懐かしの「小串」の集い・慰霊祭



毎年、7月第四日曜日午前十時から旧小串鉱山跡で慰霊祭と小串を偲ぶ集いがあるという。好奇心旺盛なインタープリター仲間と参加してみた。メンバーは住田さん、土屋茂次さん、山口さんと僕の4人。写真は「大声の岩壁」前で。

鉱山跡はいつ見ても荒涼とした景色。まさにゴーストタウン。通常は通行止めであり車で行けないのだが、この日だけは車で下まで降りてこれる。しかも嬬恋村が去年から慰霊祭にむけて道路を整備しているのだ。来年は、この日に合わせて毛無山を登ろうと考えている。

毛無山南斜面には昭和12年11月11日にあった小串鉱山山津波(死者245名)の跡が今も残る。69年経ってまだはっきり解ることから、当時の災害の大きさを知ることができる。


  


会場は縦看板がかけられ、途中までしかいなかったが、60人以上の方々が集まった。新聞記者は来ていなかったようだ。

この中に6000尺地蔵がいる。6000尺はメートルだと1,818mで、標高1,827mある毛無峠を越えてお参りに来るので6000尺地蔵としたようだ。6000尺の峠を越えてくるので根性と力が授かり、厳しい社会を強く生き抜け「家内安全・祈願達成」の守り神だという。(御地蔵さん自体は標高1,680mくらい)

1分間の黙祷の後、焼香を行なった。


  


嬬恋村村長・松本先様が来賓として挨拶した。小串鉱山(昭和46年閉山)は一時は2000人もの住民がおり、「嬬恋村の発展に大きく寄与した」と言っていた。嬬恋村史は鉱山の歴史無しには語れない。

参加者代表者の挨拶は昭和15年から鉱山に勤めた米村茂雄様。父が山津波で怪我をした3年後に入山した。当時の毛無おろしの風の事、唯一建物としての面影を残していた自分が勤務した変電所。その外観も年々崩れ、今や風前の灯となっている・・・その切なさを語ってくれた。


  


乾杯の後、懇親会(語り合い)となる。大いに盛り上がる事が供養だという。

八町忠様は小串鉱山土地管理協会理事長、元小串鉱山労働組合長である。会社から幹部抜擢の話もあったが、終始労働者のために尽くした。嬬恋村議も2期やっている。今回、八町夫妻様とのご縁でこの慰霊祭に列席する事ができた。

宴たけなわとなり、奥様のカヨ子様がオカリナで「ふるさと」をお吹きになってじーんときてしまったが、次の予定もあるので帰ることにした。来年は、弁当を持って来ようと思った。