浅間火山エコツアー研修会



6月9日の中学生団体に小浅間山登山を実施する計画は流れてしまったが、今後、大人相手に浅間火山エコツアーと称して小浅間山登山をやろうと思う。ただ山登りするだけではなく、火山としての浅間山を学習しながら歩くツアーだ。

登り始めて間もなく、大きな岩がごろんと転がる。早川先生に「これは?」と聞かれると私はすかさず、

「これはこの登山道を造る際に重機が入り、下から出てきた岩を横に出したんじゃないですか?だって天明の噴火の上、さらにその後の土壌の上に転がっているのですから。」と答えた。

しかし、一緒に藪の中に入ってみると、あらま、数十メートル入ったところにも同じ種類の岩がある。ここで早川先生得意の考えさせる手法が入る。うー、早く答えを言ってほしい…

どうやら、答えは山頂から崩落した、小浅間山の溶岩(20,800年前)だそうだ。「大雨で軽石の層が流されてしまったのではないか?」という意見もあったが、軽石層はそんなに簡単に流れるもんじゃないらしい。そうか、だから軽石でも大量に降れば森林は無くなるのだ。

登山道途中で形の良いパン状火山弾を見つけた。…しかしこの火山弾は新しいように見える。一体いつのだろう?


  


あの山頂の溶岩が崩れたのだ。ああ、なるほど、あれなら何かの際に崩れるよな。あれを先に見ておけば俺だって…

浅間山の溶岩には角閃石(かくせんせき)が入っている。離れ山の溶岩には黒雲母が入っているそうだ。

浅間山から浅間山に向かう禁止されている登山道には、ちょっとした地層が露出しているところがある。ここでは、急斜面すぎて天明噴火の軽石層が維持できなかった。平地で180センチあった軽石層も、ここでは20センチくらい。

浅間山に登ると、軽石の色が黒くなってくる。Bスコリアのお出ましだ。


  


浅間山を登る。浅間山の寄生火山だができたのは2万0800年前と、とても古い。しかしその後、1万5800年前に起きた浅間山最大の噴火、平原火砕流に覆われたらしい。その上に1108年のBスコリア、1783年のA軽石がのっている。表面が軽石だらけなのに早川先生の地質図には平原火砕流と書いてあるので混乱する。

旺文社の“山と高原地図”のコメントには「山頂付近は火山灰土」と書いてあるので、山頂の軽石は風で吹き飛ばされ、その下の平原火砕流の火山灰土が見えている…ということだろうか。ならば二つのピーク間でも北西斜面のA軽石は風で洗い流されBスコリアが露出し黒く見え、南東斜面はA軽石が残っていて白く見えるのだろうか。

浅間山山頂から嬬恋方面を望む。雄大浅間山鬼押出し溶岩流、舞台溶岩、六里ヶ原、そして旧嬬恋湖、そして植生繊維の変化の様子。説明もいいがじっくり見てもらえばそれで十分な風景だ。

せっかくなので早川先生に旧嬬恋湖についての話を伺った。

≪早川先生の旧嬬恋湖について≫

 ・高羽根沢で見られる地層(高羽根層)に青黒く見えるのが湖底堆積物の旧嬬恋湖の地層。
 ・25万年前には旧嬬恋湖はあり、5万年〜10万年間は湖だった。20万年前には湖がなくなった。
 ・高羽根層には四阿山軽石が挟まっており、その下に九州からきた火山灰があった。
 ・旧嬬恋湖には、烏帽子、村上、湯の丸などの噴火の堆積物がみられる。
 ・浅間山の堆積物はない。浅間山は5万年〜10万年前から生まれた山だ。
 ・よって旧嬬恋湖には、浅間山が映っていた事実はない。しかも、吾妻川浅間山によって堰き止められて旧嬬恋湖
  になったという説も間違っている。


ガーン、旧嬬恋村には浅間山が映っていたと、どうしてもお話ししたかったのだが…地質学的に問題があるなら、やめておこう。四阿山は28万年に最後の軽石を出して活動をやめたらしい。では旧嬬恋湖層の下に四阿山軽石があるのか。いつか見に行かないと。


  


浅間山山頂付近にあるイノシシの掘った跡を、どなたかが2004年噴火のクレーターだと発表しているという。その穴がどれのことなのか実際に見て真偽を確かめたかったなあ。私も、実はひそかに前掛山山頂付近のクレーターを見て回ったことがあるのだ。あの時の岩の炸裂の様子は凄かったなあ。

ここで、せっかくなので白糸の滝の粘土層について聞いてみた。あそこにも、湖があったのかと。しかし、早川先生も浅間牧場から白糸の滝付近の明確な形成史はできていないそうだ。あの辺は分水嶺であるのに山の稜線ではなくなだらかな丘陵地となっていて、とても不思議だという。あそこに湖ができるプロセスが浮かんでこないようだ。

見晴らしの良い場所で、昼食をとる。山頂よりもここのほうが風が弱まっていい。

林内の登山道で見かけた大きな樹木はアズキナシ。登山道沿いなこともあり、いろんな人の落書きがあった。まあ、木も気にかけてもらって喜んでいるだろうが、木の恩恵は独り占めされては困るので、落書きはお止めになってください。


  


六里ヶ原ブルーベリーに車を止めて浅間山を見る。小浅間山浅間山側に木が生えていないのは、風が強いことと火山ガスの影響である。そもそもここは吾妻火砕流があった場所なので景色が良い。吾妻火砕流の南端は片蓋川まで流れた。

ということで、片蓋川を見に行くと、おお、確かに川の北側にだけ明確な火砕流がある。吾妻火砕流は600〜700℃と高温だったために溶結しているのがポイント。傍目には溶岩そのものに見えることもある。

吾妻火砕流の下には1783年噴火の際の火山灰層、A軽石層があり、その下には約40センチの森林土がある。さらに下には1108年噴火のBスコリアがあるが、その前の森林土の間に細かい軽石の層がある。これを、安土・桃山時代(1568-1603?)の噴火のものと見立てているそうだ。1596年?1598年?

以下に、早川先生の見立てが書いてあります。
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/volcanoes/asama/asamasiryo/honbun.html

先生が持っていた土を削るアイテムはねじりホーというそうだ。天明の噴火の軽石層は薄く、小浅間山登山口で見たものと違う。やはり大きいものはここまで飛ばないのかもしれない。1783年7月26日の軽石だそうだ。片蓋川は元々あったのではなく、吾妻火砕流の縁を選んで流れたらしい。


  



最後に応桑の流れ山を見に行った。ここは塚原土石なだれの離れ山。場所は西吾妻自動車教習所のすぐ隣。

小山というか丘の山頂には祠が祀ってあった。ここで何かできるプログラムはないか?と言われたが、樹木の大きさは中途半端だし、浅間山と離れすぎているし、どういうものかな…

浅間山側の木を伐って見通しを良くし、山頂に「コテージ流れ山」をつくる位しか思い浮かばん。しかし、ここに泊ってのメリットが感じられない。

祠があることから、かつての日本人が持っていた自然信仰、万物に神が宿る汎神論や八百万の神という考え方について迫ることも考えられるが、まー私のスタイルではない。誰か考えてください。