村の長老たちと座談会
前川さんが、「座談会 嬬恋村の歴史を知ろう!」というイベントを企画してくださった。
講師は
- 黒岩憲司さん (元教育関係歴史家)
- 田村喜七郎 さん(元役場職員文化財保護に努める)
- 土屋澄孝さん (現在資料館ガイド、友の会会長)
のお三方。
長老たちが話してくれたことで、私がメモしたことをここに書いておく。
- 六里ヶ原はススキがなびいていて、海のようであった。だから沓掛街道でなく沓掛海道と書いた。海の中を歩く道。
- 大笹は1700年代に最も栄えた。
- 長野原や大笹は、明治の建て替えの時越後から大工を呼んで建てた。元禄時代、新潟の影響が建築にあるとしたら、沼田藩であったからであろう。
- 大前・農村環境改善センターから鎌原への道は直路(すぐじ)という。
- 大前の明礬屋(みょうばんや)は信号のところ、右側のお家。つり天井の武家屋敷。
- 明礬沢が鎌原や大前にある。
- 明礬屋の売上が嬬恋の総売上の半分ほどを占める時もあった。大笹のかないやは明治元年に完成。
- 1355年、後醍醐天皇が鎌倉幕府から逃げながら嬬恋を通った。報酬には硫黄と米が渡された。
- 北国街道の宿場は12、嬬恋は2つ。荷物が大変だった。
- 上野村に日本武尊に関する石器が出ている。碓氷峠の地形は臼に見える。
- 万座鹿沢口駅の裏の崖に千曲川層が地表から80mの位置に露出している。これと同じものが白砂川と小諸に見られる。
- 柳井沼は古文書にはっきり書いてあるものが出ている。
- 柳井沼は毒水だった?
- 鎌原土石なだれ1億7千万トンのうち、7千万トンが水であった。
- 熊の清水、藤原の上に行くと水の音がする。そこに柳井沼があった?鎌原用水の2キロ上あたり
一部、話があべこべなものもあるが、おもしろい話が聞けた。
田村喜七郎さんには今後もいろいろと教えてもらわなくてはならない。
澄孝さんは、長野原町の溶岩樹型の写真を見せてくれた。