東吾妻町の『岩下城址』 を探検しました。
【シリーズ】戦国真田の吾妻侵攻と、あがつまの山・里・花を訪ねるエコツアーhttp://ecotourism.or.jp/sengokusanada.htmlを実施中です。
4月26日(日)『雁ヶ沢城址』と『根小屋城址』探検エコツアー
http://ecotourism.or.jp/sengokusanada/gangasawa-negoya01.html
を「東吾妻城壘史研究会」主宰の冨澤朗さんにご案内いただいた後、岩下城址も連れて行ってくださいました(記事整理の都合上、翌々日の28日としてアップしました)。
岩下城址に関する詳しい解説は、冨澤朗さんHP『岩櫃城興亡史』の岩下城のページをご覧ください。
今日は私を鍛えるためにいろんなところへ連れて行ってくださいました。こちらは「青龍寺跡」です。館林市の茂林寺に伝わる分福茶釜伝説は、なんとここが発祥の地だというのです。
ちょっと整理しましょう、分福茶釜の伝説は、
(Wikipediaより)貧しい男が罠にかかったタヌキを見つけるが、不憫に想い解放してやる。その夜タヌキは男の家に現れると、助けてもらったお礼として茶釜に化けて自身を売ってお金に換えるように申し出る。次の日、男は和尚さんに茶釜を売った。和尚さんは寺に持ち帰って茶釜を水で満たし火に懸けたところ、タヌキは熱さに耐え切れずに半分元の姿に戻ってしまった。タヌキはそのままの姿で元の男の家に逃げ帰った。次にタヌキは、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して男は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である。
という話ですが、東吾妻町に伝わる伝説はこんなです。
昔、青龍寺という廃寺があり、いつの頃から四角和尚が住み着きました。初めは真面目にお務めしていましたが、やがて村の若者を集めて毎日お祭り騒ぎをするようになりました。若者たちが仕事をしなくなってしまいました。村の長老たちは四角和尚に出て行ってほしいと願い出ましたが、出て行くにあたり寺宝である鉄の茶釜がほしい、と言い出しました。それは困る、と断ったのですが、四角和尚は無理やりひったくって、狸のような速さで逃げ去って行きました。しかしあんまり慌てていたので、吾妻川に茶釜の蓋を落としてしまいました。なので、館林市茂林寺の茶釜は、蓋が明らかに合わせものであるそうです。また、茂林寺の和尚さんは守鶴という名前だったそうです。
いやいや、驚きましたね。ちなみに、この青龍寺の流れを組むのが、岩下応永寺である、とも冨澤さんは考えています。
ところで移動中に見たこの地層の露頭、浅間山の平原火砕流(軽石流)に似ていました。そして新しい地層。これはもしや、榛名火山の古墳時代の噴火の際に起こった大規模な火砕流かもしれません。吾妻川を越えて、左岸に、しかも結構高く遠いところまで達していたのですね。
この弁財天の周りは、昔は湧き水の池があったそうです。ここの水をかき回すと必ず雨になったとか。面白いですね。
昨年は根津さんにご案内いただいた岩下城址。一城別郭式の山城です。道路から入るので、必然的に東砦から探検となります。
尾根地形上部まで来ると、曲輪群が現れます。
横堀から南側の様子を見に行きました。小さな曲輪が5段ほどあるそうです。
東砦の本曲輪。
西に進み、一段低い曲輪が現れ、
その先が、見ごたえのある大堀切です。西砦と東砦を二分しています。
大堀切を横断して、
西砦へと渡ります。大堀切の西側のみ、竪堀沿いに土塁が見られることから、東砦が落ちた時、西砦で持ちこたえようという意図だと考えられるそうです。
西側の本丸には二つの神社があります。こちらは冨澤朗さんが(ほとんどボランティアで)施工した三峯神社。
こちらは秋葉神社。共に火難除けの神だそうです。むかし、岩下の集落で大火事があったとのことです。
西砦の北側は、ただ単なる急坂だと思っていましたが、じつはここに5段ほどの大きな曲輪が確認できるとのこと。今回は時間がないので歩きませんが、近いうちにじっくりと再探検したいと思います。冨澤さん、ありがとうございました。