小串鉱山跡と浦倉鉱山跡チャツボミゴケ大群落 学習会 〜 嬬恋歴史研究家下谷通さんと行くシリーズ 〜 実施






小串鉱山跡と浦倉鉱山跡チャツボミゴケ大群落 エコツアー素材学習会を実施いたしました。

当日の実施状況をレポートいたします。













JR吾妻線万座鹿沢口駅に集合し、乗り合わせて群馬県嬬恋村と長野県高山村との県境・毛無峠に来ました。偽高山帯の風景が広がるこの場所がスタート地点になります。この地域の気候や植生、そして私なりの破風岳−毛無山−御飯岳−老ノ倉山旧火口説をお話しし、今日の講師・下谷通さんにバトンタッチ。
結構な人数が集まりました。募集要綱に「屈強な男女」と書いてありますので、そ−ゆーメンバーが参加しているはずでございます…



  


通常は通行止めになっている林道をジグザグに降りて行きます。



  


スタートしてから数百メートルで、小串鉱山にショートカットできる道があります。そこを下って行くと、





かつて700人余りの社員が勤務し、家族を含めると2,100人以上の人々が暮らしていた、国内第二位の大硫黄鉱山・小串鉱山が迫ってきます。しかし、よく使われる「天空都市」「空中都市」の表現は、適切かどうかわかりません。標高1,823mの毛無峠の上を硫黄搬出のための索道があったものの、人々が住んでいたのは標高1,550〜1,650mのあたりでした。坑道や関連施設はもっと高いところにもありましたが…



  


戦前、草軽電鉄の草津駅長が鉱山事務所へ移ったら給料は2倍になった程、景気が良かったそうです。地域への貢献は税収のみならず、草軽電気鉄道の敷設、金融など波及効果はとても大きいものでした。
朝鮮戦争時(1950年)には1トンあたり8千円から7万円に跳ね上がり、黄色いダイヤと呼ばれましたが、昭和30年代に入ると資源の枯渇に加え、石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となったことで生産方法は一変しました。エネルギー転換に加え大気汚染の規制が強化されたことから、石油精製の過程で発生する硫黄の生産も急増し、硫黄の生産者価格の下落が続いた結果、昭和40年代半ばには国内の硫黄鉱山は全て閉山に追い込まれたそうです。小串鉱山も1971(昭和46)年に閉山となりました。現在、国内に流通している硫黄は、全量が脱硫装置起源のものです。



  


1937年(昭和12年)11月11日、午後3時半に小串鉱山の背後の斜面が「ドーン」という地鳴りとともに幅30m、長さ700mにわたって地すべりを起こしました。死者245人を出した「小串の山津波」です。山津波の跡は今でもかすかに残っています。二股に分かれるところを、写真の方向ではなく、右下に降りていきます。すると、事故現場近くに慰霊のために建立された御地蔵堂に到着します。建立者は小串鉱山経営者、北海道硫黄株式会社・代表取締役 古川俊雄氏だそうです。



  


御影石でできたお地蔵様は身の丈1.8m、台座から頭頂まで2.7m・重量1,000kgだそうです。6000尺地蔵と名がついています。6000尺はメートルだと1,818mで、標高1,827mある毛無峠を越えてお参りに来るので6000尺地蔵としたようです。6000尺の峠を越えてくるので根性と力が授かり、厳しい社会を強く生き抜け「家内安全・祈願達成」の守り神だそうです。(御地蔵さん自体は標高1,680mくらい)


硫黄鉱山では史上最悪の245人の死者を出した事故でしたが、すでに日中戦争が始まっており火薬で使う硫黄は重要で、国策として復興が後押しされ、翌年には操業を再開したのです。



  


ここから降りていく途中、左側の廃墟には、硫黄の粒が転がっていました。以前に持ち帰り火をつけて見て、有毒ガスが発生しえらい目を見たことがあります。



  


精錬カスの山ではなく、かつての住宅街を目指します。小熊の足跡らしきものがありました。



  


左折して、いよいよ住宅街の中へ。すぐに周囲は笹薮になり、





笹の丈はたちまち人の身長よりも高くなりました。





ようやく、かつての村立小串小中学校グラウンド前に来ました。帰りは、ここを登って帰ろうと思います。



  


かつて小串の安全と繁栄を守った「山神社」が標高1540m地点にありました。



  


このあたりから、本格的にツキノワグマの生息地になります。防衛のためのクマ撃退スプレー、ナタなどを装備します。



  


なぜか神社あたりは歩きやすかったのですが、やはりすぐに笹に埋もれて進むことになります。



  


シナノキの幹肌に傷があります。恐らくはツキノワグマの木登りの跡です。ツキノワグマは、何も食事するためだけに木登りするのではありません。木の上でも生活する熊なのです。



  


何度か道を間違えそうになりましたが、無事、次の目的地に近づいたようです。



  


階段を下りると、大きな鉄の容器がごろん。これはおそらく、ボイラー設備のものでしょう。




来ました。迎賓館です。小串鉱山に来た大事なお客様を、ここでおもてなししたのだそうです。



  


ほかの建物が次々と風化崩壊して行っている状況なので、このくらいだとよく残っているとすべきなのか…



  


中を覗くと天井が崩落していて、かなり傷んでいます。やはりコンクリート建築物はこのくらいのものなのでしょう。



  


水分補給をして、さらに下って行きます。それにしても、ツキノワグマの糞もなければ匂いもしません。実は、さっきの迎賓館跡が一番ケモノ臭かったのですが…。以前、6月4日にここに来たときは熊の糞だらけで、前を歩いた人が糞を踏んでしまい。歩くたびに飛び散らかして大変なことになってしまいました。だから、今日は「熊のうんちを踏んだら、最後尾を歩く」と決めて歩きました。



  


このまままっすぐ行けそうな道ですが、正規ルートはここを右に曲がります。業務車両用の道かたが残っているのでしょう。こういうところがあるので、一人では来てはいけません。



  


このあたりからは、すでに浦倉鉱山構内です。荷物を一箇所にまとめて置いて、



  


眼下の崖を下っていきます。結構足場が悪いので注意。





来ました、これが「猪の口」と呼ばれるところです。驚きました、2010年6月4日に私が来た時にはここは一面のチャツボミゴケで覆われていたのです。水の流れが変わったのでしょう。つまり、チャツボミゴケは酸性水が十分に被る場所じゃないと成育できないということです。





奥の方はしっかりチャツボミゴケに覆われています。それでも、六合村の穴地獄/チャツボミゴケ公園の規模からすると、その半分もありません。誰だ、勝るとも劣らないなんて言ったのは!→TSさん話がでかいぞ注意。



  


しかしこの足元の枯れたコケが、本当にチャツボミゴケなのでしょうか?湧水口はしっかりと生育しています。



  [


下の方を覗いてみると、湧水は一旦地面の中を流れ、その後また地表に出ているようです。水の中には藻のようなものも見えます。草津温泉湯畑にも見られるイデユコゴメでしょうか?



]  


油断していると、こういうことになります。地面が陥没してドボン!これは危険だ。



  


落ち葉が湧き水の川に落ちると、それを結晶核として鉄鉱石が成長していきます。おお、大きな崩壊岩です。浦倉鉱山が閉山したのは昭和40年(1965年)、50年近く経っています。その期間でこの鉄鉱岩塊は形成されたのですから、鉄鉱床ができるスピードは思ったよりもかなり早いようです。



  


あの感じ、チャツボミゴケらしいモコモコ感です。近寄ってみると、おやこの形は…やはり、猪の口全体を覆っている、茶色く枯れた苔は、みんなチャツボミゴケなのでしょう。




  


回り込みながら、慎重にこの鉄岩塊を下っていきます。




 


赤川との合流地点です。ここより上流でもこのように川床が赤いのかは知りません。





酸性水が流れ、チャツボミゴケが繁殖しコケと鉄の層でどんどん高くなっていき、やがて崩れる。そんなストーリーが見えてきます。



  


左回りにこの湧き水を攻めるにはここを登らなくてはなりません。崩れる可能性大です。絶対に真似しないでください。



  


足元では先ほどの落ち葉を結晶核とした鉄鉱石が、葉の葉脈まできれいに映し出した状態で堆積していっています。この様子を見られることもなかなか無いと思うのです。





「猪の口」をこの方向から見る人は、一年に一人もいないでしょう。今では猟師さんだって見るかどうか。



  


お昼ご飯を食べて、小串鉱山に戻ります。足元にはウメガサソウが。



  


下谷さんが叫びました「ストーップ、蜂がいる!イテッ、刺された!」
前の人の姿が見えない程の笹薮の中で、この声は怖いです。今日はスズメバチが頭の上を幾度となく旋回していましたので、こういうことがあるのでは、と心配していたのですが…。芽吹きの頃だと熊と出くわす可能性があるし、やはりここは厳しい上級コースです。ちなみに蜂はジバチで大ごとには至りませんでしたが、下谷さんは4カ所刺されてしまいました。



  


精錬のカス山まで来ました。転がっているのは硫黄を取り出した後の鉱石でしょうか。この精錬カス山は浅間山塊からもよく見えるほど大きいものなのですが、最近はバイクのオフロード車が盛んにこの山を攻めているそうなのです。急斜面に車輪の跡が見えます。



  


このカス山の段差の下をまわり込んで進みます。セトモノ食器の欠片が転がっていたりします。





「探検」している雰囲気が出ていますね〜





かつて、硫黄精錬のための施設の建造に使われたであろう大きなレンガがごろごろと転がっています。



  


元気のいい人はこの後、カス山を直登しましたが、私たちは一般のお客様をご案内するルートを取ります。ゆっくり回りこむルート。



  


Nさんが撮っていたので私も真似て。SKというのが耐火レンガの証拠。段差をうまく利用して登ります。



  


しかし、最後は直登になってしまいました。





康治さん、もう少しです、ガンバ!



 



上から見た風景。昔万座時代、一人でこの風景を見に来ていた頃、このカス山の下に降りることは考えもしていませんでした。高いところにグラウンドがあり、それが旧小串小中学校のグラウンドだとばかり思っていましたが、それはなんと東海大学嬬恋研修センターが今のバラギ高原に造成される前に、この小串鉱山跡に造ろうとしていた名残だったのです。あまりにも崩れやすくてダメだったので、代替地として国が今のバラギ高原を提供したそうです。



  


天然石でもない、石炭でもない。…コークス? 来た道と同じルートに戻り、御地蔵堂へ。お堂の隣に物置があります。



  


そこには、山神社に関すること、いわれなどが書いてありました。この物置の上には山神社の拝殿額が飾ってあったのです。なるほど、あの山奥に放置しておけば朽ちていくのみ。ここに持ってきたのは大正解です。ただし、山神社はあの、1929年に小串の繁栄と安全を守る御社としけ建立されたのですが、1937年(昭和12年)、245名死亡の山津波の事故後は廃社となったそうです。





ノギランがいたるところに咲き乱れ、私たちを見送ってくれました。
どなたかをお連れして、また来ます。山神社の山神様、今度は、あなたさまの護ってきた大切な山を乱暴にしたりはしませんから、どうかご加護を。ごきげんよろしゅう。






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