湯倉洞窟へ

下谷観光商工課長から聞いた。なんと、毛無峠から長野県側に流れる湯川沿いに、縄文時代の石器などが出土している洞窟があるというのだ。何と!早速行ってみなくては。

毛無峠の道は、もう路面凍結のため冬期閉鎖寸前。いくつかの花の種も採取したかったし、ちょうどいい。行ってみると、樹氷がもう当たり前になってきている。富貴の滝も、凍結していた。

峠の手前1kmから右に入って悪路を走る。15分くらい走って、かなり山が深くなってきたところで、ようやく入口が合った。


  


看板は小さいが、そう古くはない。人の手入れが入っているのかな?

しかし進んでいくと、結構な悪路。連れは引き返して車で待っていることにしたようだ。ま、戻って正解だったと思う。私は転んで上着に泥がべったり、靴はぬかるみにはまって汚れてしまった。

徒歩10分と書いてあったのに、一般人には10分では厳しい。15分くらい歩いて、ようやく湯倉洞窟に着いた。


  


ほほう、これが湯倉洞窟か。万座の熊四郎山洞窟よりも一回り大きい。岩にヒメシャクナゲがビッシリ張り付いて、これまた花の時期にはたいそう美しいだろうなと思う。奥に、もう一つ岩窟があった。

現地の案内板は文字がはがれてしまっている。いろいろと知りたいことがあったのに、惜しいなあ。

予定より時間オーバーで急ぎの帰り道、この森にはブナがかなりあることを確認した。縄文人の食べ物はツキノワグマと一緒。当時は最低4℃は気温が高かったらしいが、この高地ではどのくらい影響したのだろう。極地のほうが温度差が大きいと聞く。

私は、縄文人の生活は、定住に固執せずに季節により移動をしていたのだろうと考えている。農耕牧畜を(あまり)しない狩猟採集の民であった彼らには、雪の深いところで越冬するより、温暖な南方へ移動した方が自然なように思う。夏の間の仮住まい。そんなところがいくつかはあったろう。しかし洞窟入口を木などの構造物で覆い、雪と冷えから身を隠しながら越冬していた可能性もあるか…もしくは移動することで他の部族との抗争、洞窟の占領などもあったかも知れないな…。

うーん、やっぱ縄文人移動説を(勉強せずに)唱えるのはやめよう。