噴煙たなびく







浅間山の噴煙がはるか東方に、そして穏やかにたなびいている。

するべくして噴火した2004年9月1日、浅間山中規模噴火。あたりまえの事だった。

一部始終を見ていた。そのあたりまえの事で、住民はもちろんのこと行政、マスメディア、学識者、観光業者等は意馬心猿にのたうち回った。浅間山が生活に少しでも関係している人は全て、その影響は免れなかった。


この浅間山と共に生きるということはどんなことなのか。皆真剣に考え出した。そして地域社会では浅間山麓国際自然学校や浅間山ミュージアムという団体が生まれた。

浅間山はいつだって、人間のせこせこした活動にも、エゴイズムに囚われた一挙一投足にも意に介したことなどない。だからこの山は大明神なのだ。

忘れた頃にまた跳ねる…のではない。忘れようが忘れなかろうが地球のバイオリズムで跳ねるのだ。一切の山水は永遠の命としての仏の姿であると同時に真実の自己の姿である。言うなれば噴火を受け入れてこそ浅間の民なのだ。


「魚行いて魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し、浅間跳ねて火山にありき」


人と浅間山との位置関係が正された1年半だった。また跳ねてもこう思えるだろうか。