9月11日明るく楽しい浅間火山学習会



今日はインタープリター会のフォローアップ講座、群馬大学教育学部教授・早川由紀夫先生の案内による「9月11日明るく楽しい浅間火山学習会」の日。浅間山に関わる人であれば早川先生のことは誰でも知っているし、私もメール等でやり取りはさせていただいてはいたものの、先日、吾妻四か町村連携講座で長野原町が、午前中は早川先生の講話、午後は当会の自然観察会…という企画をお組みになり、そのおかげで早川先生と当会のご縁が生まれた。大変にありがたいことである。

当日は気持ちのいい快晴。浅間山が良く見える。今日の参加者は14名、+早川先生+学生2名

学習会が始まると、群大の学生さんが早川先生の【浅間火山北麓の2万5000分の1地質図】のパネルを持ってくれた。助かった。今日は私は進行したりメモを取りたいし実施風景写真も撮りたいので手伝っている暇はないのだ。

浅間火山北麓の2万5000分の1地質図(電子版)
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/asamap/index.html


  


覚え書きとして綴る。

・かつて、鬼押出し溶岩は6日以降に流れ出てきたと言われていたが間違い。1783/8/2から2日半降り続いた軽石と同じ時期に火口から溢れ出ていた。鬼押出し溶岩流が先に流れていたのでその後(1783/8/4)に出た吾妻火砕流は二手に分かれた。

・4日の夜が噴火のクライマックスで、一晩中爆発音がしていた。その音は東京、大阪まで聞こえていた。そのクライマックスが終わっていた1783/8/5/10時に悲劇的な鎌原土石なだれが発生した。

・浅間園の駐車場横のそり遊び場には吾妻火砕流はない。

鬼押出し園で見えているものは一部を除き、ほとんどは溶岩ではない。スコリアと呼ばれる黒い軽石である。鬼押出し溶岩は厚さ100mあり、その上部にある「溶岩に運ばれた軽石」をここでは見ることができる。軽石だからこそ、高さのある縦長の状態のまま固まり、このような奇勝風景になった。

四阿山の火口は28万年前のもの。その際に蓑原軽石を出した。

草津白根山は30万年前にできた。鏡池は5千年前の噴火にできた。

・鎌原土石なだれは、1,000℃の鬼押出し溶岩が見晴台直下付近にあったと思われる柳井沼を覆うことで水蒸気爆発(1783/8/5/10時鎌原熱雲)が起き、一気に北側になだれ出した。プリンスランドや北麓に点在する巨大な岩はその欠片であり、鎌原土石なだれの離れ山ということができる。

・鎌原熱雲の音は東京はおろか関西まで聞こえたと古い文献に載っている。4日夜の噴火クライマックスとは別に。

・古い文献をあさると、人から聞いて纏めた本には山頂から鎌原土石なだれが発生したと書いてあるが、実際に見ていた人間として書いたようなものには、中腹から発生したと書いてあるものが多い。


  


浅間園Dコース、見晴台から少し進んだ地点で、安山岩である鬼押出し溶岩がブロック状に割れたところがあり、この溶岩流がどのように流れてきたのか図で示してくださった。ドロドロの溶岩の周りをスコリア軽石が囲み、キャタピラのように回りこんできたのだ。

Dコース後半ではスコリア軽石が溶岩の中に巻き込まれてできた、両者が一緒になったような石が見られる。スコリア軽石は三価鉄を含み、また気泡があるので空気に触れやすく、酸化して赤くなる。溶岩には二価鉄が含まれ、気泡もなく酸化しにくいため二価鉄の青さが残っている。

最後の橋がかかっている深い谷は、川がつくったものではない。これは鎌原土石なだれがつくった馬蹄形凹地を鬼押出し溶岩が埋めようとしたが埋めきれなく残った谷である。


  


午前中、最後の橋を渡った辺りにある休憩所で、炭の欠片があった。早川先生は「これをインタープリテーションに使ってみては?」と仰る。1783年噴火の際に燃えた木ではないか?とのこと。しかし、周囲の状況から言ってこれはバーベキューで使った後のものである可能性が高い。調べておくように宿題をもらったが、一体どのように調べたらよいやら!?

お昼ごはんは、早川先生お勧めの「かんぱーにゅ」でパンを購入。参加者の皆さんも一緒にいこうと誘ったが、みんな弁当を持ってきていたようだ。

北軽井沢 カフェベーカリー かんぱーにゅ
http://kitakaru.net/kanp/


  


午後は乗用車に分乗し、いくつかの地点を観察。初めは北軽井沢ふれあい広場付近で地蔵川を見る。この場所は、追分火砕流(1108年)の堆積物が良く観察できる。この付近は1108年しか被災してらしい。「この森はそのまま手付かずのものですか?」の先生の質問には、ノーと答えた。噴火による撹乱が一次遷移(基質に全く生物を含まないところから始まる遷移)とは言え、噴火後900年の林相ではない。これでは溶岩樹型の方が、まだ樹が大きい。

ここでいくつかの話が出た。大学村も昔は樹が小さかった、プリンスランドも、北麓は王領地の森を除きどこもかしこもである。

少し思ったのだが、先日藤本さんから借りた本で100年以上昔の旧軽井沢の写真を見たが、旧軽井沢付近もA.C.ショーらが別荘を建てた頃、見渡す限りの草原だった。早川先生にそのことを聞くと、1783年噴火の際、旧軽井沢もに50cmほどの軽石が降っているという。そのせいで樹が痛めつけられ、枯れてしまったのでは?…という話も出たが、それで解かった。樹は、地上部を痛めつけられたくらいでは枯れない。雹が降って今年の作物がダメになったとはわけが違う。樹が枯れる要因はもっと他のところにある。2級樹医として、枯れた理由は以下のように考える。

軽石とはいえ50cmも盛り土してしまっては、根が呼吸できなくなる。地下水位も上がり、土壌中で育っていた根は水浸しになり空気を求めて細根を地上部に向けて伸ばしだす。そして、その細根は乾燥にはめっぽう弱い。今年のような水不足の年があればすぐにダメになってしまう。

つまりは、旧軽井沢を含む浅間山周辺(王領地の森以外)は、1783年噴火時の軽石などの盛り土効果により、植物はダメになってしまったのではないだろうか。

      • 覚え書き ---

・灰とガスが再溶結すると横につながる力が弱く、地蔵川によって縦に深く切れ込んだ渓谷状の侵食を呈す。
・追分火砕流は黒いが安山岩、火山灰と砂の中に軽石が混じる。
・ここでの地層、黒と赤の分かれ目は一万年前。
・ここには1783年、軽石が降っている。


  


次の観察地点は赤川沿いの採石場。まず、近くの畑で、鎌原土石なだれの盛り上がり地形を確認。しかしあれ、おかしいぞ!浅間山との間にある、赤川の深い谷をどうやって越えたんだ?

早川先生は、鎌原土石なだれがこの赤川を飛び越えたと考えている。空気と岩石と土といろいろなものが混じった、圧倒的なパワーを持つ粉体流、なだれであると考えれば、確かに不思議ではないかもしれない。

採掘地点では高台に上がり、いろいろと説明をしてくださった。早川先生は褐色森林土のことをクロボクという。この地点でのお話の覚え書きは以下の通り


鎌原土石なだれの層に、赤、黒、そして別の色も見える。この土石なだれはいろいろなものを含んでいた。

1万5,800年前の噴火では、100mの厚さがある平原火砕流の後、火山灰が降り、嬬恋軽石が降った。この3層はきれいに連続していることから、この3つの現象は続けて起こった。

普通の火山が1年に1mmずつ成長するとしたら、浅間山は1,000年で1,000m成長する。突貫工事で建てたようなもので、震動に弱い。だから崩壊も凄まじい。2万4,300年の山体崩壊(塚原土石なだれ)は、高崎・前橋台地をつくった。群馬大学教育学部で10mの厚さがある。

塚原土石なだれに含まれているのは赤岩、鎌原土石なだれは黒岩

石黒耀さんの死都日本は面白い。機会があったら読んでみては。


  


一番左の写真は赤川採石場での、地層がとてもよく出ている場所の写真。

最終地点はサンランド別荘管理事務所前、大きな黒岩である。かつてはもっと大きかったそうだが割って販売したそうだ。地主さんが自分の土地のものをやっただけのことだから、仕方がないと思う。

これもスコリア軽石が大部分を占める岩。三段跳びした岩であるという。1783年噴火初めに釜山スコリア丘として出現し、それが鬼押出し溶岩流にさらわれ、さらに鎌原土石なだれによってここまで運ばれたのだ。

鎌原土石なだれでは国松さんの自宅がある西窪付近も被災した。それは高羽根沢を通ってきたのだ。私は以前、別の先生に今井発電所付近でダムとなり、逆流し西窪まで土石が来たと聞いていたが、そうではなかった。そして鎌原観音堂やなどの被災を逃れた場所をキプカというらしい。

鎌原土石なだれは、発生から2時間で前橋に達している。川を下ったスピードは50km。

そんなことで15:30頃、明るく楽しい浅間火山学習会は終わった。今回はインタープリターフォローアップ講座なので、早川先生も正しい知識をあるていどの量詰め込まさせようとしたのだろう。正直、早口で頭の回転とメモがついていけなかったところもあった。学習会としては大成功だったが、午後のプログラム、「浅間火山北麓を周遊し、風景に書き込まれた歴史を読み解く」をエコツアー商品として設定するには、車で移動しなくてはならない問題をどうにかして解決する必要がある。車で移動するとなるとタクシー周遊観光のノリになってくるし、結構な料金をいただかないと割が合わない。自転車で移動するなどにしたほうが、健康にも地球環境的にも良いのだが、はぐれてしまうに決まっている。

浅間火山エコツアーはどのようにしたら商品として設定できるか。これを追求するには私には時間が足りないかなー。本当の地元の人、浅間北麓に住んでいる人でとことん追及してくれる人が出てくれば、浅間火山北麓周遊エコツアーが商品として売り出せる日が来るだろう。