鎌原村

いつか、天明3年浅間焼けで埋没した鎌原村のお話を紙芝居にしようと思っている。

今日はその時のための素材を撮りに行った。

村を埋め尽くした土石なだれの上に今年も稲が実る。全てを失った鎌原村を復興させた糧は、この地力ではなく涙だった。生き残った者達は、妻を失った夫と夫を失った妻が組み合わさり家族を作っていった。尊い涙の契りよって村は再建され、涙を吸って稲は力強く実っていった。


 


天明の 生死を分けた 十五段

天明3年の浅間焼けで鎌原村を襲った土石なだれ。570人いた村人で生き残隣接する蕎麦屋、『水車』の中の看板にはこう書いてある

ったのはこの観音堂に避難したわずか93人であったという。

「前略…この時期、年内に収穫できる作物は蕎麦しかありませんでした。おそらく、生き残った人々は数々の悲しみを堪えて蕎麦を蒔き、その収穫に再起を賭けたものと思われます。ここに鎌原村の再建は力強く開始され、そしてみごとに成功したのでした。」  (郷土資料館館長・松島栄治)