第2回嬬恋村ジオパーク住民ワークショップ次第



嬬恋村ジオパーク構想に向けての動きが、かなり整理されてきました。これまで挙げられてきた、或いはすでに認知されているジオ資源を事務局が取りまとめ、今年度成果として「ジオ資源リスト(原案)」「ジオ資源ストーリー(原案)」を誕生させるということです。





原案であるジオ資源、ジオ資源ストーリー共に、事務局(CeMI)が作ってくれたが、やはり地元の会社ではないし短期間だったので、量も詳細情報も十分ではありません。他地域の「ジオパーク」の取り組み様がどの程度なのか解りませんが、私としてはまだまだ深いほうが、そして他説をガンガン盛り込んだほうが面白いと思います。


教育委員会や郷土資料館が持っている文化財資料をまずはそのまま転記してもらえば、もっと地元の味わいが出ますね。これからやる仕事なのかな?


ワークショップで出ていた話題のいくつかを書き残します。


★「外輪山という表現は良くない。外輪山の定義が曖昧で、火山学者はもう使っていないはずだ。しかも浅間山は形成期によって火口位置が異なっていて、関連付けた解説が困難である?」

外輪山【がいりんざん】kotobank-世界大百科事典 第2版の解説より
二重式以上の複式火山において中央丘をかこむ古い火口またはカルデラの周縁の環状山稜をいい,火口縁またはカルデラ縁とも呼ぶ。原語のsommaはベスビオ火山の外輪山モンテ・ソンマMonte Sommaに由来。後の爆裂や谷の発達による破壊や中央丘噴出物の被覆によって環状に連なっていない場合も多い。外輪山の内側は火口壁またはカルデラ壁と呼ばれる急崖で,外側は緩斜面であることが多い。複式火山【鈴木 隆介


うーん、こういう意味合いだと、浅間山でも問題なく使えそうです。別に綺麗に同心円状になっていなくってもいい訳ですから。そもそも、自然の摂理から言って完全な同心円形状になる方がおかしい。“大多数の人間が解りやすく理解できる程度のデザイン”に自然が合わす必要はありません。


★「鎌原土石なだれで大きく被災した鎌原村を救ったのは大笹村の黒岩長左衛門だけではなく、干俣村の干川小兵衛、大戸村の加部安左衛門という人物もいた。」


そう、全くその通り。嬬恋村の二人の他に、上州一の大金持ち・分限者といわれた東吾妻町大戸の加部安左衛門も鎌原村救済にあたっているのです。そして「この時(1783年)、加部安左衛門はまだ関守ではなかった。」…という意見がなされましたが、それはちょっとおかしい。ちょっと整理をしてみます。


1558年 (初代)富澤掃部介常久が大戸城主の家臣となる。
    (三代)加部八右衛門重国として加部性を名乗る。
1631年 大戸関所が設置。関守は加部八右衛門重常(四代)・一場・堀口・田中一族だった。
    (六代)加部安左衛門重行から、八右衛門→安左衛門と名乗る。
    七代目の加部安が立派な人で、酒造業麻の仲買いなどをして財産を蓄える。
    八代目も立派な人で、家業を継いで財産を増やし、、巨万の富を得る。
1783年 浅間山大爆発。財産を惜しまず、避難民の救済をし続けた。
    十代目は学問を好んだが遊興も好み、父親の残した財産も使い果たす。
1836年 国定忠治が大戸の関所を武装して手形もなしに通過(関所破り)。
1850年12月21日 国定忠治が大戸関所近くで処刑される。十一代目は、国定忠治とも仲がよく、忠治が処刑される時に最後に望んだのは、加部安が造った銘酒「牡丹」だった。
1858年 横浜開港
1859年 十二代目は琴堂と称して俳諧に熱中。横浜に進出し嬬恋村出身の中居屋重兵衛とも懇意になる。店は大繁盛したが、使用人に任せっきりだったことと、全国の俳人がただ食いばかりしていったために経営不振となる。
1864年 店を閉める。
現在、子孫は東京に在住。


という感じです。関守は何人かで持ち回り制だったのでしょうか?現地の看板では、加部安が代々関守だったと書いてあったと記憶していますが…。いずれにせよ、天明大噴火の際に、加部安左衛門は関守でした。


★「鎌原土石なだれでは、鎌原村よりももっと被害が大きかったのは、小宿と芦生田であった?」


芦生田と聞いた時、ビクッとしました。確かに鎌原のすぐ下で、吾妻川沿いで逃げ場がないような気がします。嬬恋村誌下巻を開いてみました。すると、確かな資料はありませんでしたが、村人186人のうち、死者は115人とも146人とも記録されているそうです。すると、鎌原村ほどではなかったが、鎌原村に次ぐ被害だったことが解りました。ところが、国土交通省利根川水系砂防事務所のページにはまた違った記載がありました。


国土交通省利根川水系砂防事務所 天明3年(1783年)浅間山噴火のページ
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonesui/tonesui00023.html


上記ページによると、死者数は鎌原483人、芦生田23人、小宿57人となっています。長野原町の小宿が載っていのは助かりましたが、芦生田の被災状況は迷宮入りです。とはいえ、鎌原村よりも酷い被災状況であれば、もっときちんと文献に記載されているはずです。極端な言い方には気をつけたいものです。あ、東吾妻町原町は0人ですね、ラッキー。


小宿には、古武道である馬庭念流の道場があったそうです。馬庭念流の公式HP
http://www4.plala.or.jp/nenryu/


の、歴史と系譜ページには、確かに「十三代高重の代に上野国吾妻郡小宿村(長野原町応桑小宿)に移り住み、さらに上州多胡郡馬庭村に移転した…」とありますが、道場があったとは書いていません。でも、住んでいればそこは道場になってしまいますでしょうね。また、常林寺も小宿にあり、周辺では最も文化が栄えていたのではないか?とのことです。うーんなるほど。


いやーこういう地元のコアなネタ情報を聞かせてもらったり、考察、調査してみたりできるのは楽しいですね〜こういうのばっかりなら、いくらでも参加していたいんですけどね〜


…さー仕事仕事。






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