三原集落探検 その2



最後のコースチェック。車はJAの駐車場に置かせて頂いた。この実は、ムクゲアオイ科フヨウ属)だろうか?三原は万座にない植物が多いので実のところよくわからない。

予定のコースに井戸がある。ここは明治43年に崩れたところからそう遠くはない。この集落は井戸水が豊富で、そのために発達したのだろうが、その分、がけ崩れが置きやすい立地なのだろう。

昔の阿弥陀堂跡は、本当にボロボロになっていたが、鋸ではなく、ちょうなか何かで材形を整えた跡があり興味深い。本当はここまで上らせたいのだが、参加者の体力を見ながら決めようと思う。


  


阿弥陀堂前には、三原三十四番観音札所とある。三原で本当に三十四箇所も観音所があるのだろうか?

阿弥陀堂前の石碑、梵字は帰ってから調べると薬師如来梵字のようだ。阿弥陀堂だからといって、阿弥陀如来梵字だけではないのか。せっかくなので薬師如来の面白い話を紹介。


【吾妻郡誌1399ページ 17 湯窪の夫婦薬師(嬬恋村)】
嬬戀村大字三原湯窪に、弘法大師作なりという夫婦藥師をまつれる堂あり、其像二人立にて男女の佛像なり、湯窪は昔温泉湧出して人家などありしが、何處の頃なるか土地のもの此藥師の怒によれ、藥師は、其湯をば草のにて葉包みて今の草津の地に授けたれば、草津に温泉湧きて、湯窪の湯は遂に湧かずなりたり、人も追々三原に移りて一面の原野となれり、今に庭木らしき植木の殘れるものあり、藥師の石段には女の足跡深く残れり、之れ女藥師の足跡なりといひ傳ふ、又草津の藥師も此藥師の分靈にして、草津の名「草つゝみ」にて此傳説より来りしなるを訛りて草津となりしたりと

湯窪から越してきた黒岩家では、数年前、おばあさんが膵臓ガンになってしまった。易者に見てもらったら、何か大切なものを粗末にしていると言われたがその時はわからなかった。その後、息子さんが黒い箱に入った薬師如来像を押入れから出した。しかしおばあさんは亡くなってしまったのだが、剣持豊彦さんや老人会を薦めていたように、薬師如来阿弥陀堂へ安置してほしいと遺言状にあり、現在の位置に納まった。もう一体は山本一太国会議員出身の旅館にあるという(親戚?)。

薬師如来は肘や膝などが欠損しており、恐らく身体の悪かった人が良くなるように拝むたびに痛むところを撫でたせいだと思われる。

清水法水の梵字は、よく見ると大日如来だった。危ない危ない、毘沙門天をあらわしている梵字と見間違えていた。


  


清水法水のある場所は草津や沓掛(軽井沢)、毛無道(長野善光寺)方面への三叉路としても重要。向かいの古民家は清水屋、出し桁を支える扇子形化粧彫り頬杖(ほおづえ)が赤い模様があって美しい。かつてはこの街道一の大きな商店で、2階は細工のガラスが入っていた。米、酒、塩、薬、たばこなどの専売品のほか、蚕の種も販売していた。蚕の種に病気が出て失敗したこともあったらしい。

小学校を下ったところには大日如来、相対道祖神がある。大日如来明治43年の洪水の際に黒岩書店前に山から流れ出てきたもの。おトキばあさんがお堂を作り奉ってあったが、草軽電鉄廃止の区画整理の際にここに移動した。相対道祖神嬬恋村に24体あり、三原にはそのうち2体ある。村の集落入口に据え、村の守り神の役目をした。旅人の安全をお参りする場所でもある。

よっしゃ、だいたいインタープリテーションが見えてきたかな。明日の案内が楽しみだ。