線跡を歩く(その1)
http://interpreter.jp/archive/2009nendo/20090508kusakaru.html

北軽井沢観光協会前で待ち合わせをしていたのだが、行ってみてビックリ。観光協会は向かいの広場に移動していた。まあ、この方が旧北軽井沢駅舎がよく目立っていい。

中に入ると、真ん中に電車の模型が。デキ12形の12の数字が見える。運転手も横向きに座っていてとてもリアルだ。この電気機関車は元々鉱山用のものに小さな運転室を取り付け改造したので、とても狭いのだ。よくできた模型だった。


  


北軽井沢観光協会にはこの電車に関するいろいろな資料が展示されているので、興味がある人は情報を収集しに寄ってみると良いと思う。

カルメン故郷に帰る」は、国内初のカラー映画(フイルムも国産〔FUJIフイルム〕)ということで評判になった作品。内容も古き良き、のんびりした昭和の時代を彷彿させていて良かった。味があった。

その隣の山鳩という映画も見てみたいのだが、インターネットで探してみたが手に入らない。どなたか持っていませんか?

そして、旧草軽電鉄北軽井沢駅舎へ寄ってみる。


  


旧草軽電鉄北軽井沢駅舎にいい看板が出ている。私の説明よりこの全文を明記したほうが良いのでそうする。

■ 旧草軽電鉄北軽井沢駅舎について

草軽電鉄は、明治42年(1909)、当時の草津町の有力者が集り草津興業株式会社を設立し、大正4年(1915)小型蒸気機関車により営業を開始した。大正13年(1924)には動力を電化し、同15年(1926)には草津温泉から新軽井沢間55.5kmが全線開通した。昭和14年(1939)には、社名を草軽電気鉄道株式会社と改め発展の一途をたどった。その後、台風被害や急速な自動車輸送により草軽電鉄は、昭和36年(1961)廃止されることになった。

開通当初は「地蔵川停留所」といわれていたが、昭和4年地蔵川地区内に法政大学村が開設され、大学村が駅舎を新築し草軽電気鉄道株式会社に寄付した。名称は軽井沢の北側に位置していたので「北軽井沢駅」と呼ばれるようになった。正面玄関は和洋折衷形式で、欄間には法政大学を示す「H」の文字が白くデザインされている。

平成17年長野原町は草軽電鉄や北軽井沢の歴史を後世に伝えるべく改修工事を実施しその保存に努めた。

この「北軽井沢駅舎」はその土地を知る上で重要な建物であり、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当すると考えられ、平成18年11月29日国の登録文化財になった。

最後に駅舎の改修工事及び保存にあたり、北軽井沢区及び北軽井沢大学村組合、北軽井沢観光協会並びに町民の方々、その他関係者の協力、ご支援に深く感謝申し上げる次第であります。

 平成20年10月吉日  長野原町 長野原町教育委員会


  


まずは旧北軽井沢駅から旧栗平駅までを探索。当たり前のことだが、別荘地内の旧線路跡は、道路として使われているところとそうでないところで雰囲気がずいぶん違っていた。浅間神社を越えて少し歩くともうかなり薮化している。まもなく森林化するだろう。

しかしこの浅間神社はまた味がありそうな…今日はよく見る時間がないので、今度もう一回来ようかな。


  


浅間神社から北軽井沢方向に数十メートル進んだところに、小矢沢橋梁跡がある。傷みが激しい状態だがこれまでの橋梁を見てきて知っている人なら、気づくことができる。ここも「草軽鉄道小矢沢橋梁跡」の看板がぜひほしい。また、ここでは石が縦に積まれていることに注目してほしい。

そして旧栗平駅跡へ。この建物には旧草軽電鉄職員さんの奥様である方がお住みになっていらっしゃっていて、宮川さんは以前会話をさせていただいたそうだ。ここは、かつての社宅だったのだ。


  


またこの付近で、宮川さんがクイズを出した。この日聖産業の看板とミラーのある急カーブ、ここからどちらに線路は進んだのか?という質問。前回は皆正解だったらしいが、私にはわからなかった。ここから県道ではなく別荘地内を走る道は、カーブが急すぎるように見えたからだ。

しかし宮川さんは別荘地内を進んだと考えている。その理由は、県道の方には橋梁の跡はなく、別荘地の方に橋梁の跡があるからだ。しかしよく見つけたなあ。

この橋梁は、道路にしては幅が狭く、草軽電鉄のサイズにはちょうど良いのだ。しかし、ここで問題がある。これまで見てきた橋梁は、唯一を除き全ての石が縦積み(布積〔ぬのづみ〕)である。しかし、ここは菱形積み(正確には谷積〔たにづみ〕)となっている。ここが判断の難しいところ。果たして本当に草軽電鉄の橋梁跡だろうか?

唯一見た谷積は、吾妻川橋梁跡。今の三原大橋の横にある。しかし、橋梁も川の中のものは布積(橋脚)、陸地に接するもの(橋台)は谷積にしたのではないか?そういう目でチェックしてきていないので、次回確認しなきゃ。


  


次に、国境平駅跡から二度上駅跡へ向かう。プレジデントゴルフ場の奥、通行止めの付近から森に入る。

おお、なんだこの洒落た建物は!インタープリター会の事務所にぴったりではないか。…そうでもないか。ここはかつて開発しようとしたのだが、やめてしまった地域なのだろう。テニスコートとかが放置されており、どんどん荒地になってきている。

そうして、旧草軽電鉄跡に出た。この道をしばらく歩く。


  


盛土を行った跡がかなり見られる。ここは急斜面だし、大変だったろうなあ。

おっ、シカの足跡。カモシカニホンジカかは私ではよく解らない。この足跡に続く形でけものみちが見られる。いい素材だ。このコースの下に流れる川は熊川であり、熊の気配もかなり感じる。おお、ここは神々の森か。


  


黒光りしている石を拾って手にとって見る。初めは石炭かと思ったが、横にしてみると層になっている。黒と灰色の層が縞模様に見えるが、植物体が泥沼地に沈み長い年月をかけ凝結したら、炭素化した植物体と固まった泥の層がこのように縞模様になるような気がする。つまり、これは蒸気機関車時代、あまり燃えそうにない、良くない石炭を乗務員が窓から放り捨てた…とか、どうかな?

とりあえず持って帰っておこう。

そして二度上駅跡へ。閉鎖後、この駅舎は解体もされずに放っとかれたのだろうか?土に埋もれかけた駅舎跡が、廃墟の様相を濃くする。二度上駅の名の由来は、栗平駅から硫黄など鉱物を新軽井沢へ運ぶ際、ここまでの道が急だったので貨車を二度に分けて運んだからだそうだ。メインストリート上でもないこの駅は、本当に忘れ去られた場所なのかもしれない。

このコンクリート構造物は、長日向駅跡付近でもあった。一体何に使ったものなのだろう?


  


帰ろうとした時、ふと目に入った大きな桜の木。かつて二度上駅舎のシンボル桜だったのだろう。古い幹は朽ちてしまっていて、現存の幹からも不定根が出ている。まあ、まだまだ生き延びるのだろうな。

どうも桜が密集しているように見える。そして何か私にメッセージを発しているように感じた。少し近寄ってみた。

すると、桜の古木は並んで立っていた。そうか、ここは駅から続く並木道だったのか。この桜並木の下で、出会いや別れ、再会、さまざまなドラマがあったのだろう。私が来るのを待っていてくれたのか。先月会いに来れなくてすまなかった。
あなたのことを皆に紹介しよう。そして桜の咲く頃、もう一度会いに来よう。きっと約束しよう。